座談会・米づくりから見える島の心と未来

座談会・米づくりから見える島の心と未来

小浜島の集落から大岳につづくウカー道沿いの田んぼが復活しつつある。  「ウカーいなほ友の会」のメンバーが中心となって島の文化の継承と田園風景をと田づくりに励んでいる。  島のシンボル大岳を背景に、名木・一本松、「山の子守唄」の歌碑、田んぼの畦のウラジロイチゴやテッポウユリ…。  夕方になると三々五々人々が集まって、そこは穏やかな笑顔と和やかな笑い声に満ちる。  なかなかいい風景である。  「ウカーいなほ友の会」の中心メンバーに、米づくりとそこから見えてくるもの、小浜島の将来についても話してもらった。

≪「ウカーいなほ友の会」結成≫
―みなさんは、集落の北側から大岳に広がるウカー地区は島の縮図であるとして、そこにかつての田園風景と文化を復活させようと「ウカーいなほ友の会」をつくられた。まず、お一人ずつウカー地区への思いや会との関わりなどを話していただけますか。

仲盛
 私はずっと島に住んで、いろんな仕事をやりながらも20歳からこれまで米づくりをやってきました。私は島が好きで、島の民俗芸能が好きでこれまでやってきました。島の行事はすべて神行事。その根本になっているのは何かというと、稲作儀礼なんですよね。ウカーでたまたま空いている田んぼがあったものですからそこを開いて、ちょうどそこには(黒島)精耕先生の田んぼもあって、先生は校長を退職されて1年田んぼをやって、それから教育長になられて、そしてまた帰っていらした。せめて大岳の裾野ぐらいは昔の風景をと精耕先生と話していた。小浜節には「稲粟ぬ稔り弥勒世果報」「チヂ(粒)美らさあてぃどぅウハツ(お初)上ぎる」と歌われているのに、いまの小浜島の田んぼを見ると荒れ放題なんですよね。種子取祭のときに歌う歌に「ウーカタぬ道から、バキナタぬ道から」とあるんですよ。これは神の道なんですよ。その後に続く歌詞が「山ぬ端ぬユシキ(ススキ)に、道ぬ端ぬニーバイ(チカラグサ)に」。このように根を生やして欲しいとなるんですが、ウーカタというのはウカー田であると私はずっと思っていて、精耕先生が中心になって「山の子守唄」の歌碑を建てたときに、ここはモノになるなーと。ここには一本松もある。キレイにして、誰が見ても「ああ果報ぬ島だ、米の島だ」と。精耕先生が帰ってきて、公民館長も、大盛肇君も田んぼをやり始めた。青年たちも加わった。そういうなかで去年の5月の初めに、ちょうどユリの咲くころ、うるずんの時季ですよね、この原風景のなかで「うろんつんぬジラーン」をやったんです。そのときに「ウカーいなほ友の会」をつくろうということになった。そこで精耕先生がいろいろ勉強してきて「ここは島の縮図じゃないか」と。…田んぼは田んぼらしく、畑は畑らしく…、それが私の思いですね。

黒島
 「山の子守唄」の歌碑のことから話しますが、県の教育長会議が与那国であったときに、花城正美君が久部良の校長だったので私は彼のところに泊まって酒を飲んだ。そのときに、彼が(宮良)高司先生から「山の子守唄」の舞台は小浜島だと聞いたというもんですから、「よし、分かった。君がこのことを新聞に投稿すれば、僕が責任をもって歌碑をつくる」と。そして、9月1日、彼は僕との約束を守ってほんとに新聞に投稿したわけですよ。新聞投稿から歌碑の完成までわずか2か月しかなかったんだが、男の約束だ、大変だったけども正美君と連絡を取りながら募金集めから何から走り回った。そのとき島では、仲盛さんが公民館長、北部落の会長が山城貞一さん、南部落は長田一男さん、石垣の郷友会は金城英皓さんが会長で、みんなが募金に走り回って協力して11月15日の除幕式までわずか2か月でこの事業を成し遂げたわけです。歌碑の場所は歌詞にゆかりのあるところ、ウカーの今の場所になったわけです。そしてその歌碑のところで「うろんつんぬジラーン」の歌会をもったときに、その時はまだウカー会ではなかったけども、とにかく何か組織をつくろうや、と。幸い青年たちも集まってくれていましたので、一緒にやろうなあと。そして、あれから規約も作って「ウカーいなほ友の会」ができたわけです。その間、石垣に出たときに根本宏佑先生と飲んでいて、非常に激励を受けました。「ああ、島に行ったとき気持ちいい」と。ところが、(ウカー道の)上の方は気持ちいいけど下の方が荒れているなあ、と。そこで青年会も下の方の、町長(大盛武竹富町長)の田んぼを開けるし、その下の方も田んぼをつくるようになってどんどん田づくりが広がっていった。ウカーで田んぼをつくることは僕にとってはふるさと再発見でした。そこから「ウカー文化」という気づきもあったわけです。

前泊
 昔はこの辺はもう空いている田んぼがないというくらいの水田地帯で、私の土地もこの間切りにあるんですよね。時代が変わって、だんだん田んぼがなくなって淋しい思いをしていましたね。小浜節にあるように「大岳に登てぃ うしとぅゆみ見りば」と言ってももう黄金色の稲穂がなくて淋しい。「あんたも田んぼあるじゃないか」と言われて、簡単に「やるさあ」と言ったのが始まり。会社もあるもんですからね…。しかしやってみたら、楽しいですね。今はもう、毎日、毎朝毎晩、見に行くんですけどもね(笑)。小浜は天水田ですからね、田んぼは日曜日の雨の日が最高ですね(笑)。ほんとに荒れ放題のところが、わずかな期間で今のようになったなあと。小さい田んぼですけどね、実際に自分で植えて、手入れして、稔りの秋を迎える、そして「ウハツ(お初)上ぎる」。それを神前に供えて、これは、その上もない喜びだなあと思いますね。今まではお店から買っていたお米を今からは自分でつくったお米を食べられる幸せ、ですよね。ウカー文化については、ああそうだなあ、と。そう思うことで意義も見いだせますよね。そして、これをまた自分の子どもたちが引き継いでやってくれるとしたら非常に嬉しいですね。ところが、いま僕の子どもは青年会におるんですが、青年会の田んぼだけやって僕の田んぼは全然さわらない(笑)。しかし稲作体験を通じて若い者と我々の気持ちも繋がったような…。ま、喜んでみんなやっていますよ。すべて稲から始まった神行事、大事にしたいなと思ってますし、それが若い者につながればなあと励ましながら、また彼らに負けないように頑張っていきたいと思っていますよ。定年したら? もっと本格的にやろうかと思ってますね。ハイ。

山城
 先ほど精耕先生の話に出ましたが、ちょうど北部落の会長をしたときに「山の子守唄」の歌碑建立に関わったのがきっかけで、今またウカーいなほ友の会も、私もやってみようと。私は石垣と小浜を行ったり来たりしながら、仲盛さんから指導を受けながら田んぼづくりをやっている状況で…。しかし、向こうの田んぼがどんどんキレイになっていくのに、自分のほうがついて行けない状態で、はたして自分はついて行けるのかなあと心配しながらやっています。2番目に広い田んぼなんですがね(笑)。

大盛
 米づくり全盛のころに僕は小浜で育っているわけなんですよ。それから石垣に出ましたが、田んぼの風景を見ると、たとえば名蔵の田んぼが黄金色に染まるのを見たりするとホッとしたわけです。そして4年前に帰ってきて、先輩方に教えてもらいながら、去年から自分で植えて収穫までやってきたんですが、自分で米づくりをすると「一粒たりとも捨てられんぞ」とむかし親に言われたように子どもたちに言えるわけですね。公民館の役員をして行事等みていると先輩方が言われているようにすべて小浜は米の文化の島で、ああ小浜島に生まれて小浜の文化のなかで生きることができて良かったなあと思いますね。今度は子どもたちがこのことをわかってくれたら幸いだなあと。青年会もまたよくやってくれて、ウカーは今はもう、気持ちがいい。先輩方は「仕事はできないけどもウカーの田んぼを見るとホッとする」と言っている(笑)。

≪青年会の米づくり≫
大久
 毎年、青年会で「ジュングヤ(十五夜)ヨールセーのど自慢大会」をやっているんですが、ここ数年ヨールセー(綱引き)のときの綱はカヤも混ぜてつくっていたんですよ。もとはワラでつくっていたわけだし、そういえば綱引きやっている自分たちは米をつくったことないよな、という話が前からありました。そんななかで先輩方から米づくりの話が出たので、ぜひよろしくお願いします、と。

仲盛
 3年前の成人学級で、十五夜の綱引きにあわせて、綱引きについての講話を石垣博孝先生にしてもらったわけですよ。綱引きが元だよと後輩連中に教えたくてね。私は稲作をずっとやっているもんですから、毎年時期になると「藁をくれ」とくるんですが、「おい、お前たち、まずは手伝いもやってから藁をくれと言え。それよりも自分たちでも作ってみたらどうか」と言ったんですよ(笑)。この行事で地域活性化事業の奨励賞をもらっているわけだから、このさい米づくりからどうか、と。田んぼを開けてあげるよ、苗も分けてあげるよと激励して勧めたんですよ。収穫した米は十五夜に餅でもつくって出せばいいじゃないか、と。

―それで、青年会の米づくりの様子はどうですか。

大盛
 今は田草取り。相当動いているよ。賑やかだよ、今は(笑)。

大久
 ついつい、何気なーく田んぼの近くを通ってしまうんですよね(笑)。今日はたまたま3名でしたが、昨日もその前の日の夕方も(田んぼに)10名余りいましたよ。結構楽しみだけど、みんな、腰痛いなあ、と言いながら、お互いに「ぜったい食べようなあ」と(笑)。米一粒の重さがわかるような感じですよ。あんなに大変だとは思わなかった。初めての経験だし、自分なんかはこれまでの歴史も分からないじゃないですか、だから今は先輩たちからどんどん勉強させてもらっているような段階。

前泊
 あんな狭い田んぼに、ホントに、あふれるくらい…(笑)。あれだけいれば、作業も夕方の1時間ですぐ終わるさ。

黒島
 アレ、もち米だからよ、あんたなんか(青年会は)絶対、餅をつくって食べるまでやらないといかんよ。

山城
 そしたら、ヤラブ木で臼もつくってからに餅つきやったらいいさ(笑)。何でも勉強。

大盛
 臼、ある。僕のところにある。こんな大きいのがあるよ(笑)。

仲盛
 学校にふたつもあるよ(笑)。

黒島
 やっぱり、始めたからには最後までやらないと。あんたなんかはこれから子を産み育てていくわけだから、きちんと小浜の文化を伝えていかないと…。

≪米づくりと島のこれから≫
―ところで、ウカーの田んぼはみなさんの楽しみでもあり、コミュニケーションの場であり、果報の島・小浜の文化のシンボルでもあるわけですが、今後はどんなふうに展開していくのでしょうか。小浜を米どころとして復活させる…。

仲盛
 はっきり言って、米で生計を立てるというのは今の小浜の状況では無理な話です。米づくりは水管理が大事で、そのための基盤整理がなされていない。今は水が自由に取れるところしか米づくりをしていない。機械化も難しい。昔は人力でできたが、今はとんでもない、引き合わないです。

黒島
 まず、楽しみなんですよ。1日1日田んぼが変わっていく。色が変わるんですよね。不思議ですよね。これが僕のエネルギーになっているなあと思いますね。難儀ではあるんだけど、楽しみなんですよね。…今後の展望ということですが、基本的には、自給自足。自分が食べるくらいは自分でつくりたいということです。そして、これは祭りの原点だよ、と。祭りがあるから島は成り立っているわけで、祭りが無くなれば島は崩壊しますよ。だから、私たちの米づくりはとても意義があるわけです。さいわい今年は島の芸能が国指定になったし、今後はその展望のなかで僕たちは頑張っていきたいと思いますね。

大盛
 島に帰ってきた当初、米づくりで生活が成り立っていくかどうか考えたことがあったんですよ。知り合いの米屋にきいたら、超早場米ならいけるというんですね。今後はこれも可能性としては考えたほうがいいと思いますね。

―小浜島は伝統行事をみても今度のウカー会の動きを見ても、今後もおそらくその文化をしっかりと継承していくだろうと思いますが、経済的に、あるいはリゾートホテルとはどういう形で行くのでしょうか、島の未来を描いてもらいたいと思います。公民館長、いかがですか。

前泊
 島はだんだん高齢化して働く人が限られて、島の基幹産業であるサトウキビがどうなるかという心配がありますね。現在、生産法人が1つありますが、これをあと2つ増やしてそれぞれ3法人で1千屯ずつ、合わせて3千屯を生産できればと思うんですが…。今年は援農の人たちが少ないですね。働き手をどう確保するか、ハーベスターなどの導入も考えなければいけないし、工場の設備も整えないといけないし…厳しいところがありますね。しかし、島の第一次産業を守ることがまず必要だと思います。最近は畜産農家も増えて、サトウキビは年寄り、若者は儲かるものだから機械化して牛を養うという形になっている。なんとかバランスがとれないものかなあとも思いますね。

―観光についてはいかがですか。

前泊
 観光については…、年間約16万人の観光客だと言われていますが、はたして島の人に金が落ちているかというと、落ちていないと思いますね。船会社やホテルやバスなど一部が儲けている感じで、せっかくのチャンスですから、何かを考えなきゃと思うんですが…。入島料を取るのも難しいみたいですし…。

仲盛
 小浜は商売っ気がまったくないからね。

大盛
 島にはホテルがふたつがあって、たしかに雇用の場がある。しかし、農道をトラクター走らせていると、大型バスが来て、道幅が狭いから避けないといけない。悪うございましたとこちらが言わないといけない状況。農道なのによ(笑)。ま、観光第一、という感じではあるな。これが時代の流れじゃないかな。

山城
 腹が立つのはチリと空き缶のポイ捨て。弁当のビニール袋をカラスがくわえてまき散らす。めちゃくちゃだよ。それと、紙おむつ。紙おむつをビニール袋に入れて自動販売機の横に投げ捨てる者がいる。見つけたの、これで4回目だよ。ゴミの分別化でいま公民館がうごいているようだけど、分別がおこなわれるともっとひどくなると思うよ。石垣市がそうだった。いかにパトロールするかが問題。

大盛
 島の人はこんなことやらんよ。僕の牧場にもゴミがどんどん投げ入れられる。

仲盛
 観光客だけではないですよ。業者にもゴミを投げ捨てるのがいる。ゴミの問題はいちばん難しい。これで公民館もずっと頭を悩ましてきた。

≪リゾートホテルとの共存≫
―リゾートホテルとの今後はどうなりますか。

仲盛
 伝統行事は外部の皆さんが入れる部分と入れない部分があります。私の公民館長時代に「ちゅらさん祭り」をやったひとつの目的は、シマ、細崎、それにリゾートがひとつになってコミュニケーションをはかるという場にしたかったからです。これまで「はいむるぶし」さんとはきっちり協定書を交わして連携をとりながらやってきていますが、「ユニマット」さんは歴史が浅いし、そこがまだしっかりできていないですよね。その祭りを通じてお互い島の将来をどうしていくか模索していきたいですね。

大盛
 その通りですよ。昔はみんな知り合いだけでしたが今はわからない人もたくさんいる。「ちゅらさん祭り」を通じて観光関係の人たちとも接点もできて仲良くなれるし、これを続けないと島の未来は見えてこないですよ。島には伝統という骨がしっかりあるわけですよ。人の輪、人間社会の輪というのがしっかりある。現実にいろいろ問題はありますが、これまでも小浜は歴史的にもいろんな問題を乗りこえてきた。島に誇りをもち人の輪でもって問題を解決していけると思います。この島の人はリゾートホテルと立派に共存していけますよ。

大久
 公民館の理事・幹事をしていて思うのは、この島がないとリゾートは成り立たないわけですから、そのへんをもっと理解してもらいたいと思うことはありますね。例えば島に住んでいながら、中には、公民館費をなんで払わないといけないのと言う人も実際いるんですよ。なんで(そんなこと言うの)? と思いますよね。もちろんそんな人だけではないですよ。25歳に島に帰ってきて青年会にはいったら、全然知らない外からの人が多いんですよ。最初はなんだ? と思ったけど、しかし活動するとみんな一緒ですよね。いっしょに楽しく生きていくことができる。

―大久さんは島の将来がどうなって欲しいと思いますか。

大久
 これ以上変わってほしくないですね。中学校を卒業して小浜から出ていって10年以上経って帰ってきたときに、ものすごく島が変わっていたんですよね、びっくりするくらい。ゴルフ場ができたりしていて。そのときに若い仲間たちと、自分たちがしっかりしないといけないと話し合ったんですよ。しかしまた、島に帰ってきて、島のことを何も知らなかったということも痛感したんですよ。だから今まさにウカー会にもはいって先輩たちからいろいろ教えてもらっています。「頑張っているかあ」と声かけられるんですよね。そういう先輩たちがいるんだから、習いながら、いっしょに島のことを考えていけば大丈夫じゃないかと思っていますよ。

仲盛
 傍目で見たらね、ヤマトからのみなさんもたくさん居るから、小浜はどうなるだろうと思う人もいると思うんですけどもね、僕らに言わせたら、どうってことない、と。島は不動だと、そういうふうに私は思います。それなりのものが島にはあります。ただ懸念しているのは、島の古謡などの後継者がいない、むしろ、これが心配です。やっぱり米づくりなんですよ。すると、自ずからわかりますよ。私のねらいはそこですよ。

―ありがとうございました。

やいま編集部

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