「ウカー文化」は島の縮図 ~小浜島の伝統行事と祭りのこころ~

「ウカー文化」は島の縮図 ~小浜島の伝統行事と祭りのこころ~
「ウカー文化」は島の縮図 ~小浜島の伝統行事と祭りのこころ~
「ウカー文化」は島の縮図 ~小浜島の伝統行事と祭りのこころ~

小浜島の集落から大岳につづくウカー道沿いの田んぼが復活しつつある。  「ウカーいなほ友の会」のメンバーが中心となって島の文化の継承と田園風景をと田づくりに励んでいる。  島のシンボル大岳を背景に、名木・一本松、「山の子守唄」の歌碑、田んぼの畦のウラジロイチゴやテッポウユリ…。  夕方になると三々五々人々が集まって、そこは穏やかな笑顔と和やかな笑い声に満ちる。  なかなかいい風景である。  「ウカー文化」の提唱者である黒島精耕さんにその内容を書いてもらいった。

≪ウカー文化のシンボル「山の子守唄」≫
 小浜島集落の北方ウカー道を通って大岳に向かう途中、名木「一本松」に隣接するふたまたの一角に、建立して3年を迎えたばかりの「山の子守唄」の歌碑が建っている。

  ねんねんほろろん  ほろほろねむれ
  裏の小山にゃ  夕日がさして
  ほろろんほろろん  小鳩もなきました
  ねんねんとろろん  とろとろねむれ
  裏の小川にゃ  すすきが散って
  とろろんとろろん  蛙もなきました
  ねんねんねむれ  夜までねむれ
  鎮守の森には  小鳥もねたよ
  ぽっかりぽっかり  白い月ばかり

 この歌詞の中の「裏の小山」は大岳、「裏の小川」は小池(島ではクモール)、「鎮守の森」は嘉保根お嶽を指しており、これらを背景にできたのが宮良高司作詞・宮良長包作曲の「山の子守唄」である。
 「山の子守唄」の歌碑は宮良長包生誕120周年を記念して島の有志によって建立されたが、そのときのわたしたちの思いは、歌碑の建つ周辺を「ウカー道一本松ひろば」と名づけ、そこを心のふるさと・オアシスの森にし、島の活性化・地域おこし・むらづくりの拠点にしようというものであった。
 大岳に通ずる道路を島で「ウカー道」というが、この道を挟んでこれにつながる行事や祭り等の文化を、わたしは「ウカー文化」と称しこの文化の掘り起こしと継承発展、そしてこれからの新しい島の文化のあり方を求めようと提唱している。

≪ヤマンダ田原の復活と「ウカーいなほ友の会」≫
 島にはかつて米づくりの宝庫としてハインダ田原やニシンダ田原などがあったが、島の基幹産業としてのサトウキビづくりが盛んになり小浜製糖工場が建ち、また近年畜産農家が増えるようになって、ニシンダ田原はキビ畑に変わりハインダ田原は休耕のまま次善策を待っている状態である。
 このような現状の中で、島の祭りが稲・粟など五穀を軸に形成されていることを踏まえ、せめてヤマンダ田原(ウカー田原含む)だけでも島の米どころとして残そうとの思いと危機感から、最近、ウカー道沿いでは田づくりが復活しつつある。
 そこで田づくりをする人たちを中心に昨年5月「ウカーいなほ友の会」が組織された。米づくりの重要性を認識し、地域おこしに関心を持ち、「結いの精神」をもって新しい島づくりに取り組んでいこうということである。具体的な活動としては、稲づくりの生産向上およびウカー文化に関するイベント、さらには名木・一本松及び「山の子守唄」の周辺整備などがある。

≪ウカー文化の基軸・お嶽信仰≫
 島には正月元旦のお嶽参りをはじめ、ハツニンガイ(初願い)やウーニンガイ(大願い)等、暮らしの中に祈りに始まり祈りに終わる根強いお嶽信仰がある。島には、小浜島発祥にまつわるイーリワン(西山お嶽・島ではお嶽のことをワンという)、ナカワン(仲山お嶽)、アールワン(東山お嶽)の各お嶽があり、いずれもウカー道に沿って連なっている。
 島のお嶽のルーツを解明していくうえで、わたしがとくに注目しているのがティダクシワン(照後お嶽)で、このお嶽は大岳の南、ナカワン(仲山お嶽)の西方に位置し、島の最北端ユンドレースクのティダクシワン(照後お嶽)がウティスク山・コーキワンを経てこの地に遷座しイリワン(西山お嶽)となったと伝えられていることである。
 特に私の注目はティダクシワンの名称のティダクシが、大日如来をご本尊に迎える空海の真言密教・熊野権現に由来するのではないかとの関心事からであるが、このことについてはここでは単に指摘するにとどめ、今後の課題としたい。

≪春は「うろんつんぬジラーン」から≫
  ヘイヤー  うろちぃぬ  若夏ぬ  たちゅたら  ヨーナーエオー
  ヘイヤー  しとぅむてぃに  朝ぱなに  うきゃうり  ヨーナーエオー

 万物が精気づき、野に山に草木が新芽を吹き出す3・4月のウリズンの頃になると、小浜島では、どこからともなくこんな歌声が聞こえてくる。懐かしい「うろんつんぬジラーン」である。
 島では古くから、ウリズンのことを「うろんつん」、ジラバ(古謡の一種)のことをジラーンと表し、島独特の歌い方をする。この季節になると、だれ歌うともなく口ずさみたくなるのが、島の数々ある古謡の中で最も親しまれているこの歌である。わたしにとってこの歌は、ふるさとの春の訪れを実感させるとともにいろんな思い出を甦らせてくれる。
 幼少のころ、田んぼの畦で鳴いている蛙の声を聞きながらの田草取り、ゴッカラン(アカショービン)の鳴き声が耳にこびりついて離れない豆取り作業、男女が交互に掛け合うユンタ・ジラバを歌いながらのユイマール作業…。つい昨日のことのようによみがえってくるのである。
 とくに忘れられない思い出は、中学校時代に早起きして豆取り作業をしたことである。ここでいう豆とは大豆のことで、これは五穀の中でも島特産の「小浜豆」として広く世に知られていたが、日本の高度成長期のあおりを受けて若者が島を出て過疎化が進み、小浜製糖工場ができさとうきび生産が盛んになり、豆づくり農家が減り、ついに小浜豆は島から消え失せてしまった。
 わたしたちの中学時代は、戦後まもない1950年代のころで、物はなく、生活の苦しい時代で、わたしたちは当時、生徒会費や修学旅行費に充てるために早起きをして豆取り作業をしたのであった。修学旅行もいまとは違って、石垣島一周を3泊4日もかけて、しかも徒歩で学校を宿泊場所にしての旅であった。いまのように道路が整備されてなく、川平に行く途中、ちょうど満潮時に逢い、ズボンをまくりあげて川を渡り、やっとの思いで川平校に着いた思い出がいまでも胸中に鮮明に残っている。
 ウリズンの季節になると、このようにあの日あの頃のことが、いろいろと懐かしく思い起こされるのである。
 また、あまり知られていないが、島には「さんどぅきぬジラーン」や「ちんだ入りぬジラーン」があり、ユイマール等の作業時に歌われていたという。
 「さんどぅきぬジラーン」は、青春期の若者が初恋に失敗した失恋の心情を赤裸々に描写したものである。その当時はさんどぅき(申時)、すなわち午後4時頃ともなると、若者は農耕に精魂を打ち込むことができず、今夜の遊びに思いを馳せていたようである。 歌の主人公の若者も恋人との約束があったと見えて、さっさと帰宅し水浴びをして全身の汗を流し、母が洗濯してくれた衣装を手早くかけて約束の場所に行こうと門を出たところ、思いがけなくも約束していた娘にばったり行き逢ってしまった。ここで恋する乙女を逃がすまいとして、彼女の手を握ろうとしたが、嬉しさのあまり身震いして手が出せず、むしろ積極的な男性を求めていた娘から見放され逃げられてしまったというものである。
 「ちんだ入りぬジラーン」も内容的にはやや似ているが、これは既に恋愛を体験した若者の心情を表現している。当時は何の娯楽もなく、島の若者にとっては、ただ夜の自由な男女の交遊のみが何よりの唯一の楽しみだったのである。
 そのウリズンのころに「ウカー道いなほ友の会」は誕生した。昨年5月の夕暮れ。ウカー道沿いの一本松ひろばで10数名の若者が集い「うろんつんぬジラーン」の歌会をもったときに、この機会に「何らかの組織をつくろう」ということになったのである。新しい島づくりのことも考えながら。

≪島最大の行事・豊年祭≫
 ウリズン・若夏が過ぎて田に稲穂が熟れ収穫期が終わるころ、島は夏本番を迎え、夜ごとに豊年太鼓の音が聞こえやがて一年で最も賑わいを見せる豊年祭を迎える。
 島の年中行事・祭りは農耕儀礼と深く関わり、伝統的に受け継がれてきている。祭りのほとんどがワーン(お嶽)を中心に神女(司)たちの神への敬虔な祈りから始まる。五穀豊穣をはじめ島の反映や無病息災・健康願いなどの祈りである。
 豊年祭は島の行事の中でも最大の行事で、島外からの人々をふくめ島の人口はおよそ2倍にもふくれあがり、最も賑わいを見せる行事として広く知られている。昔から島の豊年祭には厳しい掟があり、口外することは堅く禁じられている。島の長老たちはこの行事に命をかけ、先人たちは「ポールヌユンドゥ、ヌッツァーアタラール(豊年祭のために命があり、その心を大事にしている)」とまで言われ、アカマター・クロマター信仰の深さをよく表している。
 豊年祭は旧暦6月の「壬」の日から3日間おこなわれる。 1日目は、ワーンポールといって、各ワーン(お嶽)ごとにヤマニンジュ(氏子)がそれぞれの家庭から持ち寄った供物(芭蕉の葉っぱで包んだ餅やウサンダイ等)を供え、スーッピィ(1年間の神への謝礼)を神前で厳粛におこなう。神への祈願は司やブナンツ(女性)たちが中心で、男性はイビから遠く離れた場所からイビに向かって手を合わせ礼拝をおこなう。各ワーンでは氏子の若者たちがご馳走をこしらえ、ヤクジュ(旧公民館の役員や来賓として案内した島の主なる官庁や会社等の長)を迎えもてなし、初日の行事を終わる。
 2日目は、ナビンドーポールである。朝6時からナビンドー(地名)の聖地で五穀豊穣を祈願し、終日祭りを盛り上げる。そして夕方になると、神聖なアカマター・クロマターが出現し祭りのクライマックスを迎える。その後アカマター・クロマターをお供して集落に入り、若者を中心に夜を徹し各家庭をまわって、1年間の五穀豊穣と無病息災を祈願して豊年行事の2日目を閉じる。
 3日目は、イローラポールである。午前10時頃からイローラ(地名)に集まっての儀式がある。その後ドゥハダ願いといって、それぞれ年代別にグループをつくり各家庭をまわり、仏壇の前で手踊りをしながら祭りを楽しみ、シネヌハーマの時間を待つ。そして夕日が沈むころになると、当年37歳の人があたるシネヌハーマの儀式が公民館長宅・南北部落会長宅・前本家でおこなわれ、これが終わると若者たちが集落の中心地ナカミチに集まり、豊年祭歌のすべてを歌い3日間の行事を締めくくり、祭りを終了する。

≪先祖供養のお盆行事≫
 当初わたしは、お盆をウカー文化に含めてよいものか迷いがあったが、ウカー道の先には黒島・成底家をはじめ竹富・西盛・前泊・宮里・大久家等の墓地群があり、そこに春は「うろんつんぬジラーン」からは祖先の霊が静かに眠って盆行事と深い関わりをもっている。このことから、敢えてわたしは島の念仏行事をウカー文化に含めて考えることにした。
 島のお盆行事は旧暦7月13日から16日の4日間にわたって行われる。初日は精霊を迎える日で、仏壇には三方(盛り物・甘蔗・果物・甘藷など)、ハナングミ・ミンツヌコ(水の子)・お菓子・グシパナ・提灯等を飾り、夕暮れ時に門口で松明を燃やし、家族全員で香をたいて精霊を迎え、先祖の供養をする。
 昔からのしきたりによって各家庭での行事がすむと、ごく身近な親戚の家を訪ねティサイ(祖先の霊に合掌)をおこない、その日から始まるニムチャー(念仏歌謡)に加わる。島ではニムチャー集団によって念仏歌謡と踊りが3日間各家庭を巡っておこなわれる。初日は「七月ニムチャー」を中心に、小学生以下の子どもらによってボーヤマ(棒)・ハナ(花)・アブル(クバ扇)・シッチャー(手)踊り等がそれぞれ交互におこなわれ、午後10時頃には初日の行事を終わる。
 2日目もニムチャーニンズ(念仏歌謡集団)が各家をまわってウヤビィト(ご先祖)の供養をするのであるが、初日と違うのは歌の内容が「ンゾニムチャー」に変わり、午後10時頃からはアンガマが出現して得意の舞踊等で座を盛り上げる。
 いよいよ3日目は精霊を送る日である。夜半(午前0時)の鐘の合図で、初日の迎えの日と同じように松明を燃やし、門口に向かって庭にむしろを敷き、仏壇に供えてあった品々を降ろし、その中から「ハツ」だけを取り出して飾り、家族全員で線香をあげ合掌して精霊を送る。そのとき、昔からの習わしとして小浜家では独特の「イランゾーサ」の念仏歌謡が歌われる。
 精霊送りが終わって午前1時頃からドゥハダ願い(健康願い)に移る。老若男女が一緒になって中壮年の方々の家庭を回る。まずその家の関係者が「御前風」を踊ったあと、代表者の一人が島の方言で思いを述べ自慢の芸を披露する。その後はその場に参加している者がそれぞれの自慢の芸を披露し座の雰囲気を盛り上げる。送りの後は主として「ヤマトヌヤマサンツ」の念仏歌謡にあわせて踊る。雰囲気もこれまでとは一変して、座の心が一つになり、軽快な舞踊が展開される。
 また3日目には、年輩の人たちによって「ウムイヌヤームトゥ」「ンマナマス」「イランゾーサ」等、島独特の歌謡がうたわれ、無病息災・健康願いは夜を徹し明け方までおこなわれ、4日目の行事を迎える。
 4日目は、まずナカミチにおける明け方早朝の伝統行事である島独自の念仏踊り「ジルク」から始まる。南北両部落の若者たちが女装して、笛を先頭に太鼓やションコン(鉦鼓)を打ち鳴らし、掛け声勇ましくクバ扇と手振りで相手を招くような仕草をしながらゆっくりと相寄り合流し、南北の心が一つの輪になり一体となって踊る姿はまさに感動的であり圧巻である。ここでは北部落の「ジルク」から始まって、次に南部落の「ミンマンブンドゥル」が踊られる。ミンマンブンドゥルは他の地域では見ることのできない島独特の念仏踊りである。
 これが終わると、公民館長・部落会長より3日間にわたっての盆行事が無事に終了できたことに対するお礼のあいさつと恒例の道路作業の日程等の話があり、一段落したところで再び笛・太鼓の音に合わせてそれぞれ部落へ去っていく。その後部落単位でおこなわれる午後からのドゥハダ願いの段取り等について話し合い、朝の行事を終える。
 午後は各部落で、今度は年長者の家庭をまわり健康願いをする。途中、庭の広い家を見計らって島独特の「巻踊り」が踊られる。これが終わると、最後は部落会長宅で獅子舞でもって行事を締めくくり、4日間にわたる盆行事の全日程を終了する。

≪秋は華やかな結願祭≫
 結願祭は旧暦8・9月の「つちのと亥」の日から始まり、今年の豊年に感謝し来年の五穀豊穣を祈願して「スクミ」「ショウニツ」「トゥンドミ」の3日間にわたって行われる。
 初日のスクミ(予行演習)は南・北部落別に行われ、午後2時頃から、北ではメーラク(弥勒)、南ではフクルクジュ(福禄寿)の行事があり、その後引き続きシュリチュ(各集会場所)で棒・太鼓のスクミを終え、夜は8時半頃から狂言の部と舞踊の部のスクミが行われる。
 2日目はショウニツ(本番)で、嘉保根お嶽の神前で民俗芸能(太鼓・棒術・獅子舞・狂言・舞踊等)が奉納される。まず庭の奉納として北部落のメーラクの座マールと太鼓・棒・獅子舞、続いて南部落のフクルクジュの座マールと太鼓・棒・獅子舞がある。その後棒術の芸が披露され庭の部の奉納を終える。
 次は舞台の部。特設の舞台ではまず前半にメーラクとフクルクジュのファーマー(子孫)たちによって数々の演技が披露される。後半は北部落のシュンギン(初番狂言)に始まり、北・南交互に、昔から継承されてきた民俗芸能等が奉納される。主な演目は次の通りである。
 【北部落】
  舞踊=小浜節・ハピラー・ブーピキ・いにまつん等
  狂言=シュンギン・カンザク狂言等
 【南部落】
  舞踊=かせかき・天加那志・四ッ竹等
  狂言=シュンギン・サクボー狂言等
 3日目はトンドゥミ(締めくくり)で、部落別に午前中は結願祭行事についての総会を開き会計報告等をして締めくくり、午後からはスクミの日と同じ要領で部落別にトンドゥミが行われ、翌晩のタマスコーサミをもって結願祭行事の全日程を終了する。 なお南部落では大正のころまで、疫病や災厄をもたらす悪霊を追い払う民俗歌舞として「ダートゥーダー」が演じられていたが、その後、世果報を祈願するフクルクジュに変わって現在に至っている。ダートゥーダーは近年見直され、4年前からは舞台芸能として復活し神前でめでたく奉納されることになった。

≪冬は種子取祭で五穀豊穣の祈願≫
 種子取祭は、農家にとっては大事な行事の一つで、旧暦10月の「壬または戊・午」の日に行われる。以前は3日間にわたって行われていたのが、新生活運動の名のもとに改善されて、今では従来の行事は1日で終わり、2日目は農事視察をしたあと農事懇談会に切り替わっている。
 種子取祭は、お嶽ごとにヤマニンズ(氏子)が集まり神前で祈願をした後、ヤマニンズは神司を先頭に年長者を案内して各戸を巡り道うたの「種子取節」を歌い歩く。各戸を訪問して座敷に上がると、まず年長者の順にお神酒をいただき、「根ウリ」といってあぐらをかいて安座する。その後、数々のアヨーやジラバ、ユンタ等を歌いその場の雰囲気を盛り上げる。例えばアヨーでは「稲ガ種アヨー」をはじめ「山カシヌアヨー」「ヒャンダン嶽アヨー」「ウムトゥ嶽アヨー」「ククル嶽アヨー」など。そしてその間に種子取節の歌詞を数々の民謡の旋律に乗せて歌うのである。
 こうして夜が更け、ほのぼのと明けゆく東の空を仰ぎつつ歌い歩くのが「ファームレ唄(子守唄)」である。この歌は一面石垣島の「アガローザ」に似ているところがあるが、あくまで小浜島独特のもので、島の人たちはその歌に魅せられ、夜明けのファームレ唄を待ちわびたものである。
 以前は子どもたちによるガーラ(丸太を切ってつくった輪)転がしや競馬なども行われていたが、今ではその面影はまったくなくなっている。昔のしきたりはなくなってしまったが、改めてその意義を問い直し、良いものについては復活をはかり島おこしの原動力にしたいものである。

≪結びに≫
 以上、見てきたように、春・夏・秋・冬と島の1年間の祭りや行事を振り返って見たとき、どれもこれもウカー道と深い関わりをもっていることがわかる。まさにウカー文化は島の縮図といえよう。
 最後にひとつ触れておきたいことがある。それはこのたび「小浜島の盆・結願祭・種子取祭の芸能」が重要無形民俗文化財として去る3月7日に国から正式に認定を受け、8日にはその認定証が交付されたことである。そのことについては3月20日付けの『八重山毎日新聞』にその意義と展望について私の論考が掲載されているので興味のある方はお読みいただきたい。 さて、こうして書いてきて改めて思うことは次のことである。
 島には年中「祭りの心」がある。春は「うろんつんぬジラーン」で始まり、夏は豊年祭や祖先供養の盆を迎えて、秋は結願祭で賑わい、冬は種子取祭で五穀豊穣を祈って歌う。
 この祭りの心から島の芸が芽ばえ、島人の心を一つに結び合い、「ミリク世果報」を迎える。島の芸能が国指定になってさらに大きく花開き、実を結び、「むかし世・かんぬ世」が訪れることを請い願うものである。

黒島 精耕

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