サガサニチィ、サニチィ

サガサニチィ、サニチィ

オランダの人類学者コルネリウス・アウエハント氏と静子夫人が、調査のため波照間島に着いたのは、一九六五年春のことである。当時、波照間航路の定期船「八島丸」は、石垣桟橋を出て波照間島に達するまで、四時間弱の船旅を要した。

 二人を乗せた船上からは、島に近づくにつれ、浜に下りて潮干狩りを楽しむ人々の姿が、あちこちに見えてきたという。それはこの日がちょうどサガサニチィ(旧暦三月三日)にあたっていたからである。

 静子氏は、島に着くやいなや、大急ぎで浜に向かった。一刻もはやく島の行事を体験したいという思いがそうさせたのだ。そして、「ウランターの夫を連れてきました」と、夫であるコルネリウス・アウエハント氏を島の人々に紹介してまわったそうだ。ちなみに「ウランター」とは、オランダ人だけのことをいうのではなく、異国人の総称である。

 実はこの前年(一九六四年)、静子氏は夫よりひと足先に波照間島を訪れている。島の神々や地元の人々から調査への了解を得るためである。これから世話になる島人たちへの挨拶も済ませ、静子氏は調査への確かな手ごたえを感じながら、ひとまずオランダへ帰ったのである。

 さて、前部落の大泊家の一番座と裏座を借りたアウエハント夫妻は、このサニチィの日から波照間島に9か月間滞在し、島の生活、とりわけ祭事の記録を中心に奔走した。その際、撮影した写真は三千枚にも及ぶという。また、神口や古謡、方言などは、録音機材を用いて記録し、貴重な音源を残している。その膨大な民俗文化の記録は、今もその輝きを失せず、波照間島の人だけにかぎることなく、人それぞれに力強く訴えるものがある。

 コルネリウス・アウエハント氏は帰国後も研究に没頭し、一九六八年にはスイスのチューリッヒ大学に、日本研究学科を創設した。さらに一九七五年から一九七六年に再び波照間島に滞在して調査を重ね、一九八五年には大著『HATERUMA』を上梓した。こうして波照間島を広く世界に知らしめた功績は大きい。

 三月三日に身体を海水に浸して身を清めるという民間信仰は、波照間島のみならず、沖縄全域に分布している。各家においては、ヨモギや海の幸をいれたムチ(餅)を仏前に供え、家族の健康を祈願する。

 とはいっても、子どもたちにとってサニチィは、浜で一日中遊んで過ごす、楽しい日である。女の子は貝を拾い、男の子はそれぞれに竿をかついで浅瀬を歩いて渡る。人も家畜も浜下りするこの日は、ゆったりした時間が流れる。こんな長閑なサニチィの光景も、二人を歓迎し、その後の研究の展開を予祝しているようである。

飯田 泰彦

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