鳩間島のまつり

鳩間島のまつり
鳩間島のまつり
鳩間島のまつり

宮良長包の作詞作曲の鳩間節「海の真中にただ一つ」で知られる「鳩間島」は、1610年に薩摩が来て沖縄を調査する「慶長検地」時にも鳩間島の名前が出ていて、そのことから古い村であることがわかると思います。
 今の八重山は石垣市、竹富町、与那国町と3市町になっていますが、薩摩が琉球を支配当時の八重山は、六間切、二島嶋、五十八カ村の時代でありました。鳩間村はその五十八カ村の中に記録されていて独立村でありました。間切というのは行政区分のもので今でいう市町になります。石垣島に石垣、大浜、宮良、川平と間切が4つあり、西表島にこみ間切と入表間切があり、二島嶼というのは黒島、波照間になっています。鳩間島はこみ間切に属していました。そして、崇禎(すいてい)元年(1628)には三間切に絞られました。明治まで続いた石垣、大浜、宮良の3つで、その時鳩間は大浜間切に属しました。当時の八重山人口は5235人の記録があり、その中で鳩間には「鳩間ひけ川、弐ケ村頭数七拾人」の記録、つまり70人がいたという古い記録があります。乾隆(けんりゅう)33年(1768)以降は宮良間切に属しました。これは八重山島規模帳という本の中に記録されています。
 鳩間島は西表島の北西約5kmに位置します。私が1956年八重山高校を卒業し18から代用教員として大原に赴任したとき、メートル法が施行される前でした。当時、鳩間島は周囲1里(約4km)に満たなかったと聞いていたのですが、今は海岸線が増えまして聞くところによると1里、4kmを超したようです。そしてご存知のように鳩間中森に登ってみますと石垣、小浜、南側には西表島が望めます。島の南側に鳩間集落ができています。棧橋からの縦道を挟んで東と西、アンの村インの村というふうに分かれます。
 鳩間島には1713年に編纂された「琉球国由来記」の中に友利御嶽の記録があります。いつ創設されたかは別としても1713年にはすでにあったということです。そして桟敷(サジキ)の隣りの髭川(ヒナイ)御嶽のほか西堂・新川・前泊の各御嶽があります。今5つ御嶽の名前をあげましたが、この御嶽だけじゃなくて、願所がいたるところにあるという人や、これだけの面積に願所があるのは鳩間だけだよと言う人もいます。ヒナイ御嶽は近世初頭の鳩間村を管轄していた西表島の髭川村の御嶽の神を勧請して建てたものであります。神職は神女の意味で石垣でいうツカサを鳩間でサカサといい、補佐役のバギサカサ、男性神役のティジリベーがいます。男性はイビガキの前までは行くことができても中へは入れません。普通各御嶽にはサカサとバギサカサとティジリベーがいますが、鳩間島に限らず揃っていないところもあります。
 島の産業は、漁業が中心で明治は学校の前辺りにカツオ工場もありました。護岸のない時代はずーっと白浜が続いていまして船もそこに着けられカツオ業で盛んな島でありました。現在は沿岸漁業とツノマタ、シャコ貝の養殖などが主で、ツノマタは特産となっている。干ばつの時には東の集落後方にあるアンヌカー(東の井戸)へ行って飲み水を得ていました。アンヌカーは自然にできた洞穴に人工的な階段を造っていったもので下り井戸、ウリカーと呼びます。島の西にあるインヌカー(西の井戸)は縦掘りにしたもので、縦掘りの井戸を石垣ではツンナカーと言います。ツンナーというのは釣瓶という意味で釣瓶で汲む井戸、もう一つは積み上げた井戸ということで釣瓶を使わないと水を汲むことができません。2つの面からツンナカーの意味をとらえることができると思います。インヌカーももともとはウリカーだったのですが、衛生的にツンナカーに変えていったという経緯があります。今日私たちは西表島のマーレ川から引いたの水を飲んでいますが、その前までは古井戸を使っていました。西表島マーレ川からの海底送水施設が完成したのは1980年のことです。水道がないという理由で島外へ出ていった人がいますが、水道もできたので帰ってきて島の復興にあたってもらいたいですね。
 鳩間島では八重山の他の島々とおなじく御嶽を中心に多くの年中行事が行われます。その中で、島で一番盛大な祭りが収穫儀礼の豊年祭(プール)であります。  島の豊年祭は、旧暦五月に十干の壬(みずのえ)、癸(みずのと)の日をとって吉日を選びます。その時にスクマーという初穂祈願を行いその時から鳩間の豊年祭は始まるものだといわれています。初穂をオーセ(村番所)に供え、豊作祈願を行います。その晩、それまで風を招くと禁じられていた笛を吹き笛の音を聴くとことで島の人はプールヌ・シキ(豊年祭の時節)を意識するといいます。スクマーが済むと島人は、対岸の西表島の水田で稲刈りを始め、1ヶ月間で収穫を済ませます。豊年祭が近づくと各祭場を清掃して諸準備にとりかかる。
 収穫祭の豊年祭りは、1ヶ月後の旧暦6月中旬か下旬のミズノエから三日間催されます。ミズの着く日を選ぶことからもどれだけ水を尊んでるかがわかると思います。豊年祭は3日間行われ初日ユードゥーシ(夜通し)、二日目をトーピン(当日)、三日目をシナピキヌピン(綱引きの日)と呼んでいます。

≪ユードゥーシ≫
これは夜通しの意で、サカサ、バギサカサ、ティジビーとの神職者が島で最高位にランクづけられている友利ウガンで一晩籠もって祈願します。ユードゥーシの祈願は三回行われ、それぞれをユネンパイ(夕方の拝)、ユナカヌパイ(夜中の拝)、シトゥムティヌパイ(早朝の拝)と呼んでいます。シトゥムティヌパイがが終わると神役たちはそれぞれのお家に帰っていくわけであります。

≪トーピン≫
これは当日の意味です。正日と書いてショージツという呼び方もありますが、鳩間ではトーピンです。午前5時ころシトゥムティヌパイが終わると、サカサは帰宅して着替えをして。9時ころから、各ウガンに集まって神酒をいただきます。ヒキ(氏子)が集まり祈願をしてサカサから神酒をいただく。午後一時ころになると各ウガンにいた者は全員友利ウガンに集まり、そこでカンシバというマーニ(クロツグ)の葉を二、三枚合わせたはちまきを頭に結びつけます。祈願の後は桟敷へ向かい、豊年の芸能が披露されます。  桟敷の前の浜ではパーレ(爬龍舟競漕)が行われ、西側が勝つと向こう一年間は世果報(ゆがふ)になるといわれています。豊年祭りに船を漕ぐのは黒島と鳩間です。

≪シナピキヌピン≫
これは綱引きの日の意味になります。その日も午前中に神役たちは祈願を行ないます。公民館役員や青年は、旗頭や綱の準備をします。鳩間はその日の旗頭は前日のものと違います。毎年、新たに作られ両村ともそれぞれ一基ずつ準備する。綱は西が雌綱、東は雄綱で、トーピンに使用した綱とは別に準備する。
お昼ころ、神役たちは各ウガンを出て友利ウガンのサカサの家へ行く。村の有志もそこへ集まる。そこでは酒、肴が振る舞われる。
三時ころ、祭りの桟敷に神役や有志が集い、いよいよ綱引きの行事が始まる。はじめに婦人たちのイジクナ、ガーリなどの芸能が行われ綱引きとなる。綱引きは三回引かれるが、三度目に西村が勝てば来年は豊作だといわれる。その後はサカサやティジビーの家々を回り、そして各家々をまわる。それぞれの家々では酒や飲料水を用意して歓迎する。
その後は、公民館の広場に集合して夜遅くまで踊って明かす。

 私が島々の年中行事を見て感じることは、新城や黒島、竹富の島々と同じく西表島で「飛び地耕作」しているが、他の島々が粟作儀礼を重視しているのに対して、鳩間島は稲作重視の島であります。そのことから西表島で稲作を営んでいた人々が鳩間島に移りすんだのではなかろうかと考えられます。

石垣市市史編集委員 石垣 繁

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