沖縄の基幹作物・サトウキビが島の経済を支えている波照間島。島の生業史をみると、農業とともにカツオ漁を行っていた時期があった。
それがかつて、「波照間は半農半漁の島だ」といわれた由縁である。島のカツオ漁は、1912年に始まった。それは、1910年ごろ島の周辺で操業中の糸満漁船が島の青年七人を雇用し、青年たちは二年間で技術を修得。さらにカツオ漁が盛んな与那国で研修を重ね、その後、石垣島で帆船を建造した。これがカツオ漁が始まった経緯である。
1914年には北部落で、そして前部落で帆船が建造された。帆船は1920年には発動機船に変わり、水揚げが増加した。
1924年になって波照間漁業組合は専用漁業権を取得し、漁船も次第に改善された。その後、珊瑚礁の多い島の海岸に幾多の困難を克服しながら発動機船を接岸させ、これまで小浜島や石垣島に設けられた納屋を島に移転させた。昭和初期のことである。
島でカツオ漁が盛んに行われたのは1928年から1961年までの33年間である。戦時中に一時中断したが、戦後まもなく復活し、1953年から1955年ごろに最盛期を迎えた。漁船の数も八隻を数え、十工場でカツオ節製造を行っている。その後、やや衰退したが、それでも一九六一年ごろには部落単位の共同漁船四隻と個人所有二隻が操業していた。
カツオ漁の作業分担は一本釣り乗組員と、カツオ節製造員に分けられる。大漁旗をなびかせ漁船が港に入ると、陸にいるカツオ節製造人は道具を準備し、漁船からカツオを海浜に運び、素早くカツオの頭、尾を切り落とし工場へ運び込む。その後、大型鍋でカツオを炊き、様々な工程を経て、最後は薫製にして仕上げる。カツオは捨てる部分がなく、頭も食料になる。島では頭を担天秤棒の両端に吊り下げ、家路を急ぐ光景が見られた。島の経済を潤したカツオ漁だったが、1961年ごろから衰退期に入り、1973年には姿を消した。