番所でのきびしい責め苦、生涯消えなかった人頭税の傷痕

番所でのきびしい責め苦、生涯消えなかった人頭税の傷痕

「男は米、粟作り、女はご用布織りに昼も夜もなかったこと。これらの上納品が少しでも出来が悪いと番所できびしい責め苦にあったこと。野菜のかわりにタンポポやツワブキなどの野草を食べていたこと。貢租物を運ぶ御物船の到来が遅れると数千の俵を解いて干しなおしをさせられたこと。年貢米は定められた額の以外に運搬中にこぼれる減量分を見積もって余分に負担があり、番所に詰めている与人(ゆんちゅ)や目差などの役人の賄い分も出すので一層苦しかったこと」。
昭和三十九(一九六四)年、崎原タマさんは、訪れた沖縄タイムス記者・新川明氏のインタビューに答えて、人頭税時代の暮らしを、このように語っていた。そして、語をついで、「役人の現地妻であるマカナイ女は、貢布免除の特権があったが、喜んでこれになる者はいなかった」と物静かな口調で話したのだった。(「新南島風土記」、大和書房、一九七八年初版発行)
ちなみに、当時、明治八(一八七五)年生まれの彼女は九十一歳。島内最高齢で、「南島探験」を著わした笹森儀助の投宿した波平兼思(なみひらかにむい)家の娘であった。人頭税が廃止されたのは、彼女が二十九歳のときである。
晩年のタマさんは朝五時に起床、井戸水を汲み上げて顔や髪を洗い、仏壇に御茶湯を供え、朝食をすませると、七時ごろからは「でぃばた」(地機)にすわり、布を織る毎日であった。機織りは十三歳からはじめた、と語っていた、という。
 手の甲に「はじち」(針突)があり、「ない」(地震)があると「とおしか、とおしか」、「ぬん」(竜巻)の際には、「あぶまいた、ちーはい」(おばあさんの腰巻きを千切って食え)と呪文もとなえた。
 いかにも島の民俗の古層を、体現している人の、なつかしい趣があった。
こんなタマさんが孫の正吉さん(五六)に「どお、どお」と注意をうながしながら話した言葉の中に「ふぅむぬや、みぬたんてぃん、あさんぎんき、んだしまいや、ばっちんなよ」というのがあった。意訳すると、食べるものは、期限内に納めないといけないよ、ということである。
こうしてみると、人頭税時代の「トラウマ」(傷痕)は、生涯、彼女から消えることはなかった、とみていいだろう。
昭和四三(一九六八)年、彼女は九十五歳の天寿を全うした。インタビューを受けて、四年後であった。

与那国町史編纂委員 米城 惠

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