新城島とジュゴン

新城島とジュゴン

≪「不老長寿」の薬≫
 人類史上で永遠の課題といってもよいものに、「不老長寿」「不死」という悲願がある。とくに権力を有した人間が切望するらしく、トキジクノカクノコノミは有名な話だ。日本では、権力者ではなく、不思議な力をもった宗教者が、それを実現した。八百比丘尼伝説がそれで、人魚を食べて長寿(八百歳)を得たという伝説である。
 『和漢三才図会』にも「人魚」の項があり、「いまでも西海の大洋の中に、ままこのようなものがいる」といっている。暴風雨が来る前に姿をみせるといい、「阿蘭陀では人魚の骨を解毒薬としているが、すばらしい効目がある」という。
 人魚は世界各地でいろいろな伝説が語られるが、その出現は悪いきざし、良いきざしの両方があり、八重山の民話では村に津波が襲ってきたりした。また、食べると若返るという俗信があった。そして人魚のモデルは、ジュゴンともマナティともいわれる。
 琉球・八重山の史料に「海馬」ということばがある。「海馬」は、『大漢和辞典』ではタツノオトシゴ、セイウチと説明されるが、八重山ではジュゴンのことで、ザン・ザヌなどとよばれ、「(新城)島に『ザン・ヌ・オン』と称する神社あり。儒艮の骨を祭れり」という(八重山語彙)。はたして、「海馬」には不老長寿の効能があったのだろうか。

≪冊封使録の「海馬」≫
 琉球の「海馬」の説明は冊封使録にみえる。「中山信録」に「海馬・馬首魚身ニシテ鱗ナシ。肉ハ豕ノ如ク、頗ル得ガタシ。得ルモノ先ツ以テ王ニ進ム」といわれている。あの顔を馬とみるかどうかは別として、「海馬」はジュゴンであったらしい。ジュゴンの肉は豚肉のようであり、捕獲が難しいため、とらえればまず国王に供したという。食べるのであれば、人、とくに美女の顔と考えるより、馬とでもしたほうが、心安らかかもしれない。
 「頗ル得ガタシ」は、「八重山島旧記」の「土産之類」にも、「海馬、但、稀ニ取得候也」と記されている。希少価値のある、珍味ということであろうか。
 李鼎元の「使琉球記」には、嘉慶五年(一八〇〇)六月十五日条に、次のように記されている。
 食品に海馬肉の薄片有り。廻屈して鉋花の如し。色は片茯苓の如し。品の最も貴なる者は、常には得易からず。得れば則ち先づ以て王に献ず。其の状、魚身にして馬首、無毛にして足有り、皮は江豚の如し。惜しむらくは、未だ生ける者を見るを得ず…
 ジュゴンは食品であり、それは肉の薄片であった。丸まって曲がっていたようで、「鉋」は大工道具のカンナのことなので、カンナ屑のような形状だったらしい。実際にカンナで削って薄片にしたようで、八重山の膳符には「かな海馬」とあり、吸い物などにされたという。

≪新城島のジュゴンとカメ≫
 乾隆三三年(一七六八)にまとめられた「与世山親方八重山島規模帳」には、新城島の人々に対して、諸役人が「海馬」(ジュゴン)やカメなどを欲しがるが、島にとっては迷惑なので、今後は「御用」のほかに要求してはいけない、と規定されている。つまり、新城の人々がジュゴンやカメなどといった、一般的な漁獲物(=魚)とは異なる海産物をとるということが前提となっている。しかしその漁は、冊封使録でも地元の書き上げでも、めったにとれないといっている。
 諸役人(士族)がこれを欲しがるが、ジュゴンやカメは王府に献上する「御用」の品であった。与世山親方のときから「御用」の品となったのか、それ以前から「御用」の品として上納していたのかは、この文言からは決定できない。ただ、新城の人々がジュゴンやカメを捕獲していたことは、与世山以前からのことであるのは確かである。
 ジュゴンとカメのセットは、「おもろさうし」にも出てくる。「久高の澪に/〓〔魚+需〕〓〔魚+艮〕網 結び降ろちへ/亀網 結び降ろちへ…〓〓 百 捕りやり/亀 百 捕りやり/沖膾 せゝと/辺端膾 せゝと」と歌われ、食べることを前提に、久高島あたりで漁をしている。
 興味深いことに、新城の人々はジュゴン漁の網にかかったカメを、ジュゴン漁の時期の食料としたという証言がある(安里武信『新城島』)。

≪「海馬」を食べた?≫
 ジュゴンを捕獲するということは、どういうことなのだろうか。仮に新城の人々が、上納品とされる以前からジュゴンをとっていたとすれば、その目的は、やはり「食べる」ためだったのだろうか。それでは、新城の人々は、それ以外の海産物(たとえば魚)はとっていなかったのか。
 古い時代に八重山において「食べた」かどうかは、よくわからない。一四七七年の朝鮮済州島民の漂流記には、産物として「海馬」はみえない。新城島でいうと、カメもいないとされるが、これは陸産のカメであろう。
 波照間の人魚に関する伝承では、捕獲された人魚はむしろ積極的に島をみたいといい、漁師たちは「われわれに害を加えないだろうか」と心配していて、「食べる」どころではない(ばがー島八重山の民話)。
 石垣島東海岸にあった野原村のこととして語られる人魚の話では、網にかかった人魚をみて漁師は、「珍しい魚がとれた。これはよい土産ができたぞ」といって喜んでいる(同前)。これは、「食べた」ことを物語っているのだろうか。
 先の「与世山親方八重山島規模帳」の記述にあるように、わざわざ欲しがるというのは、八重山の諸役人はやはり「食べた」のだろう。「食べる」かぎりは、やはり肉を「食べた」のであろうが、そこに「不老長寿」という観念があったかどうか、いまのところはっきりしない。
 なお、のちにみるように、明治初期の八重山士族の膳符に「海馬」「さん」という記述があり、八重山でもジュゴンを食べていたことははっきりしている。

≪翁長親方八重山島規模帳≫
 与世山からほぼ百年ののちの翁長親方の段階では、「御用物海馬之儀、新城村ニ限手形入候」といっており、近世の八重山において「海馬」は新城の特産物として指定されていた。さらに続けて、御用以外に欲しがる者がいるが、余分があるときにはあげているという(「余計有之節ハ所望渡いたし候」)。
 何に対して、何が満ちたから「余計」があるのかというと、命じられた「御用」の量より多くなった分をいっているのである。さらに、この「所望渡」は、「年々右捕得方ニ付、多人数長々手隙を費及迷惑」ので、従前のとおり禁止するとしたうえで、「余計分」は在番・頭が確保するように命じて、「後日之御用相達候様可取締事」としている。
 この文言からわかることは、新城の人々は、・ジュゴンを「御用」品として上納するために、・毎年多くの人手と時間を費やして捕獲していたが、・「御用」の量より多く捕獲することがあったこと、・それを「後日」のために保管したこと、などである。・の「御用」(物)は王府に上納したことに違いはないが、この文言には人頭税制全体の問題として考えなくてならない点があり、その検討はここでは省略する。次いで、・「年々右捕得」、・「後日之御用」とあるが、とるのが難しいのだから、王府としては、とれればとれただけ前納させてもよいと思うのだが…。

≪加工された「海馬」≫
 「翁長親方八重山島規模帳」で注目しなくてはいけない点は、捕獲したジュゴンは、おそらく加工されて「後日之御用」に供することができたということ。つまり、ジュゴンは保存がきいたということである。
 同治十三年(明治七年=一八七四)の「八重山島諸物代付帳」には、咸豊七年(一八五七)に決められたこととして、「海馬塩肉壱斤 同(註・代夫)三分三り三毛/海馬干肉壱斤 代夫壱人 但皮目同断」とある。ジュゴンの肉は、塩漬け、あるいは干し肉にされていた。その結果、先にみたように、「後日之御用」にも供することができたのである。
 では、その塩肉・干肉は、どこに上納したのかというと、明治六年(一八七三)調査の「琉球藩雑記」に、「八重山出産」として「海馬 壱斤/琉球蔵方より島方迄之引合 代米壱升五合起/鹿児島県へ引合代 代分四貫文琉目」とある。この「壱斤」が塩漬け肉であるのか、干し肉であるのかはわからない。全体の分量についても未詳である。
 新城特産のジュゴンは、塩漬け肉、干し肉にされて、沖縄・鹿児島に送られた。明治六年は、ヤマトでは廃藩置県がすでに行なわれ、琉球では琉球藩が設置されていた時期である。したがって、「島津の殿様」はいなかったので、鹿児島に送られた塩漬け肉、干し肉はどうなったのだろうか。最後の琉球国王尚泰は藩王となってしまったが、まだ首里にいた。

≪明治・大正期のジュゴン≫
 明治二一年の農商務技師の報告に、「需艮ハ海馬トモ称ス…沖縄県地方大抵之ヲ見ザルナシ、旧藩政ノ時ニ於テハ皮ヲ藩主ヨリ幕府及ビ支那国政府ニ貢スル為メ漁民ニ課シテ之ガ捕獲ヲ命ゼリ、而シテ該獣捕獲ノ便ハ沖縄県地方ニ於テハ八重山島ノ内新城島ヲ以テ最モ善シトスルガ故ニ年々該島民ニ於テ之ヲ捕獲シ其課当ニ充テタリ、蓋シ新城島ニ於テノミ捕獲スルニハアラズ該島近傍西表島ノ各海辺小浜島石垣島ノ沿岸等ニ至リテ捕獲セリと云フ」とある。「皮」も貢納していたとはいわれるが、ここには肉についての記述がない。
 明治十二年廃藩置県後の同十四年、東京上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会への八重山からの出品目録に、「海馬皮」三枚がある。鼈甲色をして、三〇〇目から四二〇目の重さで、「石垣間切新城村ニ産ス」、原価は一円二〇銭とされている(石垣家文書)。第五区第五類に分類されて、イリコと一緒になっているので、「食べ物」として出品したのかもしれない。
 明治四〇年には東京勧業博覧会水族館に、「体は魚の形で顔は人間の髪をふり乱した女相してゐる…怪物が此生物界に存在するや否」という、かなりグロテスクな好奇心のもと、西表付近で捕獲された海馬の胎児が防腐剤処理をされて展示されている(琉球新報)。
 八重山では、明治二一年に「川平村湾内」における海馬漁を伝える史料がある。その費用を、同村の与人に提出したもので、海馬五五斤で、捕獲の費用は二〇円二四銭となっている(石垣家文書)。この史料を提出した人の名が記されていないが、もし川平村の村民がジュゴン漁をしていたとすると、この時期には新城島が独占していたジュゴン漁が規制緩和されていたことになる。
 先述したように、明治期の八重山士族の膳符に「海馬」「さん」がみえる。カンナで削られた「かな(=鉋)海馬」は、酢味噌で食べられている。また、明治二五年の元服祝儀でも「紅白かなさん(=鉋ジュゴン)」があり、この時期にも食されていたことがわかる。
 なお、麻疹の患者が病気が治るまで食べてはいけない物のリストに、「乾海馬」があげられている(石垣家文書)。やはり、食べていたのである。
 くだって、大正元年の沖縄県の漁獲物に「海馬」がみえる。八重山で三〇〇斤、価格十二円とあるが、ほかに島尻郡でも七九斤(六円)の水揚げがあった。島尻郡は、「おもろさうし」にみえる久高島周辺のことであろうか。

 どうも「不老長寿」については、堅苦しい古文書からはみえてこない。ジュゴンを食べて、八〇〇歳まで生きている人がいれば、いろいろな話をうかがうことができるのに。どなたか隠している人はいませんか?

得能 壽美

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