贅沢な時間の流れる宝の島 ~バランスを考えた島の方向性~

贅沢な時間の流れる宝の島 ~バランスを考えた島の方向性~
贅沢な時間の流れる宝の島 ~バランスを考えた島の方向性~

新城島に降り立つと時間の止まった空間に入った感覚におそわれる。贅沢な時間の流れる島だ。現在、上地島に5世帯6人の島民が住み、牧場の広がる下地島には1人が住んでいる新城島だが、石垣や、沖縄、本土には500人を越える郷友がいる。伝統行事を柱にした島の方向性から未来が見えてくる。

≪島に帰る、ぜいたくな生活≫
 現在、新城公民館長を務める島仲信良さんは、定年退職後新城島に帰ってきた。竹富町役場に勤務している間は仕事の関係で石垣で生活をしていたが、前々から計画をしていた生まれ島へ帰り5年になる。
 「仕事をしているときはなかなか島に帰ってくることができなかった。しかし退職したら島に帰ってこようと決めていて家も建てていた。帰ってきたら公民館長をやるように言われて、いとこの安里真吉さんから引き継いでいます」
 島仲さんの言葉からは島に帰ってきた喜びと充実した暮らしぶりがうかがえる。昔と違って電気・水道・ガスにも不便をしない、お店がないので石垣に買いだしに行くことになるが、米と調味料があれば魚もとれるし山に野菜もあり1人なら自給自足ができる。竹富町の議員である島仲さんは、議会のときや用事があるとき以外は島にいるという。
 「医療体制がないので緊急の場合の心配や台風などで天気が悪くなると、防波堤がないため船が接岸できず10日以上も船が来ないこともある不便さはありますが、島での暮らしはぜいたくですよ。帰ってきてよかったと思います」
 現在、島仲信良さん、安里真吉さん、西大舛高一さん、新強さん、屋嘉部善司夫妻の5世帯6人が住んでいる新城ではあるが、部落内には屋敷があり、多くの人が住んでいるように見える。郷友の人たちが、行事のときなどに寝泊まりができるように家を建てているからである。そして毎週というほど家の掃除をしに島に帰ってきて、庭はきれいに掃除されていて草も伸びていない。数人で共同管理をしている人たちもいるという。
 「屋敷は普段からきれいにしておかなといけないという意識があります。行事のときだけでなく、また住んでいなくてもきれいにしてある」というのは、家を持つ人たちの共通の認識。現在、屋敷は26戸あり、特に豊年祭のときにはたくさんの郷友たちが訪れ島はにぎやかになる。
 「新城の人は伝統行事があるからまとまれるんです。年4回大きな行事があり、そのときに石垣・沖縄本島・本土からも島に帰ってきてお互いの無事を確認します。もし伝統行事がなかったら島は守れなくなると思います。そのために郷友会の人は、土地も屋敷も大事に残してあるんです」
 島民は6人だが新城公民館員は26人いる。島に住んでいなくても、島に屋敷を持つ人たちも役員をしたり館員となっている。島民の少なさを郷友たちも一緒に補っているのである。

≪島を支える郷友会の存在≫
 新城はかつては上地島、下地島を合わせ700人以上の住民が住み、両島に小学校もあったが生活を営んでいた島民たちには、島を離れなければならない歴史があった。
 昭和16年に沖縄県の移住政策により、南風見(現在の大原)開墾のため上地島・下地島から半強制的に移住をさせられた。戦争が激しくなるにつれて途中で移住政策は挫折してしまうが、新城からの移住者の中には戦時中にマラリアにかかってしまい命を落とす人が多かった。その後、約30戸の人々が新城に戻った。そのこともあって大原には、今でも新城出身の人たちが多く住んでいる。
 戦前はカツオ漁での隆盛があり、戦後は農業を中心とした島だった新城は、サトウキビを作り製糖工場もあり、米は西表に田んぼがあって男たちが渡って稲作を行っていた。島では粟・麦・豆類などを作っていて、自給自足の生活をしていた。昭和38年に、上地中学校が古見、由布中学校と共に大原中学校に統合された頃から、島民が島を離れ出した。子どもが中学校へ行くと同時に家族で島を離れることになった。
 学校も一番生徒が多いときで、約30名もいたという。そして、西表島からの海底送水が行われた昭和50年に、上地小学校は廃校になってしまった。皮肉なことに水道施設が完備され生活がしやすくなったときに島民が少なくなっていくのである。それまでは「水のない島」として天水の利用を余儀なくされ、時には西表島まで水をくみに行くこともあって、島の屋敷には今でも水をためるタンクが残り、当時をしのばせる。電気は昭和63年、西表島からの海底送電が実現、24時間点灯が可能となった。
 島民は少なくなったが、郷友会の人たちが島を盛り上げている。石垣・西表・沖縄本島・本土にいる郷友会員はいつも島を想い、豊年祭のときには多くが島に帰ってくる。
 「行事がある限り島は守られるし、また郷友会の人たちのふるさとを愛する想いも薄れない」と郷友会の人たちは口を揃える。郷友会の人たちの中には、島に帰りたいと思っている人たちがたくさんいるが、仕事がなかったり家庭の事情で難しい現実がある。
 仕事があったら、退職をしたら、余裕があったらと前向きな意見である。島に移り住む人が増え、屋敷を構える人たちが増えれば島は活性化していく。そんな現実も遠い将来ではないような気がしてくる。「出身者以外の人で住みたい人はたくさんいるんじゃないですか?」と聞くと、「のんびりとした島で生活したいという人はたくさんいると思うが、出身者が帰ってくることが島の将来を考えるといいと思う。島おこしは島の人でやっていかないと」
 この言葉が新城の団結力の強さであり、島への誇りだと思う。

≪観光から見い出す産業≫
 近年、夏の季節には多いときで約100人の観光客が、新城を訪れるという。石垣島や西表島・竹富島・小浜島・黒島と他の島から、泳ぎやダイビング、釣りなどをしにくるのである。もちろん定期船がないので、民宿のなどのツアーで新城を満喫して帰っていくのだ。島に約100人の観光客がきても島に落ちるお金はない。
 「島にくる観光客が増え続けています。島に泊まりたいという人もいますが、宿泊施設などの受け入れ体制がないのでそれもできません。これだけ人がくるのだから、何かしら産業に結びつけることができるはず」
 島仲公民館長は、これからの新城に観光産業の確立の重要性を考えている。島の人たち、郷友会の人たちが中心となってやっていける方法でと。以前に島外資本を入れて観光開発をしたが、バブルの崩壊後それもうまくいっていない。
 「ちゃんと線引きをしてやっていけば島を荒らされることもないし、現金収入になり島での仕事ができ、若い世代も帰ってくることができると思います」
 雇用の場のない島での仕事づくりは、観光と結びつくかたちが近道かもしれない。しかしそれは島外資本ではなくて、島の人が中心となるやり方がいい。
 「観光をやると島に人がたくさん訪れるので、どうしても自然が壊され島が荒らされる。だから他所の人は来るなとは言えないけど、なるべく来てほしくない。桟橋もあんなに立派なものでなくてもいいし、防波堤を建設したらいつでも大勢の人が島にきて収拾がつかなくなると思う」
 郷友会の若い世代の中には、島を荒らされたくない、そのままの姿を残していきたいという意見がある。何も無責任に産業がなくていいと言っているのではない、新城の将来のために何が一番いいか、どうやっていけばいいか真剣に考えているから出てくる意見である。
 何もないという価値観を共有できる人にきてもらう。ゆったりと流れる時間を満喫して、観光施設など必要としない観光をやっていく。宿泊施設も立派ではなくも、食事も豪華でなくてもそれでもいいという人にきてもらう。そして島への入口は、島民を通したかたちでやる。新城島独自の観光条例のような、島の法律があってもいいと思う。
 他の島の観光のやり方とは違う新城独自の観光のかたち。島の人たちは集まれば、新城の未来像を語り合う。どのような答えを導きだすか期待したい。後戻りできなくなった八重山の観光産業に大きな一石を投じることも可能になると思う。

≪伝統行事を柱に島づくり≫
 具体的に今新城に必要なものとの問いに、答えは2つだった。防波堤とヘリポートである。天気が悪いと桟橋に船が接岸できない新城では、防波堤建設は何年も前から竹富町や沖縄県に要請をしているもの。またヘリポートは医療施設のない島で急患の場合には必要なもの。島民のためにも必要だが、観光で訪れる人たちの水難事故の際にも必要となってくる。現在は急患などがあった場合は、船で大原まで行かなくてはならず大きな不便を被っている。生活する上ではどうしても必要なこの2つ。
 「防波堤ができれば今まで以上に人がきて島が荒らされる。桟橋ももっと小さくてもいい」という声もある。島民と郷友会のバランス、島を守ることと産業をつくるためのバランス、伝統行事を継承していくことと現代社会を生きるバランス、様々なバランスを保つために新城島は葛藤し続ける。
 「郷友会の存在があるから豊年祭や結願祭などの伝統行事はやっていける。しかし島に人が誰もいなくなっては、島も行事も成り立たない」と島仲公民館長は言う。伝統行事を柱にした生き方が、島の未来につながっていく姿を新城島と新城の人たちに見ることができる。
 「伝統行事があるから新城出身者はまとまるし島は守られる」と新城の人は言う。しかし今回、多くの人の島に対する熱い想いを聞いていくうちに、伝統行事があるからではなく、島にこだわる人たちがいるから伝統行事も継承され新城も守られて行くのではないかと感じた。

やいま編集部

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