島を支える結の精神~素朴さの残る最南端の島~

島を支える結の精神~素朴さの残る最南端の島~
島を支える結の精神~素朴さの残る最南端の島~
島を支える結の精神~素朴さの残る最南端の島~
島を支える結の精神~素朴さの残る最南端の島~

波照間島には戦前戦後と続く陸上競技大会がある。来年は50回の記念大会を迎える波照間の年間行事のひとつだ。5つの部落対抗での勝負は島の活気につながり、島のまとまりとなる。素朴さの残る最南端の島は、人と人のつながりが強い島である。

≪製糖工場からは甘い香りが≫
 島一面に広がるサトウキビ畑は、波照間の顔であり島を象徴する風景になっている。島の基本であるサトウキビに島民のほとんどが従事し、波照間産の黒糖は大地の栄養をいっぱい含んだ特産品で、「波照間の黒糖が一番おいしい」という声は多い。サトウキビを中心に置いた波照間の方向性を探ってみた。
 波照間では1914年、石垣からの移植によりサトウキビ栽培が始まった。小さな精糖小屋が島にはあり牛を動力に細々と続けられていた。戦前からの砂糖組を引き継ぐ形で全集落に製糖組合ができ、それぞれでエンジンと圧搾機による製糖工場が運営された。1960年、各製糖工場の代表により中型製糖工場の誘致委員会が作られ、61年に「波照間製糖株式会社」が設立され、そしてI963年に1日100トンの黒糖を生産できる製糖工場が完成、操業開始となった。
 「昔は米なども作っていましたが、水田はサトウキビ畑と変わっていきました。その頃から島の農業は自給自足的なものから換金作物栽培の農業に転換しました。ちょうどその頃もうひとつの主要産業だったかつお漁が衰退したこともあり、サトウキビ栽培と製糖が島の基幹産業となりました。現在、土地改良もほとんど終了し、残りは11ヵ所のため池の設置が進められています」
 波照間製糖工場の新城水佑さんは、昔からサトウキビを作ってきた。そしてこれからも作り続けていくという。厳しい現状はあるがサトウキビを作ることが、生活を支えることであり島を支えていることを実感している。
 「波照間製糖工場には約20大の社員がいて、毎年12月に県内のトップを切って操業が開始され、翌4月まで約100日間操業、その間は、交代で24時間体制で働きます」
 製糖工場が動き出し煙突から煙が流れると島は1年で最も忙しい時期を迎え、公民館括動や地域活動も製糖工場を中心に考えられ、特に公民館の総会・役員引き継ぎも操業終了後に行われることになっている。そして今年も島に甘い香りが漂う季節がやってくる。
 波照間の黒糖は沖縄一の品質だといわれていて、他の含蜜糖工場が軒並み在庫を抱え苦境にある中で、I999年には逆に品不足状態となっている。1997年度の実績で見ると単位当りの収穫量は県平均の1.26倍、1戸あたり収穫面積は1.7倍ときび栽培の方も比較的よい状況にはある。
 しかし波照間でも過疎化・高齢化は確実に進み、キビ農家数も減っている。ほとんどがサトウキビ栽培に従事している波照間の農業人口は、約400人で人口の7割を占め、うち60歳以上が200人余と高齢化が進んでいる。近年の収穫面積は約70h(作付面積はこれの1.5倍程度)。収穫量は天候に大きく左右されるが、1万トンから1.6万トンで推移していて、これは八重山全体の収穫量の1割強、竹富町の6割近くを占める。この収穫から1500~2500トンほどの島の特産品である黒糖が作られているのである。

≪波照間独自の「ユイ」組織≫
 波照間のキビ産業を支えているのが、昔から続くユイマールである。八重山の他地域ではほとんどなくなったユイマールが波照間にはしっかりと残っている。新城さんもユイマールが続いていることに誇りを持ち、波照間島で生きていく一番大切なことだと話す。
 「昔からの形式というのが残っています。ユイマールというのは親戚や部落間での労力提供で、サトウキビだけでなく、家造りや墓造りのときなど、今でも残っています。今は労力提供だけでなく賃金という形になっていますが、基本的なところではユイマール精神を持っています」
 各部落できび栽培を営む農家10~15戸ほどでー組となっていて、島全体で17組が組織、持ちまわりで組長が選ばれ、製糖工場から操業計画にあわせて組長に指示が出て、組員のキビ畑の糖度が一定以上に達したところから収穫していく。収穫作業は基本的に組全員で行い、このとき、労働時間に応じて賃金が割り当てられ、労賃は組長のつけた記録をもとに清算され、工場から各自に支払われることになっている。
 「公民館作業でも最低限度の賃金を決めてやることもありますし、キビの刈り入れ時期の人夫賃を決めるときも、今年は去年より働けるから金額を上げてほしいとか、逆に今年は体調がすぐれないから金額を下げてほしいと自己申告をするんです。各組によって5、6段階の賃金査定があるんです」
 キビの刈入れ賃金は男女、年齢差等によって段階をつけられた時給制になっていて、細かく清算されている。また、病気や老人の1人暮しといった家庭の事情に応じて作業量を調整したり、休暇中の中高生などが部分的に参加するといったケースにも不公平なく対応している。最近では労働力不足により、他の組への応援というケースも発生していて、この際は基準の賃金に上乗せされた賃金となる。
 「サトウキビの場合、収穫作業が一番の重労働となるので、収穫時の働き手の確保が重要なのですが、この局のユイマールによって局内の労働力を最天眼に活用することができます。経営規模の大きい農家や労働力の少なくなった農家は人員不足を気にせずに済みますし、経営規模の小さい農家は刈入れ賃金によって収入を増加することができます」
 新城さんが誇りを持っているユイマールというシステムがあるため、八重山の他地域で多くみられるようになった「援農隊」のように他府県からの刈入れ応援を受け入れなくて済んでいる。自分たちが植えて育てたサトウキビを自分たちの手で収穫するという農業の基本が波照間にはある。そのユイマールのシステムが認められて、1973年には「朝日農業賞」を受賞している。
 「キビ刈りの時期に労働力を確保することは大変なこと。そのためにも農業体験というかたちで局外に労働力を求められないだろうか」と考える人もいる。いわゆる波照間島を体験するグリーンツーリズムのようなものだ。
 「賃金も今の査定に合わせて出せるし、宿泊は提供して労力を出してもらうというやり方もあるし、本当に観光と結びつけた体験ツアーのようなやり方もあると思います。どういうふうにやるか、誰がやるか問題はありますが、高齢化する島の農業をみるとき、どんなかたちであれ取り組んでみていいと思います」
 今までのユイマールの仕組みに組み入れるやり方が必要だという。今までやってきた組織形態に、取り入れられるような方法で、サトウキビの生産量、出荷量を確実に伸ばしていく。早急に対応しなくてはいけない時期にさしかかっている。

≪キビとバランスをとる畜産振興≫
 サトウキビ農家がほとんどの波照間の農業に、近年畜産が加わってきている。もちろん畜産の専業農家ではなくて、キビとの兼業農家がほとんどだ。波照間畜産振興組合員である大本善勇さんもその1人だ。
 「組合員は約30名います。サトウキビとの兼業になるのでなかなか難しい面もありますが、波照間ではキビに次ぐ産業です。全体では約500頭の牛を飼っていますが、大きな問題としてセリヘの出荷があります。セリに出すには石垣へ輸送しなくてはいけないのですが天気が悪くなると貨物船が出なかったり、早めに石垣に輸送すると管理することができなくなります」
 セリに出すには輸送コストがかかり、売却されずに島へ戻すとさらに輸送コストがかかってしまう。他の竹富町の島に比べて離島のハンディということが大きくのしかかってくる。そのために大本さんたちは組合を立ち上げて、生産の向上を計ってきた。畜産基地事業も始まったばかりであり、畜産の基盤整備はこれから進められる。ハンディはあるものの組合員も増えてきた、頭数も増えてきている、生産額も伸びてきている。島の農業を支える明るい兆しも見えてきた。
 「これからは頭数も増やしながら品質も上げていかなくてはなりません。また、後継者を増やしていくことも課題になります。兼業なのですぐに向上させるのは難しいかもしれませんが、長い見通しをもって波照間にはいい牛がいる、いい生産農家がいると言われるようにしていきたいです」
 大本さんたちはサトウキビにとってかわって畜産を伸ばそうとは考えていない。島にとってサトウキビが大切なことは充分把握している、サトウキビ1本だけではいけないことも感じている。だからサトウキビとのバランスを大事にして畜産を伸ばすことが、島の発展につながると信じキビと畜産に頑張れるのだ。

≪フルーツアイランドを目指して≫
 波照間島の生活の基盤は、サトウキビ生産。近年は畜産業も盛んになりつつあるが、そんな中でフルーツアイランドを目指して、頑張っている人がいる。JA八重山郡青壮年部の仲底善副さんは、高校卒業後島に戻り、家業の運送業とサトウキビ生産を継いだが、もともと亜熱帯フルーツに興味を持っていてパッションフルーツと出会い3年前ほどから栽培を始めた。
 「一時期盛んだったスイカ・メロンの栽培は、コスト高・価格の低迷などで生計が成り立たなくなっている状態です。波照間では収入を得るという意味では、サトウキビを生産することが一番の近道。あるときパッションフルーツという果物の存在を知り栽培農家を見学に行き、パッションフルーツから不思議な魅力を感じ、
 栽培農家の話を聞いているうちにこれをやってみようと思い始めました」
 仲底さんは苗を分けてもらい、自分のハウスがなかったため先輩農家のハウスを借りてのスタートとなり、その後独自で4棟のビニールハウスを建て収穫を迎えた。1年目は端境期に出荷したこともあり値段も高くなったが、2年目からは、沖縄本島にパッションフルーツが大量に出回り、一気に価格も下がってしまった。「品質を上げてもっとおいしいものを作らなくてはいけないと思いました。そんなときJA青壮年部に人ることとなり、その集まりの中で各地域の人たちと交流ができ、いろいろなアドバイスももらえるようになりました。JAの営農指導員・普及員の指導を受け、良い品種ができるように研究を重ね苗づくりをしています。将来的に波照間島の特産品になることを信じてパッションフルーツの栽培を続けていきたいです」
 JA八重山郡青壮年部・波照間支部長として島の青壮年部の人たちと地域農業の活性化に取り組んでいる仲底さんは、パッションフルーツが期待の持てる作物だと信じ努力を重ねている。農家の高齢化が進み不況の波の中、サトウキビで生計を立てていくには耕作面積が広くなければ困難な現状がある。
 「パッションフルーツだけでなく、バナナ・アテモヤなど栽培可能なフルーツを少しずつだけど導入したいと考えています。サトウキビと畜産しかないこの波照間島が、フルーツアイランドとなるように目指して頑張っていきたいです」
 まずはパッションフルーツの生産と収入を軌道にのせることが仲底さんの諜題となる。島の若い農業後継者への生産の拡大・安定収入・所得の向上へつながるよう、仲底さんの挑戦は始まったばかりだ。

≪最南端と星空観測≫
 農業が基幹産業である波照間ではあるが、観光客が年々増加し観光による収入というのも大きくなっている。「有人島で日本最南端の島」という大きなアピールポイントがある。「旅行する人は最北端だったり最南端だったり行ってみたいと思うんです。せっかく八重山にきたのだから、石垣島や西表島・竹富島だけでなく最南端の波照間島に行ってみようと来る人が多いです」
 波照間公民館長の美底清照さんは、これからの波照間に観光産業の確立の重要性を感じている。それも島の人たちが独自にやっていける方法でと。
 「観光産業はこれから島において大きな位置を占めると思うのですが、宿泊施設の受け入れ体制であったり、観光施設の整備であったりまだまだやっていかなくてはいけないことが山積みです。行政や商工会・観光協会などの活用も必要です。観光産業が伸びることによって島へ落ちるお金というのも大きいと思いますが、そのことで雇用の拡大が計れるのが最大のメリットになると思います」 近年増えてきている島に帰ってくる若者たちの雇用の場は少ない。観光産業が充実することが、観光客を呼ぶことにつながり、島の青年を呼ぶことにつながるのだ。黒糖やモチキビなど島のものを加工した特産品作りも観光と絡んだ一つの産業になりえる。
 「また星空観測タワーもありますし、星の観測や南十字星などを目当てに訪れる人たちもいます。星を見るためには宿泊をしないといけないので、波照間の観光は宿泊を基本としたものが前提となります。だからそのために飲食・宿泊などの受け皿が大事になってくるです」
 最南端の島と星空がきれいなイメージ。その大きな観光の目玉は、八重山の他地域に負けない財産である。クリアしていかなければならないことは多いが、やり方次第では最大の効果を生む島おこしである。
 そのクリアしなくてはいけない目の前の問題として航空便がある。現在、波照間に運行している琉球エアコミューターの19名乗りの機種が老朽化しているため、9名乗りの機種に変更になるというものである。
 「稼働率を上げないといけないと言われているんですが、そうなると波照間空港の拡張計画も棚上げされてしまうかもしれない。将来的には大東島に飛んでいるような30名東りの機種になってもらいたいと考えているんですが…」
 島側の意見と会社の方針はなかなかかみ合わない状況である。美底公民館長が話すように課題は山積みである。最南端の島の魅力を生かすことができるのは、島の人たちだけである。今までやってきた農業に新しく観光という産業を育てていく。ハードルは高いが、取り組もうとする力強い姿勢が公民館長を先頭に感じられた。

≪世果報ふるさとづくり≫
 今年の5月に公民館では、「波照間地域(ベスマー)おこしシンポジウム」を開催予定だった。年間行事の関係でまだ開催できずいるが、公民館・郷友会・婦人会・青年会・老人会・他関係団体が参加して波照間の未来を考えようというのである。テーマを「日本最南端の島、個性豊かな島、世果報(住み良い)ふるさとづくりを目指して」と決め、高齢化や人口の減少などの山積みになっている地域問題をベスマーと石垣郷友会で考えようとしている。島の人が声を上げ、島の人みんなで方向性を決めていく。そこにはお互いが助け合う結の姿が生まれてくるはずである。
 先人たちが築いてきた「結の精神」。波照間島の未来を考えるとき、島の人たちが今まで大切にしてきたこの生き方が、一番重要なヒントになってくるように思える。

やいま編集部

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