≪漫画「光の島」の舞台となった鳩間島≫
鳩間港を前にして、護岸に船小屋ふうの建物。ペンションマイトウゼの食堂兼休憩所だ。ここにいると何もかも忘れて眠りこけてしまいそうなほど潮風がやさしく心地よい。
そこの壁に『ビッグコミックオリジナル』に連載中の漫画「光の島」のポスターが貼ってある。
〈乾いた心を、ほとばしる生命の息吹で包み込む、小さな島の大きな物語〉のコピー。島を守るために学校をつぶすなと奮闘する鳩間島の人たちの姿を描いた森口豁氏のドキュメンタリー『子乞い』を原案に「夏子の酒」の尾瀬あきら氏が漫画化、5月5日号からスタートしている。
たった一人の在校生が転校することになった。生徒がいなくなって学校が廃校になれば20数名の過疎の島はどうなっていくか、どこかから子どもを連れてこなければ…。島の簡易郵便局長は、今は島を出て都会に住んでいる弟を訪ねる。…そして局長に連れられて6歳の照屋光が唄美島にやってくる。こうして物語は始まる。
もちろん登場人物、場所などは仮名だが、物語はほぼ事実を踏まえてスタートしている。これからどう展開していくかわからないが、鳩間の学校のほうはその後里子を迎え入れてどうにか廃校を免れ、今では里子に加えて山村留学のような形で生徒を受け容れている。現在の生徒数は小学生4人中学生10人の合計14人。が、その中に島出身者の子弟はいない。子どもたちの多くがかつて前の学校で不登校の経験を持っている。
尾瀬氏はなぜ漫画の舞台にわざわざ鳩間島を選んだのか。『週刊金曜日』9月7日号の森口氏との対談「世界広がる小さな島それが鳩間島だ」で、鳩間島の魅力を次のように語っている。
「島に来ると、自分が棄ててきたいいものが、たくさんあるな、と思うんですよ。みんなで楽しく酒を飲んで歌って踊るというような。(略)たしかに島の生活に不便さを感じるけど、鳩間の生活は今の生活の逆説のような気がする」「鳩間には物がない。ないからみんなが集まって、三線を弾き、大人と子どもがいっしょになって遊ぶ。(略)鳩間は何もないからボーッとするしかない。“鳩間タイム”が存在する。この時間の流れが、子どもたちに与える影響は大きい。遊ぶものがなければ海で泳いだり魚を釣るしかないから、それで十分満たされる…」
つまり、「何もない」鳩間島には「鳩間タイム」があって、それは(都市生活者の)自分が棄ててきたものだが、子どもたちに与える影響は大きいのではないかと言う。たしかに、兵庫県から転校してきた中学3年の先川孔明君は「何もない島だから自分でできることを捜した」し、大阪からやってきた上中野政志君は「鳩間島では自然体でいられる」と言っている。
島の未来を考えるとき、尾瀬氏の発言は大いに吟味する必要があろう。島の良いところを生かして島の活性化につなげる方法はないものか。もっとも、島が活性化しても良いところが失われるようでは本末転倒だが。
≪いつまでたっても「若者」の悩み≫
今回はなしを聞いた人の中で、今のままの島でいいと言う人はいなかった。が、医療、交通などを除けばみんな急激かつ大きな変化を求めてはいないようだった。それは周囲約4キロという島の小ささに主に起因するように思われた。例えば、竹富島のように観光客が頻繁に出入りしては「島がすり減ってしまいそう」だし、島に見合った形とスピードというのがありそうだ。
「島で一番若い」加治工勇さん(48)はもっと若者が増えて欲しいと思っている。島の人口は現在53人。そのうち学校の職員と生徒が約半分、数人の「若者」をのぞけばあとはお年寄りだ。「50近くなっても島では若者だから、いつまでたっても進歩がない」「理想的な人口は百人ほどだが、若者がせめてあと3人でもいれば」と加治工さんは言う。そうであれば島の行事も少しは楽になる。今後の島のことを考えると、暗澹とした気持ちになる。
人口が増えるためには島が活性化しなくてはいけない。まずは島に人を呼ぶことだと、石垣在住の田代良久さん(44)と鳩間島音楽祭を企画した。実行委員会を組織し、5月の連休に開く音楽祭は、今年で4回目。1回目20人だった参加者は、今年は260人に増えた。「まず鳩間を知ってもらいたかった。そして、できればリピーターになって欲しかった。とりあえず人間が行き来しなければ、活性化にはつながりませんから」と田代さん。
田代さんは小学3年までを鳩間で過ごした。生まれ島がとても好きだ。だから行事には必ず参加するし、できるだけ週末は島で過ごしたい。8月は6回島に渡った。条件さえ整えば明日にも島に帰りたい。
生活基盤づくりのためにと加治工さんと共同で5年前から2回にわたってゴマを作ったが、虫や山羊に食われてうまくいかなかった。「この島は20年間農業をやっていなかったですから、完全無農薬の島なんです。オーガニック・セサミ・アイランドにしたいと思ったんですが、でも、移り住むとしたらやっぱり無農薬栽培をやりますね。民宿と観光案内ってのもいいですね」と夢はひろがるのだが…。
1959年、今から40年あまり前の鳩間島は人口460人、生徒が120人いた。しかしカツオ漁などの水産業が衰退し島が過疎化してからは、年金生活者と公務員をのぞけば、鳩間の人たちの主な収入源は里親、民宿をしながら細々と海を利用したり牛や家畜を飼ったりというくらいだ。水産振興組合のシャコ貝やツノマタの養殖は緒に着いたばかり。
≪里親と教育で島おこしを≫
通事力さん(81)は「アマチャヅル、クワズイモの葉、グァバの葉、タニシ、フランスガモ…といろいろやったけど何もものにならなかった(人手が足りず安定供給できなかった)。ものになったのは、学校を存続させて、今日があるというだけ」という。
何かを大規模にやろうとすると人手が足りない。かといってこの交通の不便な小さな島で、継続的に大規模なことをしようとするのにはどうしても無理がある。島に見合った…
「今の形をもう少し進めて、いわゆる教育で島おこしというのを中心にできないものか」と鳩間公民館長の通事建次さん(54)は考えている。
里子(以下、本文では体験留学の子も含む)を受け容れるところは現在ではいっぱいいっぱい。里親の高齢化もあり、若い人が島に来て里親をやってくれれば島は活気づく。
「最近は自閉症の大人を預かってくれないかという声もある。そういう人たちを預かって(寮、専門家などが必要になるかもしれない)例えば農場を提供すれば、野菜の生産などもできる」と言う。
建次さんは力さんの息子。親の世代が始めた島存続のための里子受け容れをさらに一歩進めようとしている。「島の持つやさしさを持続していくことが大事」と建次さんは言う。
鳩間小中学校に赴任して3年目の仲西勉校長(56)も学校を中心とした島の活性化に賛成だ。
「ニーズはあるわけですから、戸塚ヨットスクールのようなものは問題でしょうが、鳩間出身の人材は多いと聞きますから、教員を退職された方が島に戻ってそういうことに従事するというのもいいんじゃないですか。(かつて不登校だったという)子どもたちに対して学校として特別にカウンセリングなど何もしていません。ただ普通にやってるだけです。みんな学校に来ます。変な言い方ですが、他に何もないですから。自然に恵まれたこの島で、地域でいろんな体験をして精神的に逞しくなっていきますね」
また、お年寄りの保養地としてはどうかと提案もする。旅の老人たちと子どもたちとの交流ができれば、それはお互いに良いことに違いない。
≪鳩間島の未来を語る討論会を開こう≫
石垣在鳩間郷友会の友利英雄会長(57)にも話を聞いた。現在郷友会は主に年に3度、豊年祭、結願祭、学校の運動会に参加している。なかでも豊年祭は島最大のまつり。人口が減少し高齢化が進んだ島だけでは祭を行うことができないので郷友会が参加しなければ存続できない。
が、その郷友会活動にも翳りが見えつつある。島での生活を経験したいわゆる1世たちの多くはもう40代以上の年齢になり、若い2世、3世たちは郷友会活動にあまり関心を示さなくなっているのだ。
2世、3世たちを島に連れていこう、と折に触れて呼びかけるのだが、思うように効果は上がらない。なんとかしなければ、と友利さんは思うのだが、この調子だと郷友会の衰退は目に見えている。
親島のことも心配だ。生まれ島はどこに向かっていこうとしているのか、島の活性化のために何をしなければならないのか、まつりなどに参加するたびに話は出るのだが、序でに話される程度だからなかなか中途半端な議論になってまとまらない。島の人、郷友会、専門家も招いて、みんなで鳩間島の未来を語り合う討論会のようなものが必要ではないかと思っている。
今、みんなで話し合う場が必要だろうというのは話を聞いた人たちの共通する意見であった。特に若者をどうやって呼ぶか、若者がいない島で伝統文化をどうやって継承していくか、島は瀬戸際にあるというのである。
通事力さんは言う。
「私の目の黒いうちに、武士の家を復元したいなあ。いずれ復元しようと防波堤工事の時にあの場所に砂を積んであるんだが、いまでも小さい頃に見た武士の家が瞼にのこっておるよ…」
討論会で、この武士の家の復元のこともぜひ話し合ってほしい、と思う。