「うつぐみ」と「町並み」が人を癒す島

「うつぐみ」と「町並み」が人を癒す島
「うつぐみ」と「町並み」が人を癒す島
「うつぐみ」と「町並み」が人を癒す島

小さな島でも人々が豊かに生きるために守ってきた「うつぐみの心」と「昔ながらの町並み」。ほかにも過去と現在の竹富島を語る上で欠かせないキーワードがいくつかある。これらは竹富島の未来を見つめるとき、さらに重要になってくるに違いない。

≪町並み保存と情報公開≫
 島の未来を語る上でまず、上勢頭芳徳さんを紹介したい。
 上勢頭さんは長崎県出身で、島の女性と結婚し、竹富島に住んで27年になる。
 町並み保存運動に携わり、現在は竹富島集落景観保存事務局長をつとめる。
 もともとは島外出身者だが、今では島に欠かせない存在になっているといえよう。
 上勢頭さんが感じる島の魅力や問題点などを、未来へ目をすえて語ってもらった。
 「町並み保存の動きが始まったのは1972年の本土復帰あたりからで、本土企業の土地買いに対する抵抗運動だったんです。年配の人たちが中心になったけど、でも皆が皆というわけではなく、生活を考えるとどうしても島を守るという立場は少数派だったようですね」
 上勢頭さんが保存運動に関わるようになったのは1982年ごろから。
 「そのころから『島の状況を全国に向けてちゃんと発信していこう』という気運が新たに高まってきました。ここの人の特徴に話がとても上手いというのがあるんです」
 熱意を込めてアピールしはじめると、全国からの応援も届くようになった。
 そして全国町並み保存連盟への加盟、「竹富島憲章」の制定と相次ぎ、このころから竹富島は未来への方向性をはっきりと定めて歩き始めた。
 上勢頭さんの役割は全国から集めた情報を島の人たちに提供して論議し、結果を外に公開するというものだった。
 それを見た各地からまた情報が集まってくる。島の人たちは十分に情報を吟味し、判断する材料にした。
 「竹富は昔から情報公開の大切さを知っていたんですよね。」
 上勢頭さんは島と外をつなぐ、いわば掛け橋だった。

≪調整委員の役目≫
 現在、毎年3つの集落から町並み保存調整委員を4人ずつ選出して委員会を設置し、討議する場を持っている。
 委員の仕事の一つに、島に家が建つ際に設計図を審査することがある。
 町並み保存の条例に基づいて屋根や軒の高さなどを家主と委員で話し合い、検討するのだ。
 「強制ではなく、調整なんです」。
 また、竹富では別荘を持つことは禁止されている。
 住民として責任を持って島に住むことができる人のみ家を借りることが許される。
 「法的な拘束力はなくても、地域の決まりが一番強い力を持っているはず」
 と上勢頭さん。
 なぜなら家の建築にしろ、地域の決まりごとの中にはこれまで時代を越えて引き継がれ積み重ねてきた伝統の良さがつまっているからなのだという。
 「なぜこれがいいのか、それを理解してもらうしかない」
 とキッパリ話す。
 その上で、ある若い調整委員から
 「今は若い人たちが中心になって委員をやっています。そんな中で、今までの例だったらすぐダメだったのも、許容範囲がだいぶ増えて、若い人も少しは島に住みやすくなっているんじゃないかな。時代と共に便利さも変わっているし」
 という意見があったのも見逃せない。
 快適さのみ求めると、島の風景が消えていくはめになる。
 伝統を守り過ぎると、若い人が住まない島になる。
 守るべき伝統と、住民のための快適さ。
 どちらが大切とは言い切れないが、どちらか一方に頑固にしがみつき過ぎると、どちらの道もいずれは先細りになっていってしまわないだろうか。
 判断をまかされる調整委員自身の認識に期待を寄せたい。

≪観光と暮らしの相乗効果≫
 「5時に仕事を終えて、シャワーを浴びたら縁側でゴロリと寝転んでビールを飲む。なんともいえない幸せを感じるねぇ」
 笑みが上勢頭さんの顔いっぱいに広がる。
 毎日こうはいかないだろうが、贅沢ささえ感じるなんともうらやましい話。
 そこには欲も得もないという。
 「暮らすだけで自然と癒されるんですよ。島の人はヒーリングという言葉は知らなくても充分癒されている」。
 もちろん、島で暮らす上で島民ひとりひとりの役割と義務は当然ながら大きい。
 都会でのように人と関わらず自己主義を通していては、小さな島では暮らせない。
 実際、「自分の意見だけを言っていると住めないところです。人間関係が全部見えるし、相手を立てる気持ちや合わせることをしないとやっていけない。合わないだろうが何だろうが、一緒に共存しないといけないんだし。でもその上自分の意見もないと、周囲がみんな強いから流されてしまう」
 と暮らす人自身の強さや柔軟さが求められるような声も聞かれた。
 それでも島に暮らす喜びというものは、そういった部分をも補って余りあるのかも知れない。
 「この先、生きていくのが楽しみなんです」
 といった島の女性の笑顔が忘れられない。 
 ところで、上勢頭さんの言葉で印象的だったのが
 「この昔ながらの町並みは、なにも観光のために映画のセットのように作っているわけじゃないんです。島の人は観光収入でもっと儲けようという目的ではなくて、自分たちが健康に気持ち良く暮らすために、こういう家に住んでいる。それがたまたま観光と結びついている」
 というものだった。
 長寿の島といわれるのも、こういう家に住んでいるからこそ日々健康で長生きができるらしい。
 「島民の暮らしと観光産業が相乗効果を及ぼして、竹富はいま良い方向に進んでるんだと思います。ただ、それだけに転ぶと立ち上がるのはなかなか難しいとも思いますが」

≪島の未来への警鐘≫
 島のあちこちから「この数年で島は変わりつつある」という不安げな声が聞こえた。
 真剣に島の未来を考えている人が多く、問題提起の裏側にはいつもばがーじま(我が島)に対する深い愛情が感じられた。
 これから先の島の未来を思うとき、確かに危惧する点も浮かび上がる。
 これまでは無意識のうちにできたことも、今後は意識を持って考えなければ難しくなる。
 今のうちにしっかりと何が問題なのか見据えたい。
 石垣在住のある人は「竹富はすべて観光中心になっている気がして、普段の暮らしがおろそかになっていないか心配」と危惧する。
 それは島民からもささやかれている恐れではあった。
 「今は観光を規制したくても(客を)受け入れるしかない状況」という人もいた。
 観光の島としてやっていく上での問題点に、いま竹富を訪れる観光客のほとんどが日帰りのパックツアー客だという点がある。
 駆け足でたくさん回る観光が主流の日本で、ひとつの島でのんびり滞在し、そこにお金を落としていく観光客はほとんど少ないだろう。
 竹富島は特に石垣島からフェリーで片道15分足らずと近いだけに、日帰りで訪れる人が圧倒的だ。
 観光地として多くの旅行者が訪れるにも関わらず、島は潤わない。
 「観光客が来ても島にはゴミしか残らない」という現状もあり、2~3時間で素通りされるだけにならないためどうするべきか。
 島出身者からは
 「外から見ていると、一部の会社にだけお金が落ちてしまっているように映る。公民館(地域)にお金を落とすためにも、島に入る際には入域料が取れないだろうか。そのお金を道の整備などに使えないか」
 という意見があった。
 また、ある島民からも
 「観光地が廃れていくパターンがあるらしくて、初めにバックパッカーが来て、次に新婚さんが来て、団体さんが来て、最後に修学旅行が来て、廃れていく。竹富は今まさにそのコースを辿っているような気がしてならない。リピーターとして個人でもう一度来たいと思ってもらえるようにならなければ。それに、これだけ観光客がいて、町並みを見に来ているのに、その町並みに還元されるものがない。島のあちこちに置いてある赤瓦基金の箱にはほんの少しずつだけど一応入っている。でも、ひとつの提案として、船のチケットから例えば5円を島に還元するといった形で島にお金を落とす方法もあるのではないでしょうか」
 という提案があった。
 ただ、入島料を取るのは法律違反になってしまう恐れがあるらしい。
 こういう論議がここしばらくなされてきて、ようやく今、具体的な形が成されつつある。
 それは竹富島オリジナルの「観光ガイドブック」の作成だ。
 「島に入る人には心得として必ず買ってもらうようにするんです」と公民館関係者は話す。
 また、若者が少ないことも島の人々は憂う。
 島外から住み着く若者はいても、島から出ていった若者のUターンが少ないのだ。
 それには、
 「帰って来たくても仕事も住むところもない。昔のままの家は、年寄りはいいかも知れないけど、外で暮らしたことのある今の人には住みにくい」
 「島にはあとを継げるような仕事がない」
 という理由が挙げられるようだ。
 出る一方で戻ってくる若者がいなければ、将来は島を支える年代が欠けてしまう。
 そうならないためにも現状を変え、島に戻りたいと思う若者を増やす努力をしなければならない。
 上勢頭さんが「いろんな世代がコミュニケートできないといけない。若者も祭りなどに参加させることで巻き込んで島をいい方向に持っていくこと。それが地域にできるかが問われると思います」
 というように、若者たちの意見を地域のリーダーたちがキャッチし、反映させなければいけない。
 巻き込む地域の力が弱いと、竹富の武器である結束力も、いつしか弱まっていくことになる。

≪竹富が体現したもの≫
 景観、という言葉が「見るだけの価値を持った、特色のある景色」を意味するならば、竹富の景観はその言葉の意味を充分に満たしている。
 それに、島を訪れると今や薄れつつある人や自然との関わりを再認識させられる。
 魅力を突き詰めていけば人や自然、景観などいろいろあるだろうが、人が環境を作ったのか、環境が人を育てたのか、どちらかは分からないほど、島と人は密接につながっている気がした。
 私は竹富の人は良い意味で「したたか」なのだといいたい。
 純朴な風景の魅力に惑わされたこちらのセンチメンタリズムをよそに、決してそれに利用されず柔軟にやってきたからこそ、この21世紀にもよその島が失ってしまった昔ながらの八重山らしさを残し、体現することができたのではないだろうか。
 他者を受け入れる懐の深さと同時に、譲れない規律の両方が竹富にはある。
 揺るぎないアイデンティティがあるからこそ、ゆとりが生まれ、他者に与えることができるのだ。
 一枚も二枚も上手のズンブンナー(知恵者)だと改めて感心させられた。
 ただ、これから先の竹富も、そう在り続けることができるか。
 生きていく上で変わらなければならないものと、守らなければならない伝統的なもの。
 そのせめぎ合いに、いま島が揺れ始めている。
 町並みと暮らしの両方こそが守られ、人の心が薄れなければ、竹富島の未来は住む人も訪れる人も魅了し、愛される島であり続けると思う。

石盛 こずえ

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