名蔵瓦窯の特徴として、次のようなものが挙げられる。
現在この瓦窯は1基しか残っていないが、かつては一緒に2~3基あったのではないかとみられている。
また、現在一般的な筒状構造とは異なり、この窯は今では見られない平窯(ひらがま)構造をしている。そういう意味でも注目度が高い。
全体的には馬蹄型をしている。今では天井部分がないが、使われていた当時はおそらくドーム状の屋根もあったはずとのこと。
200~300枚の瓦が一度に焼けるほどの大きな窯である。
この周辺から大量の瓦が出土した。
それらはここで作られていた製品を知る手がかりとなる。
≪八重山の瓦工場≫
八重山特有のギラギラと強い日射しも、屋根の上の赤瓦が心なしか和らげてくれるような気がする。
八重山を象徴する赤瓦だが、残念なことに現在では使われている瓦のほとんどが沖縄本島から入ってくる製品であり、地元にいくつかあった工場も今では廃れてしまった。
そんな中、昨年2000年の夏から冬にかけて、名蔵で行われた石垣教育委員会の発掘調査では、名蔵瓦窯跡が約300年ぶりにその姿を現した。
この窯こそ、八重山の瓦工場の第1号だったのだ。
いま一度、この窯の果たした役割を振り返ってみよう。
≪その歴史≫
名蔵瓦窯の歴史は1695年に始まった。
琉球王府の政策に基づいて操業されていた。
沖縄本島から瓦工・瀬名波仁屋(にや)を招へいし、翌年にはそれまで茅葺きだった八重山蔵元や桃林寺の屋根に赤瓦を乗せた。
「いい土と木と水がある場所に窯ができる」
といわれるが、周辺の名蔵の土は焼き物にするととても上質で、近くに名蔵川が流れているのも窯に最適な環境だったようだ。
しかし、1731年には陶器窯の慶田川(きだなー、または黒石川と書いてふーしーなーと読んだりする。場所は八重山病院北側)窯に統合され、名蔵窯の歴史は幕を閉じる。
統合の理由に「中心地から遠い」と「瓦の焼成は1724年ごろ導入された陶器窯(つまり慶田川窯)でも十分だった」ということが挙げられる。
しかし慶田川窯も、本島の壺屋焼が流布してきてからは次第に八重山焼は使われなくなり、現在は残っていない。
だが、名蔵瓦窯跡のように操業期間がはっきりと限定される瓦窯跡の調査事例はあまりなく、東アジアの中でも極めて珍しい例といえる。
≪今後に示す課題≫
この窯跡からの出土資料の分析が進めば、近世琉球における瓦の文様や製作技術などの変化を読み取ることもでき、窯自体の変化過程を解きあかすカギとなる。
いわば「琉球窯業史の大きな転換点を物語る重要な窯」であるのだが、このような重要性を持つにも関わらず、周辺で畑の造成作業が進められており、これきりで姿を消す可能性があるという。
今後、どのような形で市が保存・活用していくかに注目が高まる。