神に追われた人びと

神に追われた人びと
神に追われた人びと
神に追われた人びと

八重山の民俗に長年深く関わり続ける3人が、近著をもとに、これまでの研究や今もっとも関心を寄せていることなどについて語った。

谷川健一(たにがわ・けんいち)
1921年、熊本県生まれ。
民俗学者。
現在、日本地名研究所所長をつとめる。
近著に『神に追われて』(新潮社)、『うたと日本人』(講談社)などがある。

「一番の違いは、神につかえるまでのプロセスが非常に特異だということです」

≪『神に追われて』を書いた動機≫
 私は何度も八重山に来てますが、いつも用を作りましてね、必要でもないのに必要であるかのごとく用を作っては、毎年八重山に来ているような気持ちがいたします(笑)。
 それでまぁ八重山の皆さんは困ってるんじゃないかと。私が何か用を作っちゃあ八重山に来たがるなとお考えじゃないかと思いますが、しかしここにいらっしゃる皆さんのお顔を拝見すると、懐かしい顔が揃っているので安心している次第でございます。
 ただ残念なのは、今年牧野先生がご高齢で亡くなられました。
 牧野先生とも長いお付き合いをさせていただきました。
 私は喜舎場永珣、それから宮良賢貞、宮良當壮の諸先生にもお目にかかって参りましたが、その研究を継ぐ牧野先生がとうとう亡くなられまして、淋しくて何ともいえません。
 しかしここにいらっしゃる皆さんが、八重山のこれからの伝統をしっかり受け継いで、後世に受け継ごうというお考えでいらっしゃいますので、それを頼りにしてこれからの八重山の文化の発展をお祈りしたいと思っております。
 『神に追われて』というテーマは私はずいぶん前から考えておりまして、古代史ノートっていうのを1974年に出しておりますが、その中にすでに章の一つの題として「神に追われて」という文を書いております。
 その当時はもっぱら奄美の方に関心を持ちましてやってまいりましたが、この琉球弧人の一番底辺に長年流れるもの、これはいったい何だというと私は神じゃないかと思います。
 その一番深い神に仕える人たちに対して当然興味を持ったわけですが、その時に気づきましたのは、その人たちが必ずしも暗い道を歩いているということです。
 神に仕える前にいろんな苦しい目にあったり、そしてこちらの言葉で申しますと、神ダーリ、ようするに夜眠れなかったり食欲がなくなったりいろんな前兆のようなものが起こってくると。
 それが本土の神に仕える人たちとは違う現象なんですね。
 神ダーリのある人に聞いてみますと、いずれもですね、そのカンタリヤーあるいはユタという人たちが神につかえるまでのプロセスが非常に特異なんですね。
 どうして特異かというと、彼らは我々と同じように人並みに原始的な欲望をたくさん持っているわけです。
 女性ならばいい家庭を作りたいとか、あるいは子どもを育てたいとか、いいお家を作りたいとか事業を発展させたいとか。
 ところがそういう人たちはその希望をことごとく打ち砕かれていく。
 そして、そのあいだあいだにしるしが出てくるんですけど、それに抗いながら原始的な欲望を追及していく。
 しかし、それはことごとく打ち砕かれていく。
 そして最終的に神の道へ入っていく。
 嫌々ながら入っていく。
 神に追われて入っていく。
 それが普遍的な神に仕える者たちの共通のコースなんですね。
 これは我々がキリスト教だとか仏教とかに魅かれて教会やお寺に入る道とは違うんですね。
 むしろ寺や教会に背を向けながら、最終的には神に仕える道に入っていく。
 それを非常におもしろいと、宗教的な違いであると考えまして、その74年に文章を書いて以来、ずっと追及してまいりました。
 奄美大島でも何十人というユタの方にもお会いしまして、それからしばらくして宮古島でも根間カナという神(かん)つかいに会いました。
 それでこの根間カナにもっとも典型的に表れているということを知りまして、それ以来テーマをこの人を中心に掘ってまいりました。
 90年に彼らの話を聞き始めて雑誌上に書きましたら、これがうまく毎月連載というわけにいかないんですね。
 なぜかと申しますと、神に仕える人たちは神こそが優先なんです。
 ですから私が会いたいと思ってもなかなか会えなかったり、あるいは約束をしていてもそれを無視したり反古(ほご)にしたり、あるいはその時急に何か障りが来たりしまして。
 長く続かないでとぎれとぎれに何度も休載して、やっとこさで去年1999年にようやく10年ぐらいかけて書いたレポート。
 それが『神に追われて』です。
 4月に新潮社から本を出させていただきまして、私としてはこの琉球弧の中に流れる神、もっとも深い神、その深い神と格闘した人たちの歴史、これを何とかして残したいと。
 ささやかではございますけれども、非常に深い喜びを感じています。
 これは宮古のみならず、八重山にも奄美にもみな共通するテーマだと私は考えております。
 私の『神に追われて』を書いた動機を簡単に申せばそういったところでございます。

岡谷公二(おかや・こうじ)
1929年、東京都生まれ。
2000年3月まで跡見女子大学で教鞭をとっていた。
近著に『南の精神誌』(新潮社)がある。

「御嶽は神社の元であると確信をもちました」

≪森だけの聖地≫
 大好きな八重山でこのような場を設けていただくとは予想しておりませんでした。
 たまたま谷川先生の本と私の本とが同じ新潮社から同じ時期に出ましたものですから、先生に誘われて、喜び勇んでやってまいりました。
 私が石垣にきましたのはだいぶ前で昭和36年、40年前です。
 復帰前でアメリカの軍政下でした。
 東京から当時ここへやって来るのは実に大変で、まずパスポートが必要でしたし、沖縄に地元引受人がいないとビザが下りなかったんです。
 石垣まで渡るのにまず鹿児島まで夜行で行って、それから那覇、宮古にも経由しました。
 私は別に民俗学の専門家でもないし、沖縄の研究家でもないんですが、なぜわざわざ行きにくいところへ行ったかというと、単純に昔から南や海や島が好きなんです。
 ポール・ゴーギャンという画家に大変ほれ込んでまして、ゴーギャンは南太平洋のタヒチへ行ったんですけど、それを調べているうちに、日本人にとって南とはどういうものであるかなどと考えて、南に行きたいと強く思うようになりました。
 私が来たときは石垣はパインの収穫期で、今のようにホテルや旅館はあまりなく、赤瓦の静かな素朴な街でビルもほとんどありませんでした。
 私の身元引受人がクリスチャンで、海星小学校のカトリック教会のモーマン神父さんという方を紹介されまして、この方は大変地元の方に愛されたアメリカ人の神父さんでしたが、そこへ行ったところ、「部屋が空いてるからここに泊まれ」といわれ、1カ月ぐらいお世話になりました。
 モーマンさんは非常に日本語が達者で、もともとニューヨークのデパートの社長の息子さんらしいんですが、まず奄美に5~6年いて石垣に来たそうです。
 「ニューヨークから来たら、とてもこんな世界は知らなかった」といっていました。
 近くにイシャギオン(石垣御嶽)があって、私はそれまでまったく御嶽っていうのを知らなかったんです。
 何か品がある場所なので聖地だというのはすぐ分かりました。
 中入ってみると、狛犬とか鳥居とか何もない。
 ただ小さな建物がポツンとあって、誰も来ない。
 木が茂って、森だけの聖地。
 非常に心が安まる感動を覚えました。
 それから波照間島で大きな森を「あれは何だ」と聞くと、「入っちゃいけない」といわれました。
 そしたら散歩のときに、ここから入っちゃいけない、特に男性は絶対入っちゃいけないというところへ紛れ込んでしまったんです。
 他にも御嶽を回ったんですけれども、あれほど素晴らしい御嶽はないですね。
 それ以来、御嶽にほれ込んで関心を持ちまして、あちこち御嶽をめぐってきました。
 この森だけの聖地というのは、もしかして本土の神社のもともとの形じゃないかと思いまして。
 これはちゃんとした文献にも本土の神社の原形だと出てくるんですね。
 それで私が思ったのは、なぜ本土の方では森だけの聖地がなくなってしまったんだろうということでした。
 今では必ず建物が建っています。
 しかもお祭りとなると、こちらのように女性がすることはまずない。
 でも、もしかすると御嶽に近いような聖地が残っているんじゃないかと考え、御嶽を歩く一方、本土ででも建物のない森だけの聖地を探して回りました。
 そんな中でやっぱり御嶽は神社の元であると確信をもちました。
 なにもないというのは日本人の原点ではないかと思います。

山下欣一(やました・きんいち)
1929年、奄美大島生まれ。
文学博士。
現在、鹿児島経済大学社会学部教授。
2000年8月に奄美・沖縄民間文芸学会の初代会長に就任。
近著に『南島説話生成の研究』(第一書房)がある。

「毎年拝みを続けるようになったら、それから大変運が良くなった、ということです」

≪あるユタの話≫
 お二人方はここにこうして本をもっていらっしゃいましたけれども、今回の旅は私まで谷川先生に誘われてまいりましたが、私は谷川先生にあまり逆らえない立場にあるもんですから(笑)
 著書も何もなくてこうして一緒に座っているのは心苦しさもございますが、それをあえて話をしたいと思います。
 私は奄美の出身でして、すべて奄美に付着する話をしたいと思います。
 まず今日お暇をいただきまして私は石垣のユタの方のところにまいりました。
 2時間ほどお話を伺いました。
 実は世話していただく方が都合が悪くておいでになりませんでした。
 それではということで、まずこういう場合に私のささやかな経験では、タクシーの運転手さん、特に地元の年取った方に聞くというのが一番いいわけですね。
 そして沖縄本島でも八重山でも奄美でもそうですが、タクシーの運転手さんに聞くと、よくご存知です。
 しかし、八重山に来て聞いてみると、大和から来た運転手さんがたくさんいるということですので、そういう方の車に乗って「ユタ知りませんか」といっても「何ですか」としかいえないだろうということで、なるべく年取った方で落ち着いたような方に話を聞いて、それでまいりました。
 谷川先生の『神に追われて』に関連してお話ししますと、私が伺ったそのユタの方のお父さんは奄美大島の南にある小さい島の出身なんですが、幼いころから大変苦労した方なんですね。
 くり舟で奄美から沖縄本島、さらにずーっと南に下って、与那国でお母さんと一緒になった。
 そして戦前は台湾へ渡って台湾でたくさんの子どもが産まれた。
 終戦になって、引き上げることになったところが、奄美は鹿児島県なので、沖縄には行けないと、わざわざ鹿児島に行きなさいということでした。
 そこでとにかくいろんなことがあったんですが、石垣に移住して、ある村で19年間ものすごい農業労働に耐えて、頑張って35軒の家を造ったということです。
 この35軒の家っていうのは何かというと、掘っ立て小屋なんですね。
 大工として頼まれて造った。
 今は大変裕福な生活をしております。
 それで娘さんは50歳過ぎてから病気になって、先ほど谷川先生がいわれた神ダーリになって、どこの病院に行ってもだめ、体の具合が悪い。
 それで沖縄の病院に行ったときに、向こうにいる兄弟がユタのおばあちゃんを連れてきて、「あなたは奄美の先祖を拝み、神社を守らなければいけない。
 あなたにそれができれば病気は良くなる」といわれたんですね。
 奄美に12歳のときに帰ってすぐ八重山に行ってますから、本人には奄美の土地勘がないんです。
 それでご主人と一緒に出かけていった。
 そして自分の父親の祖先のところを訪ねて歩くのが始まるわけですね。
 おもしろいことに、毎年奄美大島にいって神社を訪ね続けるようになったら、それから大変運が良くなったということです。
 今では大きな資産家になっておられます。

石垣 博孝

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