密林に消えた島の近代史-西表炭坑が物語るもの-

密林に消えた島の近代史-西表炭坑が物語るもの-

不夜城のようにアセチレンのガス灯がついていた炭坑村。 しかし出口のない島はまるで「緑の牢獄」のように坑夫たちをがんじがらめにしました…

西表炭坑が姿を消してから、半世紀が過ぎました。
その名を知っている人でも、いまでは実態を知る人は少なくなりました。
西表のジャングルには、炭坑があったころのレールの支柱や、内離島には当時の八坑の跡が残っていますが、それもやがては風化したり、密林に呑み込まれてしまうことでしょう。
しかし炭坑の歴史はどんなものだったのか、それは忘却の彼方に押しやってもよいものでしょうか。
私がはじめて西表炭坑のことを知ったのは、一九五〇年代の終わりごろ、八重山高校一年のときクラブ旅行で白浜に来たときでした。
夜になると白浜には夜のとばりが降り、深く闇におおわれていました。
そこで私は村はずれに幽霊が出るという話を聞きました。
それが炭坑と関係があるらしく、殺された坑夫たちが夜になって出てくるのだということでした。
何かたいへんなことが炭坑であったということを漠然と聞いたのですが、なぜか恐いというイメージだけが残っていました。
大学を出て私は沖縄の新聞社の記者として東京で沖縄返還交渉などを取材するようになり、まず国家による統合過程で辺境の島々も大きく揺れ、私はあらためて生まれ島、八重山の歴史を調べるようになるのですが、そのときふと西表の白浜で聞いた炭坑のことを思い出したのです。
しかし西表炭坑のことは、どの歴史の本を見てもくわしく書かれたものはありませんでした。
せいぜい五、六行で書かれているだけで実態は書かれていませんでした。
いったい西表炭坑の歴史は、五、六行で処理されるような歴史なのであろうか―。
私はそれから炭坑に関係のあった人や元坑夫たちをたずねて聞き書きをしましたが、聞けば聞くほど、この炭坑の歴史は放置できないものであることがわかってきました。
いつかだれかがきちっと書き残すべきだと思ったのですが、さりとてだれも関心を持ってくれないので、結局自分でやるしかない、と思って調べ始めたのです。
真っくらな坑道に下りて行ったら、目の前に何も見えないが、じっと目をこらしているとだんだん見えてくるように、炭坑のことがしだいに見えてきたのです。
二十年かけて調べたのですが、その間に西表炭坑について五冊の本を出しました。
私は歴史というものをどのようなかたちで残せばよいのかと考え、一つはできるだけ関係者の話を聞いてこれを文字に書き残すことにつとめました。
これは『聞書・西表炭坑』(1982年 三一書房)という本にまとめました。
それから関係する資料を一つでも多く集めました。
これは『西表炭坑史料集成』(1985年 本邦書籍)としてまとめました。
また写真を一枚でも多く集め、これが現在どうなっているか現場検証して、昔と今の二つを組み合わせて『写真集・西表炭坑』(1986年 ひるぎ社)としてまとめました。
そしてこれらの歴史の通史を『西表炭坑概史』(1983年 ひるぎ社)や『沖縄・西表炭坑史』(1996年 日本経済評論社)としてまとめました。
聞き書きをして回ったころ、訪ねてゆくと「去年亡くなられました」とか言われ、もう手遅れではないのかと途方に暮れたこともありましたが、いまから思えば調べておいてよかったと思います。
なぜならあのとき私が聞いた人たちは、ほとんど亡くなっていないからです。
かろうじて間に合ったのかもしれません。
さて、西表炭坑ですが、この炭坑の発見や、採掘に至るまでの間にもいろいろとドラマがありますが、時間がありませんので省略します。
採掘が始まったのは一八八六(明治一九)年三井物産会社が明治政府の後押しで、沖縄本島の囚人を使役して始めたのが最初でした。
囚人を坑内労働に使うやり方は、北海道や九州でもありましたが、それが沖縄でも取り入れられたのです。
それはこの炭坑の不幸な出発でもありました。
坑夫たちはマラリアにかかってばたばたとたおれ、数年後にはつぶれて三井は手を引いてしまいました。
舞台となったのは白浜の向かいの元成屋や内離島です。
その後も大倉組や尚家資本による八重山炭鉱などが手を染めますが、いずれも長くは続きません。
大正時代に入ると、琉球炭鉱や沖縄炭鉱などが坑夫一千人余を使って採掘に乗り出してきます。
一九一七(大正六)年ごろの第一次欧州大戦後の石炭需要に支えられて、活発に採炭が行われるようになります。
石炭は国のエネルギー源ですから、戦争とは近い関係にあったのです。
しかし坑夫たちの労働は過酷さを増し、納屋制度のもとで地獄の苦しみをなめることになります。
納屋制度というのは納屋頭のもとで、坑夫の生活や労働の一切をとりしきる制度で、九州あたりの炭坑からもたらしたもののようです。
四六時中、人繰りという労務が目を光らせ、逃亡者が出ると捕えて見せしめのリンチを加えました。
私は「緑の牢獄」といっているのですが、出口のない島は、まるで牢獄のように坑夫たちをがんじがらめにしました。
また炭坑では、そこでしか通用しない「斤券」が使われました。
坑夫たちの賃金は、会社側の発行する斤券によって支払われ、坑夫たちはこの券をもって炭坑の購買所で日用品を手に入れました。
本来この斤券は、本金と呼ばれた現金の裏付けがなければいけないのですが、会社側はそんなことをせず、紙に斤数を書いたものに、会社のハンコを押したものを発行していました。
ですから炭坑がつぶれたり、坑主が逃げてしまうと斤券はただの紙切れとなりました。
この斤券にまつわる悲劇も多かったのです。
坑外では使えませんので、これは坑夫たちの逃亡防止の機能も果たしていたのです。
山原からやってきた一家が、コウモリ傘のいっぱいせっせと貯えた斤券が、坑主が逃げてただの紙切れとなったという話を聞いたこともあります。
昭和に入ると、新たに浦内川支流の宇多良の方に丸三炭坑宇多良鉱業所が開坑され、西表炭坑の主舞台はここに移っていきます。
この炭坑が開かれたときの写真が残っておりますが、ジャングルのなかにひとつの炭坑村が出現したことがわかります。
私はこの写真を手掛かりに、現地を訪ねたことがありますが、いまはジャングルと化したところに、こんな炭坑村がつくられたのかと驚くばかりです。
坑夫たちの納屋、三百人も収容できる劇場兼集会場、坑主・野田の邸宅といったように、ジャングルを切り開いて村がつくられました。
アセチレンのガス灯が不夜城のようについていたといわれています。
当時としてはかなり近代的設備だったようですが、戦時体制に入っていくに従って坑夫たちの処遇は厳しさを増し「圧制の炭坑」として坑夫たちからは恐れられました。
戦争に突入すると、船浮要塞隊の砲台建設が始まり、坑夫たちが軍夫としてこの建設作業にかり出されました。
沖縄の近海にも敵の潜水艦が遊よくするようになり、船による石炭の輸出も困難となり、次第に炭坑はすたれてゆきます。
西表炭坑には大正時代から台湾人坑夫がたくさん使役されていきました。
朝鮮人坑夫もいたようですが、台湾人の方がはるかに多かったようです。
謝景という台湾人の経営する炭坑ではほとんどが台湾人坑夫であったようです。
台湾北部の基隆には、炭田があり炭坑がありましたので、そのあたりの坑夫たちが流れてきたようです。
坑主は坑夫をつなぎ止めるためにモルヒネを使っていたという話もあります。
西表地元の人たちと炭坑との関わりについて触れておきます。
地元の人たちが坑夫として働くということはありませんでしたが、村の人たちは炭坑に野菜やマキなどを売ったり、石炭を本船に積み込むときの日雇い労働をしたりしていました。
そのとき支払われる賃金もやはり斤券でした。
このため村の人たちは不満を持ち、本金で支払えという要求も出たようです。
坑夫たちの苦しい労働と生活を目にしている西表島の人たちは、坑夫たちには同情的だったようです。
坑夫の逃亡を手助けしたり、糸満漁夫はサバニに乗せて逃がしたりしたということを聞きました。
しかし石垣あたりでは逃亡坑夫に対しては、あまりかかわりを持ちたくないという面もあったようでした。
こうしたイメージというものは、いつの世も誤った事実認識のなかでつくられていくものです。
こうした認識がひとつには、この炭坑の歴史を自分たちとは関係のないものとして放置する一因ともなったと思うのです。
私たちはしばしば外に向かっては、沖縄に対する差別を問題としてきたし、いまでもしていると思いますが、私たちの「内なる差別」に対しても目をそむけることなく、しっかり捉えることが大切だと思うのです。
そうでなければ、私たちの差別に対する姿勢はほんものとはいえません。
そのことを西表炭坑の歴史から学ばねばなりません。
もうひとつは、地域の産業というものに対する見方です。
西表炭坑は石炭資源をとるために資本も労働も外からやってきたのですが、こうした植民地的な在り方が、結局、この産業を根づかせなかったのではないかと思います。
つぶれた原因はいろいろありますが、地域開発の本質的なところでみるならば、そういえると思います。
最後に私は、この炭坑跡の保存について提起したいと思います。
かつての炭坑跡は、冒頭で述べたようにいまジャングルに呑み込まれようとしています。
消えて無くなるのも歴史でしょうが、いま残っているものだけでも、炭坑の歴史を後世語らせるために残すことは、意義のあることと思います。
私は私なりに本や写真集にして残すことをしてきましたが、現にある遺構をどうすべきか、それをみなさんに提起して私の話を終わります。

三木 健

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