景気を浮揚させ住民生活を潤す

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≪燐鉱の島≫
 日本最南端の有人島で知られる波照間島だが、八重山では唯一、燐鉱石を採掘した島でもある、燐鉱石の採掘は戦前の一時期、島の経済を潤し、地域活性化に一役買った。
 島の人たちは、「リンコウ」と言えば「燐鉱」を想起する。島の北部にある、かつての採掘現場は亜熱帯樹林の中に大きな口を開き、往時の面影をかすかに残している程度である。最盛期には採鉱夫などで賑わったであろう。また、島にあったもうひとつの燐鉱跡は住民らのチリ捨て場に利用され、今では埋め立てられ、採掘の跡をまったく止めていない。現在では、採掘現場を確認することさえ難しい。
 島は燐鉱で栄えた、といっても、全土に燐鉱床があるわけではない。燐鉱のある場所は島の北部と西部に限られ、古い時代から隆起珊瑚礁から成る亜熱帯の島であることには変わりない。

≪島尻群泥岩と石灰岩≫
 島は面積12.46平方㌔、周囲14.80kmの東西に長い楕円形をなす。最高地点は59.6mで、そこに灯台が建つ。地形は同心円状に標高30~40m面、20~30m面、10~15m面の主要な三段面に区分され、その他、標高10~15㍍の細長い砂丘面、表土の分布しない標高3~6㍍の最も低い面などで形づくる。。
 地形は、大まかに三段面を構成しているが、平坦面をつくるものは、大半、琉球石灰岩である。島の、このような地形的な特徴と対応して、これら地形面をつくる堆積物にも特徴がある。
 島の基盤岩は、新第三紀中新世末期ないし第四紀更新世初期に属する島尻群泥・砂岩で第四紀更新世中・後期の琉球石灰岩および完新世堆積物が不整合に島を覆う。
 島尻群泥岩層は、地下水を浸透させない不透水基盤を形成しており、島内では唯一、燐鉱採掘現場から北西の下田原城跡近くの採掘坑道内(通称・大切坑)に露頭が見える、坑道中からは枯れることのない地下水が湧出している。

≪海鳥の糞尿が堆積≫
 島尻群泥岩層を基盤とし、石灰岩が表土を覆う「ヌングン島」に化学肥料の原料となる「燐」がなぜ埋蔵しているのだろうか。
 「燐」は、地殻中に比較的多く存在する元素で、燐酸塩鉱物をつくる。この「燐」を主要成分とするのが燐鉱で、燐酸塩を主成分とするのが燐鉱石である。
 燐鉱石資源の主要は、有機堆積鉱床、グアノ鉱床、カーボナタイト鉱床などが挙げられる。これらの中で島の燐鉱を生み出したのはグアノ鉱床のようである。
 グアノとは有機成因で熱帯地方の海岸や島に野生する海鳥の糞尿が堆積したもの、という。名称の由来は、南米ペルーのグアナイシロハラヒメウという鳥にある。
 世界的にみるとグアノは、南太平洋のナウ島、インド洋のクリスマス島、そしてペルーグアノとして19世紀中頃から濃厚窒素質肥料を世界市場に輸出したペルーなどがよく知られているようだ。
 グアノは海鳥の糞尿が堆積してできた燐鉱石の資源だが、それは窒素質グアノと燐酸質グアノの2種類に分類できるという。島の燐鉱石は、降雨量の多い高温地帯の珊瑚礁上に堆積する燐酸質グアノを成分として、かなり古くから地中に埋蔵していたといえよう。

≪燐鉱石の発見≫
 石垣島、西表島の南方にあり、かつては渡航が厳しく「絶海の孤島」のイメージの強かった波照間島だが、隆起珊瑚礁の島に燐鉱石が埋蔵されていることが分かると企業家の注目を集めた。
 鉱物燐鉱石の発見によって様々な資源調査が行われ、おおよその埋蔵量が算出された。燐鉱石に含まれる燐は、肥料や化学製品の資源になるといわれるが、企業家は算出された埋蔵量に基づき、企業経営の採算がとれるかどうかの判断を下した。
 新聞資料によると、燐鉱石が発見されたのは1921年(大正10)ごろのようだ。『八重山新報』の同年3月1日付け紙面に以下のような記事がある。
 『本郡波照間島字西留に燐鉱あるを発見し東京市芝区内田某氏により其鉱区九十六万二千坪の掘願を福岡鉱務署に出願したるが右燐鉱試掘は公益上支障なきやと本県知事に鉱務署長より照会ありたり。八重山郡内には大正島及大神島にも燐鉱試掘出願ありたるを以てこれにて三ケ所燐鉱区ある訳なり。』
 右記の記事から燐鉱試掘の出願はあったものの、実際に試掘が行われたか、どうか判然としない。また、燐鉱区の試掘出願が内田某氏とあるだけで、発見者は内田某氏とは断定できない。
 燐鉱発見者に関しては『先島朝日新聞』の1929年(昭和4)5月30日付け紙面に「波照問島が全島燐鉱であることを発見したのは塩谷東一郎氏で…」との記述がある。さらに「試掘の結果、二十八%の含量で現に技師が波照間に滞在をして調査中であるが、ラサ島の十五倍も産額ある見込みであるさうである。…」と綴る。
 燐鉱を発見した人物については、別の資料に波照間島出身の仲本信幸氏(元竹富町長、八重山地方庁長)との記述があり、明確化は難しい。

≪試掘から採掘へ≫
 試掘については『鉱業法』に基づき、試掘願許可を受けて行うことになるが、試掘願いの許可を受けたのは塩谷東一郎氏だと裏づける資料は見当らず、記事の信憑性を疑わざるをえない。
 『官報』によると最初の試掘願許可は、1930年(昭和5)4月28日、農学博士の恒藤規隆氏(東京市牛込区若宮町)他1人が得たようだ。試掘面積は50万1300坪に及ぶ。
 試掘願許可は、その後何人かに次々と出されている。1930年(昭和5)10月2日・恒藤規隆氏他1人・7万1500坪、1932年(昭和7)10月5日・切通唐代彦氏(那覇市西本町2丁目)・12万4700坪、1932年(昭和7)11月14日・恒藤規隆氏・7万1500坪、1934年(昭和9年)3月6日・塩谷栄二氏(石垣町字大川218番地)・12万7000坪、などの名前と許可面積の記録がある。

≪採掘が本格化≫
 採掘許可は1933年(昭和8)11月に恒藤規隆氏が受け、1935年(昭和10)6月には塩谷栄二氏が受けて、両者による燐鉱採掘が始まった、採掘面積は塩谷氏の場合、16万坪と広大である。
 同氏に関しては試掘調査後の1934年(昭和9)4月以降、朝日化学肥料株式会社との間で採掘協定が締結され、朝日化学肥料(株)が採掘に乗り出すことになった。
 同社の佐古田政太郎社長は、1934年(同9)7月9日に波照間島を訪れ、採掘の状況を視察している。朝日化学肥料(株)と同様に採掘に着手することになった恒藤氏は、燐鉱の本格的な採掘に際し次のように語る。
 「波照間の燐鉱はとてもいい、含燐歩合からいふと質のよい硬度燐と中度燐、下等燐の3段に分かれているが、燐層も相当豊富らしく波照間の全面積30万坪の間に点々と埋蔵されている。今後、何年分の燐があるか、これからまだ掘り下げて調査してみなければ分からないが、質のいい燐が可なりあるといふことだけは言へる」と太鼓判を押す。

≪企業経営の採鉱≫
 恒藤氏、塩谷氏の試掘調査および試験的な採掘が一段落すると、採算のとれる企業としての本腰を入れた採掘が始まった。採掘の時期は、新聞資料等から判断して1938年(昭和13)頃のようだ。
 「朝日化学肥料会社はさきに買収した沖縄県波照問島の燐鉱開発方法につき慎重考究中だったが、最近その実地調査を完了したのでいよいよ早急に開発採掘に着手することとした。波照間島はラサ島の西西東、八重山列島中にある小島で実地調査の結果、絶対確定埋蔵量42万㌧(25%以上)、推定量2百10万㌧あり、鉱質も最高45%を示す良鉱で会社は第一期計画として本年9月までに月産3千㌧の採鉱設備を完成し、次いで県当局の同島港湾計画実施と併行して最大能力月産1万㌧の採鉱設備をなす予定である」(『琉球新報』昭和13年4月3日)との記事からおおよそ判断できよう。

≪島の2ヶ所で採鉱≫
 燐鉱採掘は、塩谷氏から事業を受け継いだ朝日化学肥料(株)が、島の北部にある小字・不登流茂知原(フトゥルモチバル)で開始し、恒藤氏は島の北西部の小字・外ノ後原(フカヌシィーバル)で着手した。
 朝日化学肥料(株)は、恒藤氏の採鉱より企業規模は大きく、作業現場に事務所や鉱夫の宿所などを設け、精力的な採掘を展開した。
 坑道の地盤を支える坑木は、西表島の山岳林が利用された。坑木切り出しには、かつて西表炭坑に従事した坑夫らが当たった。採鉱は1日7㌧~8㌧ほど行われ、企業収益は段階的に増加した。
 恒藤氏の採鉱は、朝日化学肥料(株)より小規模で当初、1日1㌧内外ほどだった。
 採掘施設は坑内トロッコ、牽引ウィンチ、現場から港への積込み輸送用レール、倉庫、積出桟橋、雷管ダイナマイト貯蔵庫、乾燥場などが建設された。
 農林省は1938年(昭和13)から1940年(同15)にかけて南西諸島鉱物資源調査を実施したが、調査を裏づける写真が残っている。写真から採鉱の様子を窺い知ることができる。

≪人海作戦の採掘≫
 燐鉱採掘は、様々な動力が用いられたが、機械力と同様に多くの人力を必要とした。雷管ダイナマイトの燐鉱爆破による採掘のほかツルハシを用いて燐鉱石を掘り起こす作業もあった。
 採掘現場で働いていた当時の住民の証言によると、作業員は最盛期には200人余いたといわれる。その内訳は、島の青年、壮年のほか、本土出身者、沖縄本島や宮古から来島した従業員など多彩だった。採掘現場は、深さ約20㍍ある縦坑のほか横穴の坑道が四方に延び、その中で作業員は目まぐるしく働いた。
 採掘された燐鉱石は金槌で割られ、含有量によって上品、中品、下品と選別された。作業内容は持ち場によって異なったが、燐鉱石を選び出す選鉱夫(婦)は、その力量によって、一等、二等、三等とランクづけられ賃金に格差があった。

≪採鉱の労働事情≫
 採掘作業は午前8時に始まり、午後5時に終えた。労働時間は現在とほとんど変わらないが、本土企業家の仕事への観念は厳しく、特に時間に対しては厳格だったようだ。
 「作業が始まる時間に遅刻したら一大事、それこそ大変だった。そのため少なくとも午前7時30分までには作業に入れる態勢を整えておかなくてはならなかった」と当時の作業員は語る。
 大型機械が動き、ダイナマイト等がある作業現場は、常に危険と隣合わせの状態にあった。企業は安全管理に配慮したようたが、1938年(昭和13)6月22日、選鉱作業中の若い女性が産業事故で死亡した。原因は鉱石運搬用橋の坑木の落下に伴う脳天直撃だった。即死の状態であった。このとき、若い男性も顔面に重傷を負った。
 賃金は婦女子は1日40銭、男子は65銭~70銭であったとの文献資料があるが、当時、坑木の切り出しに従事した元炭坑夫の記録に「労務者は1日1円20銭であった」と記述がある。賃金は労働の質によって格差があったと考えられる。
 両資料はそれにしても、賃金の開きがあまりにも大きい。文献資料と元炭坑夫の記録は、どちらが信憑性が高いのか、即断はできない。賃金を割り出す根拠となる史資料が必要となる。
 元炭坑夫の記録は宮古島出身者らが「賃金が安いから全員に1日1円50銭支払え」と経営者に賃上げ要求していることも記述している。記録には、また、賃上げを求めて一部の作業員がストライキを起こした、との記述もある。果たしてストライキがどのくらいの規模だったのか分からないが、元炭坑夫の記録は、燐鉱採掘現場における労働事情を一端の明らかにする。

≪燐鉱景気に沸く島≫
 波照間島の明治以後の生業は、天水田による稲作と甘藷、雑穀の栽培、珊瑚礁での漁撈が中心をなしていたが、明治末期から大正初期にかけて発動機船によるカツオ漁が盛んになった。産業基盤が弱く自給自足的な人々の暮らしの中で、カツオ漁業は島に活気をもたらし、住民の暮らしを潤した。
 島はカツオ漁業の導入により、経済が活性化する中で、人口は微増傾向を示した。1931年(昭和6)1283人、1932(同7)1302人、1933年(同8)1322人、1934年(同9)1362人、1935年(同10)1380人と段階的に増えた。そして、燐鉱採掘が最盛期を迎えた、1939年(昭和14)には1422人を記録し、1400人台を突破した。
島は夏場はカツオ漁業、冬場は農業という「半農半漁」の産業形態をなし、牧畜もわずかながら行われ、鶏も養われていた。燐鉱採掘以前までは「カツオ漁業の村」とのイメージの強い島だったが、燐鉱の採掘が本格化すると、島の経済発展に拍車がかかった。島は、「燐鉱景気」に沸き上がった。燐鉱は、八重山の経済効果にも少なからず影響を与えた。
 島は戦前の一時期、燐鉱のもたらした「にわか景気」で活気に満ちたが、当時を知る古老は口をそろえる。「燐鉱のあった昔は、島には本土の人、宮古の人ら多数いた。島の若い人たちは、お金持ちだったのか、彼氏も彼女も当時の流行を追い、お酒落をしていた」と話す。若者は、夏場はカツオ漁に携わり、冬場は燐鉱現場で働いた。

≪採鉱にピリオド≫
 波照問の燐鉱は、島の景気を浮揚させ、八重山の経済を潤したといわれるが、太平洋戦争が1941年(昭和16)に勃発すると、「燐鉱景気」も陰りが出てきた。
 朝日化学肥料(株)の鉱業所、恒藤博士の事業所は採掘以来、約6000㌧の鉱石を搬出してきたが、戦争が始まると近海には米軍の艦船、潜水艦が出没し、島外への鉱石の輸送が困難となった。
 採掘現場や港には掘り出された鉱石が山積みのまま放置され、野ざらしの状態になっていた。それが華やかだった燐鉱の末路であった。
 燐鉱採掘は、島の経済を活性化させ、下田原で湧水を見つけるなど、住民の飲料水の確保に予期せぬ利益をもたらしたものの、戦争で中止せざるをえなかった。1943年(昭和18)には朝日化学肥料(株)波照間鉱業所は廃業となった。採掘現場や港に放置された燐鉱石は、その後、道路を補修整備する材料として利用された。
 不登流茂知原(フトゥルモチバル)に大きく口を開く燐鉱採掘の跡地・今は亜熱帯樹林のなかで静かに歴史を刻み、顧みられることはほとんどない。採鉱から50年余が経ち、燐鉱を知る人が少なくなった。燐鉱の実態を記録として残し、歴史事実として語り継ぐことは現代を生きる、われわれの責務ではなかろうか。燐鉱採掘も波照間島の近代史の一コマである。

竹富町史編纂委員 通事 孝作

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