慰霊祭が終わりみんなが立ち去った暁之塔は、初夏を思わせる強い陽射しの中に揺らめいていた。ゆらめきながら天に登っていくのは五〇余年前の戦争で死んでいった者たちの哀れな魂なのか、それとも、塔が蒸発して大気に消え行く幻影なのか…。
「ここには薬室があった。その向こうは元の開南分教場。左手の方に下りていくと井戸と炊事場があって、その右手の林に手術室……」
伊是名米さんが指さす先のなだらかな丘陵は、光に溢れて、この光の中に五〇余年前の戦争を想像するのはどこかチグハグな感じがする。戦争を知らない世代には、戦争を想像し追体験するのは容易なことではない。
開南の大浜国民学校開南分教場に、石垣小学校から第二八師団(通称豊五六八一部隊)第三野戦病院の本部が移転してきたのは、戦争も末期の昭和二〇年六月初旬。甲号戦備が下令されてまもなくのことである。前年の一〇月一二日に石垣島初の空襲があって以来、戦況はますます悪化、六月一日には一般住民に山岳地帯への避難命令が出されていた。
部隊は、横井忠男隊長以下二七三人の軍人軍属と六二人の学徒(八重山高等女学校と八重山農学校の女性徒=人が足りないため二、三カ月講習を受けた即席の従軍看護婦)、それに一般の看護婦九人が加わった。伊是名さんは職業訓練所から命じられ昭和一九年一〇月に入隊した一般の看護婦である。開南では薬室に勤務した。
戦火は激しくなっていった。
「病院だということが分かっていたんじゃないかね、最初のうちは機銃掃射もなかったけど、そのうちどんどんやるようになった。傷病者は増えるし、避難したり患者の世話をしたり看護婦も大変だった。私たち看護婦も一〇人のうち九人はマラリアにかかったと思いますよ」
当時八重高女二年生の崎山八重子さんはマラリアで亡くなった。
昭和二四年、本土で第三野戦病院の戦友会・石垣会が結成され、それから四半世紀後の昭和四六年に会として初めて墓参団を結成して石垣島を訪れた。
その四年後の昭和五〇年一一月二三日に暁之塔が完成し除幕式が行われた。特に中心になって尽力したのが現石垣会会長の中山二郎さんである。そのために何度か来島し、塔の敷地を自費で購入し石垣会に寄付した。
「塔の意義はまず不幸な戦没者の慰霊のためです。そして平和への祈りです」と中山さんは言う。
去る四月一一日、暁之塔で石垣会創立五〇周年慰霊祭が行われた。中山会長はじめ島外から一九人が来島、島内から二〇人余りが参加して再会を喜び合った。当時従軍看護婦だった学徒たちももう七〇歳、軍医、衛生兵などで従軍していた男たちはほとんどが八〇の声を聞くまでになった。最年長の中山会長が八七歳である。
その夜、ホテルで行われた石垣会の総会で、会の存続と暁之塔の管理をどうするかが議題にのぼった。
「二年おきにしようという提案もあったが、毎年やらなければならないだろうということになった。しかしどこでやるかは分からない。私は一人になってもやります、と言っていた若い辻重明さん(薬剤師)は死んじゃったし…、ま、今まで通り。その方が続くでしょう」(中山さん)。
本土では山梨を中心(部隊が甲府で編成されたので山梨出身が多い)に毎年開催され、四年に一度は石垣島で慰霊祭を行うというパターンだった。が、会員が高齢化し、四年先の石垣島での慰霊祭がどうなるか微妙な状況にある。
石垣島の会員たちは、毎年六月二三日に慰霊祭をおこなっているが、ここでも管理のことが問題になっている。市に管理を依頼してみたが、断られた。早いうちにどう管理していくか、決めなければならないと考えている。
しかし暁之塔のように、慰霊碑という形になって残っているのはまだ良い方である。むしろ例えば、住民が避難した白水や武名田原、ペーギナーの巨大壕、震洋艇格納壕など消滅寸前の戦争遺跡などとあわせてどう保存していくか、戦争体験をどう継承していくか、その方法論が問われている。
石垣島の会員たちはまた月に一度は会合を持ち旧交を温めている。
「決まって出るのは戦争の話。夜勤や死後の処置の怖さ、仕事の辛さ、慣れない食事…。戦争の話させたらいつまでも終わらないさ」と伊是名さん。戦争のそんな話は、戦争を知らない子や孫の世代に伝わっているのだろうか。
何かが足りない気がする。戦争体験者たちの内省する力か、戦争を知らない世代の想像力か、継続する意志か、決意か…。何かが足りない。
中山さんに「戦争はまた起こりますか?」と問うたら、「戦争? まあ、私の生きているうちはないでしょう」と答えた。
もしも死んだら、もしも戦争を知っている人たちがみんな死んでしまったら……戦争はまた起きてしまうのだろうか。ついついそんなことを考えてしまう。