八重山の民具の証

八重山の民具の証

夏休みも終わり、子どもたちが学校に戻りほっとしている。
最後の最後まで宿題を延ばし、学校が始まる一週間前はほとんど徹夜に近い。それでも全部仕上げたときの解放感は傍目にもいい。親も一緒になって万歳と叫びたくなる。
宿題の中で一番の難点は、理科の自由研究である。息子は自由研究の本を図書館でコピーしたり本屋で買ってきたりしたが、どれも条件が整わないばかりか、観察期間の長さに愕然としてしまう。

そしてつまるところ、地元の自然に目を向けることになっているようだ。この繰り返しが、長女の小学校入学からもう13年間も続いている。
やらざるを得なくなって地元に目を向ける。この自由研究こそ今の教育に必要な地域に根ざした学習だと思う。石垣中学校では2年生の夏休みの宿題は、理科の自由研究に代わり社会のテーマ学習になる。これも地域を見つめ直す、もっとも夏休みにふさわしい宿題である。
いろいろな参考になる本は、図書館にしっかりそろっている。しかし、大人がつかないと解説が難しく子どもに理解できないものもある。ここで親の出番なのであるが、学ぶところが多く、楽しい。

今年の息子のテーマは、「クバの木」であった。動機は簡単で、長女が中学校時代に調査した「フクギ」にヒントを得たものである。
防風林としてのフクギが自分の住んでいる字石垣2町内にどれほど残っているかというものであった。建築様式が木造からコンクリートに変わり、防風林を必要としない生活になり、フクギが少なくなったといわれているが、では実際どのくらいあるのかというこいとを、一軒一軒歩いて本数を数えたものだった。平成元年で520本。それ以降、道路拡張工事も家の建て直しもあちらこちらで進み、今どのくらい残っているか分からない。

「クバの木」もどこの家でも3~4本は必ず植えられていたといわれているから、きっと多いだろうと予想をしてからの調査だった。息子は、自分の家にあるクバで幼稚園のころに、剣や舟を作って遊んでいたという。自分の家にあるものは、みんなの家にもあるものだと思いがちである。また、石垣小学校の行進曲にも、「仰ぐ青空宮鳥の、くばのしげりよ美しく、神のおしえをかしこみて」と運動会のたびに歌っていたから、どこにでもあると信じて疑わなかったらしい。
しかし、結果は、字石垣全体で1番地から400番地までに「クバの木」は、たった32本であった。調査が早く終わったことは確かだが、結果に驚いてしまった。
「クバの木」一本から作り出されたいろいろな民具・オンギ(うちわ)、チリ(つるべ)、ウムリ(水、豚の飼料を運ぶ)フダリ(柄杓)、カミヌフタ(かめの蓋)、ンヌ(みの)ドゥンヌ(裳)、クバーサ(クバ笠)、クシキ(こしき)など、また、建築用材としてあるいはクバヌパーヌユー(くばの葉の世)とよばれた遠い昔のこと、クバの木は生活に欠かせなかったはずなのに、すでになくなったことにも気づかないほど生活から忘れられてしまっている。

大浜孫助さんにクバの葉の泥ぞめの方法を見せてもらうため、シーラの田に行き、あぜ道から田に落ちたこと、多宇時さんが子どもたちに大きなクバの葉からみるみる間に手と足のひざを使いウムリを作って見せてくれたこと、金嶺のじいさんがクバ笠を作っえではない時代になってしまっていたのである。
かつては、神のより代として、あるいは生活の必需品をいつでも作り出せる材料として重要な地位を占めていたクバの木が町から消えていっている。石垣市の町並みの変化といえばこれら建物が変わったというだけでなく、屋敷林が極端に消えてしまったことにあるのではなかろうか。
そして、それらの木や葉で作られいた民具も一緒に消えていってしまった。この便利な世の中に、昔に戻って昔の民具を使いなさいと言うのではない。ただそれらの民具が、どのようにして作られ、人々に愛され、使われてきたかを忘れてはならないと思うのである。
そして、その材料を提供し続けた自然は、これらの民具が確かに八重山に存在したことを裏づける証として残っていてほしい。次の世代の人たちが、八重山の民具の中から八重山に生きた人々の言葉を聞くことができるように、いつまでも風にその葉音をふるわせていてほしいのである。

石垣市役所 内原 節子

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