太き指の生みしもの

太き指の生みしもの

八重山の土に生きる苧麻(ブー)。台風の難をさけて、生育した苧麻は葉を取られ、芯と皮に分けられ、皮の表皮を剥がされ乾燥される。
糸を績ぐのは50年以上機を織ってきた老女達の魔法の指。
細かい糸を生み出す術は彼女らの専売特許。簡単にまねはできない。八重山の伝統織物は、この指にかかっている。

≪細い糸≫
「わじわじするさ」
オバアさんは誰に言うでもなく、軽く口にして溜め息をついた。
庭先に植えてあった苧麻を、息子が誤って雑草といっしょに焼いてしまったのだ。
長年、糸を紡いできたオバアさんにとって、大事な苧麻だが、息子も嫁も多忙な日常の中の過失だから、責めるわけにもいかない。
半年間績いできた糸を前に
「買ったけどよくない。切れるとおもったら太くなったさね」
庭先のものなら良い時期に苧麻の刈り取りが出来る。業者のものは時に品質がバラつく。だから糸が切れることを気づかってオバアさんの糸は少し太めになった。
糸が太いと帯用だ。八重山上布の着尺用には細い糸が条件。績ぎ手の指が作りだす糸の細さが、上布着尺用と帯用の別れ道となる。

≪ゲートボールに忙しい老人≫
「注文をことわったさ~」
昨年まで豊年祭用の着物を織ってきたオバアさん。祭で着られるものも多かった。帳面を付けるようになってから370反。それ以前にもたくさん織っている。1カ月1反で、約30年分の勘定。
今は、糸績ぎに朝と夕方、1時間ぐらい費やすだけだ。
「日中はゲートボールや踊りの練習で忙しくしているさ」
昔、糸績ぎが、体力の衰えた老人にとって重要な収入源であった。今は年金がある。楽しむ時間もある。
「もう、これからはあそぶさ~」
さびしそうだが、解放された嬉しさも含まれた複雑な表情でオバアさんは笑った。

≪太い指先≫
目につくのはオバアさんの指の太さ。それはどんな時も働いていないとおさまらない昔気質が作った芸術品。糸を績ぎ、機を織ってきた人生そのものだ。
かつて嫁、娘、孫が織る糸を績いだオバアさん。それは機織を引退した年寄りにとって、家族への手助け以上に、自分と子孫をつなげる糸づくりでもあった。そうして、糸績ぎは八重山の歴史の中で、連綿と受け継がれてきた。
今は、戦前からの織り子の多くが引退している。加えて、今、苧麻を待つ人々にとって重要な問題が目前に迫っている。

≪パイン景気が生んだ断層≫
八重山の歴史上、昭和30年代から50年代(1955年~75年)に輝かしいパイン隆盛の時期がある。しかし、その反面、意外な現象をつくってしまったのは、一部の人にはよく知られている。
パイン景気を支えたのは織物をする年頃の女達だった。いわばパイン景気と織物との断絶の20年が重なることになる。パイン景気の頃の娘は織物をあまり知らない。
あれから42年。パイン隆盛が始まる頃に20歳だった彼女らは62歳。30歳だったら72歳だ。
本来、70歳代になると織り子は機から降りて、糸績ぎ専門になる。ここでいいたいのは、次代を担う糸績ぎ要員となる50歳代から60歳代の織り子がかなり少ないこと。現在、70歳代から90歳代まで、ブーを績ぐオバアさんらはいる。ところが、これから約20年間、このパイン景気で織物をしていない世代が70歳代に入る時、糸を専門に績ぐ人が増えなくなる。
極端に言うと、少ない糸の奪い合いが将来深刻になる。現在も、兆候が出ているという。
細い糸を績げる人が少なくなっているのだ。糸績ぎの作業自身を染織する人もやればよいことになるが、苧麻作りに時間をさくとなると、値段がひきあわなくなる。
いわば、お年寄りの糸績ぎが、地元で培われた原料で作るという本来の伝統織物を裏でしっかり支えてきたことになる。まさに八重山の織物の原点だ。

≪戻った糸≫
「ここ10年の間は待ちの状態ですよ」
伝統工芸館のソファで新聞を読んでいた平良けい子さんは、手をとめていう。
一時、伝統工芸館へ誰も糸を持ってこない時期があったという。
糸がよそへ行った背景には、景気のよい業者が高く買い取ったためだった。非情な資本主義の原則だ。
大問題となった当時、組合には金がない。では、智恵を絞ろう。
「オバアさんたちに、自分らに使ってもらえたら、うれしいと思うように、我々は努力しなくてはならないのではないか」
そう反省して思いついたのがお年寄りに歌と踊りを披露して喜んでもらうこと。
思い立って2日で準備した。三味線と唄のできる人を織り子の中から依頼しての即席芸能大会。
「いままで、自分たちのために芸能をしてみせる人など、ひとりもいなかった」
と喜ぶオバアさんもあった。すぐに戻ってくることはなかったが、感激したオバアさんが知人にも声をかけるなどしたようで、伝統工芸館に、少しづつ苧麻が戻ってきたという。
「やめようと思うが、芸能大会してくれたり、あんたらの喜ぶ顔を見ると、頑張っている」と、オバアさんに支えられているのが現状だという。

≪作家への登竜門突破≫
染織の世界へ入って17年の糸数江美子さんは、沖展の奨励賞を3回受賞。準会員賞も1回もらっている。
昨年12月、初めて出展した全国版の公募展、全日本新人染織展で、見事大賞(文部大臣奨励賞)を受賞した。県内3人目。
作品の名は「織着尺 朝露」。絣技法をつかった灰色地に黄色と藍で朝日にしたたる露を表現した。
薄暗い黎明からやがて日の出が迫る時、地平から一点差し込んだ太陽の閃光が、草木の葉露に一斉に映ってきらめく。そんなことを想像してしまうような織着尺だ。
なんといっても、まぎれもない八重山の朝の風景から生まれた着尺だ。全国版の公募展で大賞を獲得したことの意味は大きい。
この全日本新人染織展を協催する京都市は伝統工芸品のさかんなところ。市役所には伝統産業課がおかれている。位置づけを聞くと、
「各組合でおこなわれる染織展は、参加資格が組合員に限られるものがほとんどで、新作の発表などが行われます。新人の作家を対象とする公募展は、この全日本新人染織展が最も高い登竜門といえます。しかも、人間国宝4人をはじめ、日本画家、美術評論家、日展評議員、グラフィックデザイナーなど、幅広い審査員によって選ばれます。まず、染織のみの新人公募展では最高峰といえます」

≪感動できる自然がある限り≫
「絣をつかったものは少なかったようです。植物染料での落ちついた色が目立ったこもあり、それが受賞につながったのではないか」と糸数さん自身は、控えめな評価をしている。
「八重山で暮らして気がつく日常のなにげない自然がデザインのモチーフです。八重山は見るものすべてが題材になります。感動できるものがあるからできるんですね」
八重山における伝統工芸の継続の可能性は、八重山の自然が、人を感動させる。このことから発しているに違いない。

≪市民の心が継承する≫
かつて、八重山の家々には苧麻が栽培されていた。苧麻が激減した背景には、敷地一杯に立てたコンクリの家が原因だ。それで年寄りの績ぐ麻がなくなった。
復帰直後に襲った台風と干ばつは離農者を続出させた。あの時、生活のため、あるいは子どもを学校に上げるために現金が必要だったのだ。
時代が生んだ断層は、今、もう一度、返し波として、試練を運んできたことになる。
苧麻不足の行方は、市民個々人の織物へ向ける思いが、年寄りの気持ちを動かせるか否かにかかっているように…漠然と思う。
最後に、この八重山から日本の最もメジャーな公募展、日本伝統工芸展に入選している人が2人いることも記しておきたい。糸数さんが大賞を取る2年前の全日本新人染織展で大賞の次点となる佳賞を獲得している人もいる。世界を舞台に活躍する人もいる。まだまだ、調べると受賞者、活躍者があるにちがいない。
市民は胸をはって八重山のよさを誇れる。当然、庭の麻や苧麻を績ぐオバアを大切にする価値は、十分ありすぎて余りあるはずだ。

流杉 一行

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