4200年ぶりに太陽系に近付くといわれる、ヘール・ボップ彗星が地球に接近し明るさをましている。
昨年の百武彗星についで、宇宙の壮大な天体ショーを見ることが出来るのは星オンチの僕でも嬉しいのだ。
4200年ぶりというと、波照間の下田原貝塚や石垣島吉原集落東方のピューシィタ遺跡などで生活を営んだ八重山古代人が眺めて以来のことである。
「与那覇節」の「あまん世ぬみぐりょうり」(太古、神代のめぐり来て)という歌詞をつい口ずさむ。
世の東西をとわず天体に突如として現れる彗星をひとびとは凶兆として恐怖した。
日本では飢饉、疫病、風水害、天皇などの病も彗星にむすびつけられた。
八重山でも彗星が現れると戦になるなど凶兆との話を母から聞いたことがある。
八重山古代人はどのような思いでこの突如として出現した彗星を仰ぎ見たのであろうか。八重山では彗星のことをポーギプシィ(箒星)といい、沖縄ではイリガンフブシ(かもじ星)という。
八重山のポーギプシィは大和の「彗星が天の穢を掃く象」の箒と見做したのにたいし、沖縄のかもじは英国のひとたちが彗星をコメット(髪)と呼ぶのに似ていて面白い。
野尻抱影著『日本星名辞典』によれば文献に「ほこぼし(鉾星)」「ほたれほし(穂垂れ星)」「いなぼし(稲星)」その他があり、舞鶴地方では「おびきぼし(尾引星)」、志摩和具町では「なぎなたぼし(薙刀星)」などとよばれているという。
八重山では星に関する資料としては乾隆21年(1756)に書かれた「星図」の写本(道光7年)が残されているが、これらは全て農耕との関わりのある星であり彗星ではない。
八重山の文献に彗星の記録は不勉強のため未見だが、琉球王府の正史『球陽』には彗星の記録が残されている。
第八巻の、尚貞王康煕27年(1695)10月4日、彗星が現れ民衆が驚き騒いだため国王は使者を久米村に派遣した。
久米村の人は図を描き、書を国王に提出したという。
航海、造船その他の技術や文化をもたらし琉球王国の海外交易を築いた久米村のひとたちは、当然この彗星に関する知識があったのであろう。
一方、『球陽十三巻』には「壬戌二月上丁両三夜の間、五更の時節、彗星丑の方位に見はる(俗に箒除星と呼ぶ)。癸亥十一月中旬初更の時節、彗星酉の方位に見はれ、箒尾東に建つ。甲子正月末旬五更の時節、彗星又卯の方位に見はれ、箒尾酉戌の方に初めて建つ。天既に曙に至り、其の星見ず」との記録がある。
これによれば1742年から44年にかけ3年連続彗星が見えたというのである。
『球陽二十巻』には「本年10月21日夜、彗星あり。此の彗星卯辰間に見はる。御番頭、下庫理当に逓して転奏せしむ」ともある。
この記事は1825年の記録である。
野尻著前掲『日本星名辞典』によれば彗星は「寛保3年(1743)11月と、文政8年(1825)9月とに出現している。後者はハレー彗星らしい」と記しているが、『球陽』の記録とも一致するのである。
ところでこれらの彗星は科学雑誌『NeWton』によれば巨大彗星歴代ベスト10に入り、1743年の彗星がベスト4で星の名前はC/1743X1というが後者は10位までの記録しかなく不明である。
一方、1807年の彗星はベスト9で名前をC/1807R1という。
彗星については諸説があるが、本体は氷塊とガスからなり、太陽に近づくにつれ蒸発しそのため長く尾を曳くようになるというのだ。
彗星はやがて太陽系を離れはるか彼方にあるという彗星の祖国へ帰って行く。
ヘール・ボップ彗星が地球と出会うのは4200年後ということであるが、人類はそれまで生き延びているであろうか。
また、わが祖国八重山のひとびとはどうなっているのだろうか。
トバリャーマは歌われているだろうか。
彗星を見上げ宇宙の壮大なドラマに思いを巡らすと不思議な感慨に襲われるのであった。