森口 豁

鳩間島は定点観測の場所
「沖縄と日本の関係とか地方と中央の関係とか、鳩間を通してものを見る」

「あ、水ってこんなに大事なんだと、知らず知らずのうちに、本物の価値観とか大事さとか、植物の一本一本のいとおしさとか、そういうことを日常生活の中で自然に感じていくんですね」

―日本テレビのドラマ「瑠璃の島」は森口さんが1985年に出された『子乞い』が原作です。この本は、鳩間の学校を廃校にしないために石垣島から子どもを連れてくるところから始まります。学校がなくなれば島はどうなるか、子を乞うてまで学校を存続させなければならない過疎化の波に洗われる小さな島のさまざまな問題を浮き彫りにしています。ドラマはどういうものになりますか。

森口
あくまでもドラマですからね、違った内容のものになると思いますが、ただ、今度のドラマにひとつ期待しているのは、今の沖縄ブームに乗っかったようなものではなく、沖縄が持っている癒しというのは本当はこれなんだと、そういうものが出てくるといいなと思っています。
今の沖縄ブームについていうと、沖縄の側からすると、蛸が自分の手足を食っているようで、ものすごく不安ですね。空や海がきれい、一年中花が咲いている、ゴーヤーチャンプルーがおいしい、おばあが元気…、沖縄が天国であるような、そんな宣伝に乗っかって浮かれているけれども、一方で海を汚したり、浜をつぶしたりしている沖縄の現状があるわけでしょ、いずれ観光客からもそっぽ向かれるんじゃないか。遠からず、なんだ沖縄は、嘘ばっかりじゃないか、と。もちろんいいものも得て帰るんだろうけど、逆に、どんどんボロが出てきて、風評が広がると怖いですよね。海亀がもう産卵をしなくなった浜に、たとえば島の人は痛みを感じているだろうか。そこらあたりから島の人がぐっと踏み出さないと、時代に流されて、気がつくと…ということにもなりかねない。

島の里子たちは日常生活の中で大切なものを学ぶ

森口
ところで、鳩間島には今ではいろんなところから里子や海浜留学で、子どもたちがやって来ます。その子どもたちが、1年なり2年なりあの小さな島の中にいて自分を取り戻して帰っていけるのは、ただアカバナーが年中咲いているとか海がきれいとかだけではないと思うんです。僕なりの解釈なんですが、子どもたちは島で本当の価値観を見いだしているんじゃないだろうか。
それは、例えば、今は蛇口をひねれば水が出る、スイッチを押せば電気がつく、そういう時代ですが、水のない時代を生きてきたおばあちゃんなんかは、未だに、盥一杯の水で、野良から帰ってきて顔を洗い手を洗い指の一本一本を洗い、首筋から喉元まで洗い、足を洗って、足指の一本一本まできれいに洗って、それから鍬や鎌やそういうものまで洗って、そしてその盥一杯の水を捨てるんじゃなくて、庭の植物にかけてあげる…そういう生活をしているわけです。あたりまえにそうやって生活している。
それを島にやってきた子どもたちが見て、あ、水ってこんなに大事なんだと、知らず知らずのうちに、本物の価値観とか大事さとか、植物の一本一本命のいとおしさとか、そういうことを日常生活の中で自然に感じていくんですね。それによって変わっていく子どもたち、そういうドラマになればいいなという期待がありますね。
このドラマに出演する緒方拳さんが『子乞い』を読んで読者カードを送ってくれたんです。それが僕のところにまわってきたんですが、ぶっとい字で「興奮、感動!」と書いてありましたね。緒方さんはプロデューサーに「『子乞い』だよ、わかっているだろうね」と言ったらしいですよ。

―森口さんは『子乞い』を書かれる前に、同様の内容のドキュメンタリー「島分け」を撮っています。これは島に連れてこられた少年を中心に描いた作品ですが、さらにそれ以前に「世乞い(ユークイ)」(1974年)で過疎化の鳩間島を描いています。そもそも森口さんと鳩間島の関係はどこから始まるのですか。

森口
最初に鳩間に行ったのは琉球新報の記者時代。早稲田大学八重山学術調査団に同行して八重山の島々をまわったのですが、たしか芸能の本田安次さんなども一緒でしたよ。1959年ですから、今からもう46年も前のことですか。船の窓から見たら、白い灯台と一本の椰子の木が細かく揺れていてね、あー着いたか、と降りたところが鳩間島だった。
当時、船は沖泊まりで、サバニに毛が生えたくらいの小さな艀で島に渡ったのですが、あの頃は直接桟橋に着ける島というのはほとんどなくて、良くて浅瀬に舳先を乗り上げて、梯子を使って、それから靴を脱いでズボンをまくり上げてというものでしたね。
その頃は鰹節工場が4軒か5軒あって、人口が500人くらい、学校の生徒が120人ほどいて、浜では鰹船が帰ってきては浅瀬に捕れた鰹をどんどん投げ込んで、女たちがスカートをまくりあげてジャブジャブ海に入っていって、両手に鰹をぶら下げて、浜では台の上で鰹の頭を切ったり捌いたり、きれいな海が真っ赤に染まって…。
部落の中に入れば、今はもう空き屋敷が多いけど、あの頃は全部びっしり家があったわけで、道筋にはスノコの上に鰹が干してあってね、島の中は鰹の匂いでぷんぷんで、活気に溢れていましたね。
鰹船が沖に姿を見せると、村の中を男が走り出す。「ミイル、ミイル、三色…」。いま入った船は三色旗で帰ってきたから大漁だと、船が近づく前から、そうやって大声で叫んで走る。すると、その船の関係者が海に集まるわけです。船は何度も島と漁場を行ったり来たり、それくらい漁場が近かったわけですよね。
サンニンの葉っぱにくるんだ弁当を婦人会がつくってくれたり、島あげて調査団に協力してくれました。

―森口さんはその後、琉球新報から日本テレビに移り、そして調査団に同行して初めて鳩間島に入ってから15年後の1974年に「世乞い」を撮るわけですね。

森口
74年に、沖縄での15年間の生活に終止符を打って東京に帰ることになるわけだけど、帰るにあたっての最後の仕事として一本ドキュメンタリーをつくろうということになって、そして鳩間島を。中学校が廃校になるという情報を得て、それで2月ごろに下調べに鳩間に入って…。
当時の本土マスコミの沖縄に対する感心は、やっぱり沖縄返還問題、基地問題、米軍米兵による事件事故、そういったものが中心でしたが、僕はカメラを担いで離島をまわることも多かったので、米軍政下27年、本当の被害者は離島ではないかという思いがあった。確かに基地のある本島も大変だが、一方で、5本の指の指先まで血が通っていないという状況があって、その延長としての、過疎化に洗われた鳩間島であったわけです。
その前の「水と風」は1963年に黒島で撮ってますが、離島ってどこでもそうだけど、水をどう確保するかがまず第一でしょ。電気は無くても暮らせる。冷蔵庫が無くても、魚なんか塩漬けにしたり、なんとか暮らせる。しかし水が無くちゃ生きていけない。だから水問題は離島の象徴なんですね。
「世乞い」は水問題と過疎化。島から人が離れていく「島抜け」の季節の記録です。あの時に、撮れなかったカットがひとつあって、未だに悔しい思いをしているんだけども、桟橋で、島を出て行く先生一家をじいちゃんばあちゃんたちが日の丸を持って見送るシーンがあるんですよね。悲しくも美しい風景というか。で、見送ったあと、じいちゃんばあちゃんたちがぐるりと部落の方に向きを変えて、あの一本の細い長い桟橋を戻っていく。その時の姿というのが、みんな背中を丸めて、何も語らず、黙々と桟橋から部落に帰っていくんですよ。それが強烈なイメージでね。ところが当時はフィルム一本で2分40秒くらいしか撮れない時代。フィルムチェンジに2分から3分かかる。それでその大事な場面が撮れていない。だから、未だに鮮烈なイメージが自分の中に残っていて、しかしあの作品の中に、ない。悔しいですね。

―すると、早稲田大学調査団から15年後の鳩間島は過疎化のただ中にあった…

森口
天と地の違いがありましたね。ものすごく活気に満ちていた島が、人口が23人にまで落ち込んで、10所帯だけの時代。120人いた子どもがひとりになっちゃって、中学校が廃校になった。校長先生は中学を閉めて島を去ったんだけど、その校長先生がたったひとりで中学校の表札を門柱から外してそれを職員室に納めて、「さようなら」と声をかけて去っていったんですよね。
74年に中学校が廃校になって、小浜真治君一家がいたから小学校はつながったわけで、アレ、もしも小浜一家が島を出ていたら、あの時点で小学校も潰れていますよね。ワンポイントリリーフの始まりが小浜一家なわけです。

―それからさらに8年後の1982年に、のちに『子乞い』を書くきっかけになる「島分け」を撮りますが、「世乞い」から「島分け」までの8年間の森口さんご自身と、あわせて鳩間島のようすはどうでしたか。

森口
東京に帰って3年目くらいに念願のドキュメンタリー専属のチームに入ることができた。で、それからまた沖縄に通うようになって、鳩間については「島分けⅠ」「島分けⅡ」「あけもどろ」とか撮っていくわけですが、やっぱりあの活気のある時代を知っているだけに、それが体に焼き付いて引きずるんですね。74年の初めての記録「世乞い」を基点にして、定点観測の場所に鳩間島を選んだようなところがあります。
この島をずーっと撮り続けていくことで、沖縄と日本の関係とか地方と中央の関係とか、あるいは政治や行政はほんとに地方の人たちの隅々まで機能しているのかとか、鳩間を通してものを見るようになっていくわけですね、僕の中ではね。
鳩間島が過疎に喘いでいるというのは、「世乞い」の頃も「島分け」の頃も同じ。僕のテレビの描き方としては、「世乞い」は離島問題というか、島の中からの目線で撮ってるわけですが、「島分け」は島の中からの目線と、一歩引いて、日本の中からのひとつの島に対する視線、内の目と外の目と両方で見て撮っているんです。
島に住んでいる人の目線というのは、いつの時代もなかなか変わらないんですよね。内側だけ見ていれば大状況が見えなくなるし。作り手の僕としては、日本全体の動きを自分の中に取り込んで、それを島に投影してみて、島がこうなって(過疎化)いったのは、勝手にそうなっていったのではなくて、日本の構造的なものとつながっているのだと受け取ってもらわないと問題が広がっていかないという気持ちがありました。

―その後も、さらに日本テレビを退職されてからも森口さんは何度も鳩間島に通っておられます。島の現在について、また将来はどういけばいいのか、感想をお話しいただけませんか。

森口
島は、「世乞い」から30年あまり、基本的に何も変わっていないと思いますね。今は電気も水道もある、学校がプレハブからコンクリートになった、港湾が整備されたということはあるけれども、島が置かれている状況=離島のハンディは変わりませんよね。だって、石垣との距離が縮まるわけじゃないですからね。海が荒れれば船は来ない、物を運べばコストがかかる、だから産業が起きない。かつてはカボチャに取り組んだ若者たちがいたけれども、次から次へと失敗していった。離島から物を送り出すというのは大変なことで、相変わらず、金になるような、若者の仕事がありませんよね。人口だって、里子や海浜留学でやってくる学校の子どもたちをのぞけば、あの頃と変わらない。
結局沖縄全体に言えると思いますが、離島のハンディというのが決定的にあるということ。農作物にしても肉も魚も、これだけどんどん外国から流れ込んでくる時代に、離島の離島では、かりに働ける人間がいたとして、じゃあ何かをつくって、それを市場まで送り出してものが食えるような体制になるかといえば、まず無理でしょう。そうすると、手っ取り早く観光ということになるでしょうが、ここまで高齢化しちゃうと、じゃあ観光でやろうかといっても動ける人もいないし、そう考える意欲すら難しいですよね。
島が小さいということは、行政とか都市とか中央とかから島が忘れられていくというのが現実だし、だから人口100人に向けての視点というのが未だに島の人たちの願望であるし、しかし、もう自助努力だけじゃあ活性化しないだろうという部分があるだけに、辛いですよね。

活性化に必要なのは島の自覚とアイディア

森口
観光客が増えてはいるけど、民宿が2軒から5軒に増えて売店の品物が少しは売れるようになったのが変化で、他はほとんど変わっていませんよね。逆にまた、そういう島だから、わりと良質な観光客が集まる島ではありますね。
里子にしたって、島に子どもを受け入れることができるような世代がいなくなったら、いくら来たいという子がいても、もう駄目になってしまう。子どもが来ることによって学校も廃校にならないで、それが多少なりとも島の活気に繋がっているのであれば、5年先10年先は受け入れ先は大丈夫だろうかとか地域で考えていかなきゃいけないけど、みんな高齢化して、じゃあ里親になれる若い世代が増えつつあるかというとそうじゃないですよね。
学校の百年誌に書いたのですが、80年代の初めからこの20年あまり、次から次へと子どもたちがやって来て、その子どもたちが島に来て自分を取り戻してまた帰っていくわけですよ。これはいったい何なんだ、というのを島が自覚して、体制を整えたらどうだろう、と。
また、産業に代わるものとして、季節的なものでもいいんだけど、老人ホームのようなものをつくって受入体制をつくる、当然学校の生徒もそういう施設を使えるようにする、そこで老人と子どもの触れ合いというのもできて、お互いにいいんじゃないか。雇用も拡大する。…そういうことを鳩間でやっていくと面白いんじゃないかと思いますね。そういう施設に国が助成していく制度があるはずだから、そういうのを活用して。
なにしろ鳩間には‘本物の癒し’があるわけですから…。

森口豁(もりぐち かつ)プロフィール

1937年、東京生まれ。フリージャーナリスト。1959年~74年まで琉球新報社社会部記者や日本テレビ沖縄特派員として米軍統治下の沖縄で暮らす。テレビドキュメンタリー「ひめゆり戦後史・いま問う国家と教育」「島分け・沖縄鳩間島哀史」などの制作でテレビ大賞優秀個人賞などを受賞。著書に『沖縄 遠い昔の旅・非武の島の記憶』(凱風社)『最後の学徒兵・BC級死刑囚田口泰正の悲劇』(講談社)『復帰願望・昭和の沖縄/森口豁ドキュメンタリー作品集』(海風社)などがある。

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