やなわらばー

石垣島まつりをライブで盛り上げたやなわらばー。
石垣でのライブは実に7年ぶりとのこと。
リハーサルが終わり、本番を控えるおふたりに、 久しぶりの石垣でのライブについて、最近のことなど、 まつり会場でインタビューさせてもらった。

―7年ぶりの石垣島まつりはどうですか?

石垣 優(以下、優)
出演できることが本当に嬉しいです!
東里 梨生(以下、梨生)
前は会場が新栄公園だったから、真栄里公園になって新鮮ですね。今までいろんな場所でライブをやってきましたけど、やっぱり地元が一番緊張しますね。

緊張していますが、楽しんでやりたいと思います。今日も、本土からもたくさんファンの方たちが来てくれていて、みなさんと、あと地元の友達とかも、ステージから知ってる顔が見えると安心しますね。みんな笑顔で観てくれているので、その笑顔に助けられます。緊張もほぐれてくるし、「一緒に音楽楽しまないと!」って思いますね。

―石垣に帰ってきたのも久しぶりですか?


ライブはやる機会がなかなかないんですけど、最近同級生の結婚式がすっごく多くて、ちょくちょく帰ってきてはいるんです。結婚式は本当に多くて、歌う曲がなくなるくらいです(笑)。
梨生
ビデオレターにもたくさん出ているので、多分同級生たちは「またやなわらばー?」って思ってるはずです(笑)。

さっきの(会場での)獅子舞も友達も参加していて、見ていたんですけど、島にいるときから、島のお祭りが大好きでした。参加もしていましたし、特に豊年祭が一番好きです。おじぃが旗頭を持つのがかっこよくて!
梨生
今は自分たちは外から、島の文化など、守っていってほしいって思っているだけですけど、同級生もそうだし、実際島に戻ってきてやっている人たちはすごいなって思いますね。尊敬します。自分たちはそのよさを歌で伝えていけたらなと思います。
普段の生活の中で、気にしなくてもやってる、見てる、そういう事が、島を離れて初めて自分の財産になってたんだって気付きましたね。梨生はお父さんが竹富の人で、種子取祭に参加していたんですけど、当時は嫌だったんですよ。夜からおじぃにまざって練習して、「テレビ観たいのに」みたいな(笑)。その嫌々やっていたものが、今は本当に誇りで。小さい子も参加していますよね。今は嫌って思っていてもいいから、覚えていてほしいなって思います。今もなるべく帰ってきて行きたいと思っていて、おととしも少しだけ庭の踊りに出ました。

そういう場所があるって、とっても幸せなことだなって今は思います。都会育ちの友だちなんかは「優がうらやましい」って言うんですよ。「優には帰る場所がある」って。しかも、それは日本でもみんながきれいっていう場所で。言われて、「確かにそうだな」って思いました。だからここで生まれ育ったという事は誇りに思います。

―楽器は独学ではじめたそうですが?

梨生
こっちにいる時は特にやっていなくて、専門の学科も、優はボーカル科で梨生は音響科で、楽器ではありませんでした。専門の時のオーディションも譜面を見ながら、よくあれで出たなっていうくらい(笑)。楽器はそこから練習しだしましたね。今はギターの師匠がいて、ちゃんと習いました。

私は高校の選択授業で三線はちょっとだけやりましたが、本当にそれだけでした。今でも自己流で、どこの流派に属しているわけでもないので、いろんなところで「そこ違う!」とか怒られたりします(笑)。三線の竿の指で押さえる場所も自分でつくりました。「腹」っていう名前の場所もあります。そこに腹巻を巻いたおじさんのシールを貼ってたので…(笑)。

―島を離れて9年ということですが。


島を思い出すことも多いですね。島にいた頃は「なんにもない、この島」って思っていたんですが、出てみたら、海が青いっていうのが、すごいことだっていうのも初めて知ったし、空も同じ空なのに、こんなに色が違うんだって思いました。専門学校時代、大阪でけっこう中心のほうに住んでいて、緑がなくて全部コンクリートって感じで、さみしいというか、ものすごく取り残された気分になりました。そのときに初めて知ったんですよね。島のよさ、島のありがたさ、親のありがたさ。そういうのを自然に歌っていったんです。曲を作ろうとか、何かをしようってやったんじゃなくて、そこにあった三線とギターで、気付いたら1曲できていた。それが「青い宝」です。それが結局はデビューのきっかけになりましたね。
梨生
やっと東京での生活も楽しめるようになりましたね(笑)。東京の中のいろんな景色も見えてくるようになりました。駅から家までの道で桜が咲いていたのがすごくきれいで、「サクラ」はそこからつくった曲です。最近、家を引越したんですけど、少し引っ越すだけで、こんなに変わるかってほど、すごく行動範囲が変わって、見える風景とか気付くこととかも増えました。東京でも風景からもらうこともいっぱいありますね。

あとは、今でも電車とかで「○○ば?」とか聞こえると、ふたりで、「石垣の人かな? 声かける?」みたいな(笑)、ありますね。

―今後は?


いろんなところでライブをさせてもらって、夢では、いつか企画して、海を守ろうってアピールできるようなイベントをしたいと思っているんです。実際石垣の海は、自分たちが9年前に出ていったときよりも、確かに濁っているんですよね。海が好きなアーティストに集まってもらって、そういうイベントがやりたいなと思っています。そして、それまでにそのイベントでちゃんと影響を与えられるような、やなわらばーになれるように頑張りたいですね。
梨生
あとは、石垣でもあまりライブをする機会がないんですけど、八重山の他の島でもライブやりたいですね。1回もやったことがないので。
優 自分たちは死ぬまでやなわらばーを続けていくと思います。例えば結婚して、子どもができてとか、それぞれの生活っていうものが出てくると思うんですけど、解散はないですね。梨生のほうが早めに石垣に帰ってくると思うんですけど、ふたりが離れても、遠距離ユニットみたいな感じで、会ったときはライブをやるというような。そんな風にして続けていきたいなと思っています。

―最後に地元の人たち、読者へお願いします?

梨生
やっぱり島の人の応援って心強いし、やっぱり島は根っこだって思います。そこの根っこで支えてくれる人がいるということはすごく大きいです。やいまで毎月書かせてもらっていることが、数少ない石垣とのつながりのひとつになっているので、毎月やいまを読んで、頑張ってるんだなって思ってもらえたらいいなと思います。

自分たちは、東京でまずはやれるとこまでやって、島に帰ってこようと思っているので、これからも末永く応援してほしいと思います。応援よろしくお願いします。

やなわらばープロフィール

高校卒業後、ふたり一緒に大阪の音楽の専門学校へ。家も、同じアパートの同じ階に住む。専門学校であったオーディションを突然受けることになって、急きょつけた名前が「やなわらばー」。そのまま現在にいたる。卒業後、活動拠点を東京へ移し、2003年デビュー。現在は全国で様々なイベントに参加したりと、ライブを行っている。

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