パナリへ郵便配達

パナリとも呼ばれている新城島。
人口13人の上地島、人口ひとりの下地島の2島からなる。
定期船のない島。
パナリに住む人への郵便は
西表島に住む78歳の善光おじぃが、船で配達している。

10:30AM 西表島からパナリまで船で郵便配達


 深いシワの入った黒い手でハンドルを握る。西表島に住む仲底善光さんは、新城島へ船で郵便配達をしている。郵便局のない新城島は、郵便物の管轄は西表島の大原郵便局。新城島へは定期船が出ていないので、郵便のある日のみ、善光さんが船を走らせる。

 パナリとも呼ばれる新城島は、上地島と下地島のふたつからなる小さな島。住民登録をしているのは、上地に13人、下地はひとりだけ。石垣島の八重山郵便局から大原郵便局にパナリ宛ての郵便が届くと、善光さんの出番。
 配達を30年ほど続けている善光さんは78歳。大原の隣の大富集落に、奥さんの房子さんとふたりで暮らしている。船のほかに車にもバイクにも乗り、郵便船の仕事だけでなく、17頭の牛を飼い、畑で自分たちが食べる野菜もつくっている。足が少し悪くなったが、元気いっぱい。上地島内も歩いて配達をしている。荒天の日をのぞき、だいたい週2日ほど配達に出かける。
 8月下旬、とても穏やかな天気が続いた。海もベタ凪で、小さな船、ぱなり3号は海上をすべるようにパナリへ向かう。海の色はいろいろな青に変わり、船上からサンゴ礁もくっきりと見える。20分ほどで上地港に到着した。

11:00AM 舗装されていない道を歩いてまわる


 この日は、沖縄本島で大学に通っている、孫の賢児さんが夏休みの帰省中で、船に乗って一緒にやってきた。小さな頃から何度となくついて来ていたという。係留を手伝ったりと、こなれている様子。

 港から集落までは歩いて3分ほど。炎天下、時おり木陰で休憩しながら歩いて1軒1軒まわる。住民票はパナリに あっても、石垣島か西表島にも家がある人たちが多く、パナリとを行ったり来たりしているという。この日は6、7軒の配達先に、在宅だったのはおふたり。もちろん全員顔見知りなので、郵便物を渡して、少しユンタク。
 配達と同時に、上地島の集落内に1ヶ所設置されているポストの中も確認する。前回入っていたのは数ヶ月前で、あそびに来た観光客の人が、ここから投函したものだったという。ハガキや封書だけの配達だったら問題ないが、チルドのゆうパックなど重いものは「大変!」と笑う。

 海が時化た日は大原から上地まで、スムーズな時の倍の40分ほどかかるという。船もその時の状況によって、大きな船で出たりとつかいわけているそうだ。そして、満潮に合わせて潮が高い時を選べば、真っ直ぐ進めるため最短時間で済むし、燃料の節約にもなるという。
 善光さんは波照間島の名石集落出身。琉球政府の計画移民によって、1952年に西表にやってきた。現在、大原と大富をつなぐ仲間川にかかる橋は当時はまだなく、大原で共同生活をしながら、船で行き来し、毎日開墾、そして焼畑をし集落をつくった。善光さんは当時17歳だった。房子さんは同じ波照間出身でこの時に一緒に西表にやってきたのちに結婚した。育てたイモや陸稲、バナナを売って生活していた。この時はまだ電気は通っておらず、ランプでの生活で、米も充分にはなく、主食はイモだった。山から木を切り出し薪にしたものは、3セントで売れたという。
 上地への配達を終えると、次はすぐ隣の下地島へ。

12:10PM 人口ひとりの下地島にも配達


 上地島を出て5分ほどで下地島に到着。たったひとり、住民登録をしている方の営む牧場の従業員さんが、郵便を受け取るために港で待機してくれていた。そのほかにも、ツアーであそびにきていた観光の人たちの姿が見えた。桟橋につけて、手渡してすぐ出発。上地も下地も、ほかの島のような浮き桟橋ではないので、潮を間違えると船をつけることはできない。
  下地は防波堤もない。去年、時化ている時、下地に接岸する際に、揺れる船ですべって足の筋を切ってしまったという善光さん。そんな善光さんを、お子さんたちは心配もしているが「まだ辞めない」と譲らないという。

 計画移民でやってくる7年前の1945年4月には、波照間から全島民が、軍の命令により西表島南風見田に強制疎開を強いられた。善光さんももちろんそのうちのひとり。多くの人がそこで蔓延していたマラリアにかかり、波照間の人口の1/3もの人たちが犠牲となった。善光さんの家族15人のうち、曾おばあさんが命を落とした。善光さんや家族もマラリアに侵されたが、大事に至らなかった。その時のことを忘れないようにしようと、当時の波照間国民学校の校長、識名信升氏が南風見田の浜にある岩に刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」という文字が、今でも残っている。
 8月に終戦をむかえ、波照間に戻ったが、また今度は移民団として西表に行く事になった。その時波照間では「またマラリアにかかりにいくのか」、「かわいそうだ」との声が多くあがっていたという。しかし、次男であった善光さんたちは土地のなかった波照間に残っても家も仕事もなかった。その時はマラリアも収束に向かっていた。
 善光さんの小さな船が走るそばを、船会社の高速船が追い越して進んでいく。観光らしき人たちがこちらに手をふる姿も。

歩けるうちは続けたい


 入植して落ち着いた頃には、善光さんは、西表と石垣とを結ぶポンポン船の機関長を務めていた。現在は高速船が30分で結ぶ大原、石垣間は6時間もかかっていたという。しばらくして、大富集落近くに仲底モータースを設立。現在は息子さんの善市さんが社長を引き継いでおり、ほかのふたりの息子さんも一緒に働いている。お孫さんは8人いる。自分たちでつくりあげた大富集落。62年ここに住み、「とてもいいところ」、「来てよかった」と話す。
 孫の賢児さんは、じいちゃんを誇りに思っている。以前一緒に配達にきた時に、島の人に「あんたのじいちゃんのおかげで助かってるよって声をかけられて、人のために仕事してるんだなぁって改めて尊敬した。定年をとっくに過ぎてもまだまだ働くじいちゃんはかっこいい」と話す。賢児さんはこの日、西表に戻ってから船底の掃除も手伝っていた。手伝ってくれて嬉しいですねと、善光さんに声をかけると「孫はばんないつかわんと!」と笑顔で元気なひと言。

 また別の日、町議会選挙の投票日前日だったため、上地島にはいつもより多くの人がいた。安里さん宅では、眞幸さんと恒子さん夫妻が昼食をとっていた。石垣とを行ったり来たりしているが、おふたりは唯一家族そろって、住民票をパナリにおいている家庭だという。家族でも、ひとりは住民票がパナリ、もうひとりは石垣、と別々なお宅も多いそうだ。そして、眞幸さんも以前この配達を務めていた。善光さんの二代前だという。
 この日、船に乗っている時にカタブイがあり、けっこう長い時間雨に打たれた。「けっこう降りましたね」と言うと、「こんなの雨のうちに入らんよ」と笑顔。
「歩けるうちは続けたい」と話す善光さん。静かな海の上を、今日もぱなり3号はしぶきをあげて進む。

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