日本復帰
日本復帰 1970年5月15日、午前零時を告げる石垣市消防署のサイレンと船舶の汽笛が吹鳴されたなかで「新生沖縄県」が誕生、同時に八重山三市町も復帰の夜明けを迎えた。
・左右を問わず祖国復帰運動に盛り上がり、とてもインパクトが強く劇的な出来事だった。
八重山でも復帰を望む声は多く、あのときの県民の選択は正しかったと思う。
・当時、学生だった私は復帰運動を文化運動ととらえていた。
沖縄・八重山の未来を真剣に考える若者たちがたくさんいた。
復帰したときの胸の高鳴りは今でも忘れていない。
・復帰で一番印象に残っているのは、お金が「ドル」から「円」に変わったこと。
ドルの前には「B円(米軍票)」というのを使っていたが、復帰のときには本当の日本円だった。
お金が変わったことで商店などでは混乱したが、物価が高くなったのをおぼえている。
・戦後の近代化、復帰後の基盤整備など確かに八重山の人の生活はよくなったが、それと引き換えに失ったものも大きい。
日本復帰は必ずしもよかったとは言えない。
戦後復興
戦後復興 八重山では砲爆撃、銃撃などによる被害よりもマラリヤによるものが甚大であった。
・戦後は八重山の20世紀にとっては大きな転換点。
食糧をはじめとする物資の欠乏、暗く沈んだ島で、人々は立ち上がり復興の基礎を築いていった。
1950年に開催された復興博覧会は、戦後初の盛大な催しだった。
石垣市・大浜町合併
石垣市・大浜町合併 1964年石垣市・大浜町は合併し境界線がなくなり新石垣市が誕生、1914年の八重山分村以来50年ぶりに一行政区となった。
・6月1日の合併当日は、石垣市長・前大浜町長が乗る車を先頭に、中高生編成のブラスバンドの演奏、各商社の広告カーニバル車が続き、石垣島一周パレードに出発した。
沿道ではたくさんの住民が出て、拍手を送る光景があった。
八重山自治会
戦時下における食料難は、マラリアの大流行と重なりあって住民を「死」と「飢え」の恐怖のどん底に陥れた。
そのような混乱の中で行政機関の中心である沖縄県八重山支庁の行政機能は完全に喪失していた。
その混乱の中から自治政府をつくろうという気運が盛り上がってきた。
準備会に参加したのは、宮良長義、糸洲長良、宮良高司、大浜用立、宮良孫良、安室孫利といった戦前教員思想事件関係者や農民、教師グループ、宮良長義の感化を受けた豊川善亮、屋嘉部長佐、浦添為貴、亀谷長行、崎山里秀、宮城光男、本盛茂、内原英昇など青年層であった。
住民に人気のあった医師の宮良長詳を会長に推すことを決め、1945年12月15日に八重山館で1000人の郡民を集めた大会が開かれ、会長に宮良長詳、副会長に宮城信範・吉野高善を選出し、ここに日本では例をみない自治会という名の人民政府が誕生。
「八重山共和国」と呼ぶ人もいる。
ところがそれから8日後の12月23日、米国は「米国海軍政府布告第一号・A」を発令し、八重山に軍政府を樹立したために、自治政府(八重山共和国)は8日間で活動を停止した。
自治会は翌年1月八重山支庁が発足し、行政機能が円滑に動き出したとして1月23日に解散した。
誕生から1週間でその使命を終えたとはいえ、「人民の人民による人民のための政治」を実現した八重山自治会の名は日本近代史に特記すべきものである。
人頭税の廃止
1903年、長年にわたって八重山住民を苦しめてきた人頭税が廃止される。
・人頭税の廃止は文字通り、当時の八重山住民を解放したであろう。新聞をめくると新税法の成立を喜ぶ記事があり、近代史の一転換期を彷彿させる。
人頭税は近世先島の苦悩を表す言葉である。
新石垣空港
・新石垣空港建設のもたつきこそ、八重山の人々が21世紀に持ち越してしまった大きな課題。
政争の具として扱われ、なぜここまでこじれたのか一人一人が考え直さないといけない問題である。
水道・電気整備
水道・電気整備 1950年石垣市は上水道建設を企画、1953年工事が完成し、歴史的通水式典が行われた。
歴史的通水が行われるには、米国民政府の強力な支援があったことはもとより、当時の牧志宗得市長をはじめとする関係者の執念や市民の協力があった。
戦後の電気事業は、様々な紆余曲折の中、1959年八重山電力会社を発足、発電所を建設。
1968年石垣島全島電化記念祝賀会が行われた。
石垣島一周道路
1955年、北部地域と市街地区を結ぶ伊原間・川平間の道路開削が完成したことで石垣島一周道路が開通。
「誰が伊原間からあの山険を割り富野に抜け、仲筋、山バレーの山をくぐって川平までの道の作れることを考えただろうか」
と言われた歴史的事業。
それから本土復帰を記念する大型プロジェクトとして整備事業がスタートし、1980年石垣島一周道路は完成した。
テレビ放送開始
1967年、本土政府援助によって先島放送施設が完成しテレビ放映が開始された。
テレビ放送開始は、「電波のへき地」から一歩前進し、文化生活を享受できる時代の到来を感じさせた。
初の公選
初の公選 1948年3月、戦後初の市町村長並びに議会議員の公選が実施された。
この選挙法の研究や政治啓蒙運動などが展開され、この選挙法によって初めて婦人参政権が認められ、満20歳以上の男女すべてに選挙権が与えられた。
石垣市婦人会などでは、文字の書けない人や読めない婦人を対象に五十音を手はじめとし婦人の啓蒙運動を行った。
石垣市長には牧志宗得、大浜町長には星克、竹富町長には与那国善三、与那国町長には浦崎栄昇各氏が当選した。
イリオモテヤマネコの発見
1965年2月、戸川幸夫や高良鉄夫などによって発見され、1967年今泉吉典によって鑑定の結果、学会に新種新属として発表された。
世界でも西表島だけにすむ山猫。
西表の名前を全国区にした最大のキャラクター。
絶滅の危機もささやかれる中、1997年竹富町でイリオモテヤマネコ保護増殖事業推進連絡会が結成された。
港湾整備
旧桟橋は乗降客、貨物はすべて沖合停泊中の大型船と桟橋との間で艀や団平船で運ぶという不便と危険がともなった。
1960年港湾建設工事を起工し1963年新石垣港開港式典が行われ、八汐丸が接岸した。
このとき造成された埋立地が美崎町と命名された。
戦後の文芸復興
戦後、文化活動は活発化し、1946年「海南時報」が再刊、「八重山タイムス(のちに南流タイムス)」、「八重山子供新聞」が刊行された。
その後、「南西新報」「自由民報」「婦人新聞」「先島新聞」「南琉日日新聞(のちに八重山毎日新聞)」等々が続々と発刊。
雑誌では「八重山文化」「南の星」「新世代」「若い人」「青い鳥」「みどり」「あざみ」「土」「れいめい」「ながれ」などが刊行され、1946年から1950年までの5年間で、出版文化が花を咲かせた。
八重山郡演劇協会や八重山音楽協会も結成され、八重山の言論・文化は百花繚乱の感を呈した。
マーチング日本一
マーチング日本一 2000年1月石垣第二中学校と平真小学校が、マーチング全国大会で日本一に輝いた。
学校・父母会・地域が一体となった価値ある日本一だった。
八重山の児童の大活躍による明るいニュースが社会を元気づけている。
その他の八重山ニュース
・八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国四村に分村(1914)
・八重山アラリヤ撲滅期成会誕生(1917)
・石垣村に町制施行(1926)
・台湾へ集団疎開実施(1944)
・自由移民、沖縄・宮古より移住しはじめる。(1949)
・B円をドルに切り換え(1958)
・全郡的に本土資本による投機的土地買い占めが表面化(1971)
・那覇・石垣間にジェット機就航(1979年)
・於茂登トンネル開通(1987)
・トライアスロン石垣島大会開催(1996)