地デジ化突入の八重山

地デジ化突入の八重山

7月24日の正午をもって日本全国アナログ放送が終わった。(岩手・宮城・福島は除く)日本最南端の石垣島でもきっちりこの日この時に終了した。巷には、売られていたチューナーが消え、どこの店を探しても見つからない。テレビは電気店に売っているが、チューナーはない。購入できなかった世帯や、対応を忘れていた世帯は、どうしているのか。日中から深夜まで長くきつい仕事につく人もある。しかも低賃金。そういう世帯には、このテレビがデジタルになるといままでのテレビが使えなくなる意味は、わかるだろうか。これまで見られたテレビを、どうして廃棄処分しなければならない状況に、進んでいくのか。ハイビジョンと呼ばれる高機能化したテレビを買わなければならないのか。チューナーやアンテナを買うことさえ、非常に難しいことに思える人に、この世代わりは、どんな印象を与えるだろうか。置き去りにされるような、寂しさを感じる人が、どれだけあるか。それを隠して、相談することもできず、ぐっと我慢している人があるのではないか。人が人に相談できるようになるには、それだけ自主的な活動履歴が必要で、高齢者がだれもが良好な親子関係にあると限らないだけでなく、それさえ隠したい人には、ただ、じっと我慢して、世の中が自分を捨て去っていくような感覚に耐えるしかないのではないか。恵まれない状況は、そうでない人の目には、何も映らない。データをデジタル一元化することで、必要な情報をすばやく手にして、暮らしに役立て、自己啓発心を高め、高い向上心を発揮する人を、互いにエントリー仕合う。ネットワークを張り、新たな有機的な共同体を構築する。一方通行の通信から、双方向尾へ変わり、やがて有意義な集団から匿名性を捨て、実名ネットワークに切り替わる。新時代を模索しての一大展開といえる。ただ、先端意識がない人には、膨大なゴミと無駄を生み出すこの転換の意味はわからない。そしてステロタイプ化する規模が、一回り大きくなる。多彩で雑多にあることのメリットが、

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