これは長年の上層部任せの弊害による日本全体の被災である。東日本大震災で多くの犠牲者が出ており、膨大な避難民が発生して、避難民だけでなく、周辺の多くの人もいっしょになって、未曾有の困難と闘っている。この困難には、震災のものと2次的なものがある。そう原発である。しかも、その原発に関しては政府の対応の遅れが問題視され、風評被害によって不安な時間を多くの人が感じている。原発の放射線漏れ阻止と廃炉回避を天秤にかけた国の上層部には、国民は落胆したはず。そして見逃せないのは、上層部の所業には安全地帯からの指令感覚が存在する。まさにこの日本の上層部には原発を持つ資格がなかったのではないかと、疑いたくなる様だ。かくして震災は日本列島全体の試練と化した。まず福島県の隣接・周辺県で暮らす人には、被災地区から及ぼされるあらゆる事態を極力なくそうと、やっきになってもおかしくない。一連の風評が近隣県に波及してくる事態を避けたい思いの強さからそうなる。そう、かくも東京電力や政府が安全地帯から指令を出す感覚を、表明してしまえば、そのボーダーの人々の不安は高まり、複雑な思いの中で緊張する。ここに、別の意味で被災していない人々が被害に遭いたくないとする部分で共感する。周辺は一斉に不安を抱える。そして風評被害の被害者側に入れられる恐ろしさが、対象化されないままに、蓋がされる。この感覚は別の意味でも悪影響を持つ。支援を唱える声が、やがて違う色彩を持ち出す可能性がある。安全地帯にいるのだから支出しろと。こう考えると被災地に対して何が大事であるか。それは支援を考える人は、つながりを精神ではなく、場所に持つこと。現時点で今居る安全な場所からの支援ではなく、共に危険地帯とつながる場からの支援意識でなければ、続かないはず。避けるのではなく、共に被る意識をもつ。支援意識は同じことを言い続けるのではなく、より日々深まる必要がある。でなければ進展がない。募金から寄付金の監視意識に移行する前に、被災地とのつながる連続感覚を保持したい。であれば、すでに日本全体が被災しているのだから、テレビでの責任問題を唱える不毛な議論は止む。彼らは、影響力を楽しんでいるだけ。この時期、悲しいかな、言論は不毛だ。皆で福島産の製品をあえて購入しよう。(写真は福島産の干し柿)