聖なる夜

聖なる夜

クリスマスはイエスキリストが生まれた日。クリスチャン以外は異教徒のイベントだが、日本人が恋人とプレゼントを交換したり、サンタクロースが子ども達にプレゼントをもってきてくれる日であったりと、まあ知らない日本人がいないクリスマス。日本人はほとんどが仏教教徒だから4月8日の花祭りがこれに当たるのだが、こっちは一部の人の間でしか祝われていない。よくよく考えると妙なイベントではある。日本で最初にクリスマスを祝ったのは山口県・周防で1552年のことだという。歴史は458年。浅いのだ。さて、1624年に石垣島の石垣永将がキリシタンの嫌疑で処刑されたのは、よく知られている。入信記録はなく、嫌疑でしかないのだが、王府は薩摩から斬首を要求され渡名喜島で処刑。これをきっかけに、薩摩は琉球支配を増していく。まるで尖閣の船長釈放のような話で、「強権に出ればいいぞ」と思わせる行動を、自らとればどうなるかである。ここでさらに石垣島から初の殉教者を出した意味は何か。辺境の地の実力者を廃する口実で流刑程度に済ますものを、薩摩にうまく利用されて、薩摩からの支配を許すきっかけになってしまった。こうも読めるのだ。もっか陸上自衛隊を最南端八重山に配備しようとしている。これが逆に中国国内の軍備拡張派を刺激して、軍備増強の口実に利用され、これがきっかけになって、先島が本格的に中国にねらわれることになったと、歴史書に書かれないようにしたいもの。離島は狭い社会。気安くいじらないことだ。まず国境の島々を経済循環のモデル事業で、豊かにするべき。特区とはこういう場所に生み出さなくてどうするのか。経済のために自衛隊配備は逆だろう。国境を守るために経済振興が必要なのだ。自衛隊がこんな先っちょの狭い場所に急いで拠点をつくってどうなるか。「嫌疑」から災難ははじまる。すがすがしい気持ちで暮らせる島でなければ,魅力は失せるのでは?

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