カトリック石垣教会創立のころ
私たち家族は東京大空襲で焼け出されて、終戦の翌年(昭和21)2月に、第1回目の引揚げ船で郷里の石垣島に帰ってきました。そのとき私は小学6年生。
母は仲間たちと戦争未亡人のための授産施設をやっていました。東京から持ち帰ったシンガーミシンをふくめ、2、3台のミシンでHBTと落下傘の生地で子どもたちの服を仕立てて、白保とか大浜に持っていって米や野菜と物々交換して、それをみんなで分けて食べるという生活をしていました。
私が高校2年生の時でした。母は生地を払い下げてもらうために行った沖縄で、開南カトリック教会に戦争未亡人のための授産所があるという新聞記事を見て、訪ねて行き、そこで私たちのことも話したようです。
ある日、わかば丸の船員Iさんが訪ねていらして、開南カトリック教会のフェリックス・レイ教区長が長女の姉を秘書に欲しいと話されていると。姉は外語大を出ていますので英語が得意。それで姉は開南カトリック教会の秘書室に入りました。
それから、わかば丸が入港するたびにIさんが訪ねていらして、私の家でカトリックの要理の勉強会が始まりました。
あるとき、母が買い物に行って、雨に降られたものですから、Mさんのお店に入って雨宿りをしていたそうです。ふと見ると、タンスの上にマリア様の御像があったものだから、おたくキリスト教ですかと聞いたそうです。そしたら、私たちはキリスト教徒で、台湾では教会に行っていたけれどもここには教会がないから家で祈っているのだと話されたそうです。
その後、私が高校を卒業して琉球大学に入学するときに母も一緒に那覇に引っ越したのですが、その年の8月に母が洗礼を受け、私も11月に洗礼を受けました。
お正月が明けて、教会で母がMさんのことを話したら、その3日後、レイ教区長とオーバン神父さんと有馬伝道師の3人が那覇の港から小さなポンポン船に乗って石垣島に行かれた。私は見送りに行ったのでよく憶えているんです。
3人は母の弟の上江洲永芳宅で、Mさんを招いてごミサ(礼拝)を捧げて、そのときにどこか教会の敷地はないかと話されたそうです。ちょうどそのとき各家庭に水道を引くための資金集めのために記念運動場が売りにだされていて、教区長はそこですぐにその土地を購入したわけです。
そしてその年昭和28年(1953)の6月に司祭館が落成。オーバン神父様が初代主任司祭として赴任しました。
海星小学校創立のころ
琉大に入って1年が終わる頃、母が苦労しているものだから、大学を辞めて母の手伝いをしようかと迷っていました。そのことを知った母は、幼稚園の先生にでも使ってもらえないかと教会にお願いしたようなんです。
すると、教区長に呼ばれて、教会の世話で旅費、学費、生活費、何から何まで支給されて聖心女子大学に行かせてもらったんです。大学では2年に編入されて、それから3年間、寄宿舎で暮らして勉強しました。
卒業して石垣中学校に勤めました。母も一緒に石垣島に戻ってきました。2年間勤めましたが、思うところあって、辞めて、沖縄のために設立された修道会に入りました。
すると、今度は小学校の免許をとるようにと言われたので、もう一度聖心女子大学に2年間行きました。私が大学生であったころは小学校教員コースがなかったのですが、今度はそのコースができていました。
小学校の1級免許と幼稚園の1級免許をとって帰ってきたら、海星小学校のオープンですよ。私は知りませんでしたが、そのために行かされたんですね。そのとき私30歳。校長になれというんですよ。大学から沖縄に戻ったのが3月の半ば。4月1日には学校が始まる。校長になるためには現場の経験が5年以上ないといけないという法規がありますから、「あと5年開校を待ってくれ」と言いましたが、もう幼稚園を終えて小学校に入学する子どもが待っているので延期することができない。
「何とかしてください」とイエス様の前で泣きながら祈りました。すると、呼び出されて、京都から校長が来てくれることになったからすぐに準備してください、と。それが3月20日の正午ごろのこと。夕方の5時には私は石垣行きの船に乗っていました。
石垣では、小学校開校のために1年前からシスターが4人送られてきていて、ペトロ神父様と一緒に準備をしていました。私は、宮古で幼稚園をやっていたシスター、食事の世話などをしてくれるシスターと3人で石垣にやってきました。私たちは当時、幼稚園の西の家を借りて共同生活をしていました。
私たちはいろいろと開校の準備をして、京都のノートルダム修道会からいらっしゃる校長先生を待っていました。ところが4月になってもいらっしゃらない。あのころはパスポートの申請が大変だったんですね。登野城小学校はもう新学期が始まっています。
もう待てないので、とうとう校長不在で、1964年(昭和39)4月11日土曜日の午後から、1年生の担任であった私が、開校式と入学式をやりました。無事に式を済ませて「では、来週からいらっしゃい、さようなら」とあいさつをしたとき、校門に二人の人影。(あのころはシスターたちは二人で行動することになっていましたから)どちらが校長かわからない。飛んで行って、「シスター石田はどなた? 私は、漢那、漢那」と急いで迎えて、帰ろうとしていた父母たちに校長を紹介したんです。
開校前は幼稚園3クラスに職員室。校舎をアコーディオンの板戸で区切って、開けば大広間になるようにしてありました。そこに新1年生が入るために、幼稚園1クラス分の子どもたちには、あいの幼稚園に行ってもらって2クラスにしました。
次の年、小学校は2学年2クラスになるので、幼稚園1クラスは聖堂を仕切って入ってもらいました。そして3年目に北側に現在の幼稚園ができました。そのあと2階をつくって小学校の教室にあてました。
私は3年間在籍して、1年間本部に行って、また海星小学校に戻ってきました。そして6年目、開校時の1年生が6年生になったときに校長になりました。1969年(昭和44)でした。そのとき私は36歳。
クラス担任しかしていませんでしたから、校長職というのがよくわからなかったんですが、八重山の公立の校長会に入れてもらって、いろいろ教えてもらいました。「孝子元気?」とみんな恩師ばかり。県の校長会でも、女性は私ひとりでした。
(談・文責編集部)