師匠・大濵安伴が昭和35年に島を出て行っても、長久先生の歌三線への精進は倦むことがなかった。安室流音楽協和会に在籍しながら、「沖縄歌」をおぼえるために野村流宮里亀吉の門も叩いた。
「今が八重山歌中心だけど、あのころは半分以上が沖縄歌だったよ。御前風から松竹梅から、踊りが沖縄踊り中心だったから」とおっしゃる。沖縄歌ができなければ地方はつとまらなかった。「つとまらない」ことは負けず嫌いの長久先生の性格からすれば「つとまらない」ことだったに違いない。
生年祝いでの地方について、「あのころのショウニンヨイ(生年祝い)は家の中で、紅白幕を張ってやりましたよ。むかしは王様だけが朝から三線弾いて、食べたと。だから、一生に一度、せめて生年祝いには(そんな気分を)、と。……朝の願いといって、朝から大変ですよ。僕らはずっと弾きっぱなし。みんなが次々に肖りの杯もらうでしょ、傍で弾いていて涙がでましたね。そんなときには三線してきてよかったなあ、と。……昼にはお膳が出て、終わって。はい、くまどぅかんじんどぅらー(ここが肝心)、踊りでとぅずみ(締め)。家族の中で踊るということさな」。
次のようにも言う。「ショウニンヨイというと、踊りの練習もさせないといけないから、1か月間は三線弾くさ。これが勉強になった。(安伴)先生は、地方は買って出なさい、人には教えなさい、復習ができるから、と僕らにすすめましたね」
1967年(昭和42)に長久先生は協和会から教師免許を受けている。「貴殿は多年良く当流を学び其の技を極む よって教師たる資格を免許す」。当時の会長は花城正量。
「あのころ僕はよく(宮良)長定さんといっしょに地方をやりましたが、保存会の大浜賢扶さん、玉代勢長傳さんともやりました。玉那覇有和さんとも。流派関係なく。あのころあまり弾く人いないからよ。長久、まーずん(一緒に)弾きひーり、とよく頼まれた」
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上の写真は、長久先生はじめてのLPレコード「ばがーヤイマぬうた」をつくったときの写真である。宮良長定との共演。レコードジャケットの撮影のときに観音堂の前浜で撮ったもの。向こうに薄~く軍艦岩が見える。
「そのずっとあと、NHKの番組でもここで歌ったことがあった。(撮影中に)船が入ってきたので、ストップしてね。あのときは(大底)朝要さんとふたりで、アンパルや野底マーペーでも歌った。そのときのテレビを見た人が、いび、長久や、緊張して、(額の)蝿も追いぶさぬ、と。はあ、これは黒子で、蝿ではないさ(笑)」と。
「この写真の人たち、みんな亡くなって、僕だけが残っている」と長久先生。
琴の宮良トミは長久先生の義母。笛は与那城貞安=「笛の大先生の大浜長栄の一番弟子だはずよ」。太鼓は長田紀秀=「ヤグイ(掛け声)も上手やだ」。
宮良長定について、「僕よりちょっと年上。郵便局に勤めていた。苗字が同じで、名前の『長』まで同じだから、よく兄弟と間違われたさ。いや、一門です、山陽氏です、と。長定さんとは長らく一緒に地方をしてきましたね。名コンビだったからレコードも一緒につくったわけさ」と感慨深そう。名前と同じように、気も合っていたのだろう。
レコード発売記念発表会のパンフレットを長久先生は大事に保管している。それによると、発表会は1975年(昭和50)4月27日と28日の2日間、午後7時から、登野城小学校の体育館で行われている。主催は「八重山音芸○ウホレコード」と安室流音楽協和会である。
「八重山音芸○ウホレコード?」
「ここの角(長久先生の家の西隣)に、レコード店があったさ。この人が先頭になって、やろうということで。貴重なものですよ」と長久先生。
あのころ地元でレコードをつくった? 訊くと、宇保朝等という人で、今は小浜に住んでいるという。これは話を聞かねば、ということで、宇保さんにお会いした。
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発表会は大盛況であったという。「満席でした。1000人くらい入ったんじゃないでしょうか。たぶん入場料は1000円だったと思います」と宇保さん。パンフレットに写真入りで紹介された出演者を数えると(舞踊も含め)84人。顧問の漢那長助以下安室流音楽協和会あげての発表会である。
「当時、長久先生たちふたりは、歌い手の第一人者だったといってもいいと思う。川平には南風野さんがいましたね。そのあとに(大底)朝要さんが、とぅばらーま大会で名を売って出てきた。長久先生の声は高くて伸びがありました。一般的に聞きやすいのは高い声ですね」とレコード製作者の宇保さんは言う。
宇保さんは当時大きな4チャンネルのテープレコーダーをもっていた。マイクやミキサーを揃え、録音を自分でおこない、音の調整もやった。そうやって完成した音源をヤマトに送りレコードにしてもらった。ジャケットの写真もこちらで用意して送った。
「おそらくこうして八重山でレコードをつくったのは初めてでしょうか」と宇保さん。
宇保さんがつくったLPレコードはじつはこれが3枚目だった。1枚目、2枚目は仲宗根長一さんのもの。その後も2枚つくった。4枚目は自分の結婚式の記念品にもした目出たい歌を収録。5枚目はニンブジャー(無蔵念仏節)。それぞれ1000枚ずつつくった。「損はしませんでしたね」と宇保さん。仲宗根長一のときも発売記念発表会を開いた。
ところで、宇保さんはどうして八重山民謡のレコードをつくろうと思ったのか。
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宇保朝等さんは1945年(昭和20)小浜島生まれ。沖縄に出て、安里にあった沖縄テレビ学校を卒業。小さな車を持ってテレビ修理を仕事としていた。頼まれて、義兄(あの笛の大浜長栄。姉の夫)を車に乗せて、民謡の大家(安冨祖流の宮里春行や八重山歌の大濵安伴ら)を訪ねる機会がたびたびあった。
「それから民謡が好きになったんですよ」とおっしゃる。
八重山に帰ってきて、字石垣の長久先生宅の西隣、北側の角で電気屋を開いた。やがて、店の一角でレコードを売り始めた。「丸映館(今の山田書店の場所にあった)の北あたりにレコード店があったんですが、民謡のレコードをあまり置いてなかったんですよ」と。
それで民謡のレコードを取り寄せた。しかし八重山民謡は山里勇吉や宮良康正などわずか。ならば自分でと仲宗根長一のLPをつくった。宇保さんの電気技術と民謡界とのつながりが役に立った。「先生のかすれ声が良くて、お願いに行ったら、気持ちよくOK」してくれた。こうして八重山発のレコードができあがった。もしもこれが八重山の会社製作第1号のレコードであるなら、これは歴史にきちんと記録されるべき出来事である。
当時は主に高校生がレコードを買ったという。流行歌が中心であった。レコード店はそれらを仕入れてきて売ることで「なんとか商売になった」。そこに、宇保さんがつくった八重山民謡のレコードは、民謡好きの大人たちという新しい購買者を開拓したといえよう。
ウホレコードは中央通り沖銀の西のほうに店舗を移したが、やがて、2号線に大きなレコード店ができたので、「とても太刀打ちできない」と店を閉じた。約10年間の活動であった。 (敬称略・文責筆者)
写真説明:
(1)レコード「ばがーヤイマぬうた」のジャケット撮影のときの写真(冨崎観音堂の前浜)
(2)レコード「ばがーヤイマぬうた」(ウホレコード)のジャケット
(3)ウホレコードをつくった宇保朝等さん(2014年5月撮影)