自衛隊の迷惑料に10億円を防衛省に要求した外間守吉与那国町長が、いつのまにやら要求額を撤回し、誘致のために町長選に立候補するという。政治の世界は一寸先は闇というが、わからんもんですな。ホンマに不思議世界です。
外間町長を「ゆすりたかりの名人」とホームページで堂々と批判していた与那国防衛協会も何時の間にやらホームページから画面いっぱいの赤字批判を削除し、鉾を納め、外間支持へまわろうとしている。
与那国町防衛協会は外間町長が、ゆすり、たかりをどのようにしたのか、していたのかを住民に明確に説明すべきである。
舌先三寸で町民を愚弄した町長やら、教科書問題で教科書を「読んでいない」と正直な発言をした教育長、不思議な人たちが島を牛耳っている。
石垣では、特攻の先がけとなった伊舎堂用久中佐顕彰碑の建立が進められている。
期成会の三木会長いわく「特攻隊員のことをきちんと子供たちに教えてこなかった戦後のありかたが問われている」(「八重山日報」7月10日号)のだそうだ。
三木会長は特攻をどのように子供たちに教えようとしているのか。
「郷土と国を愛し、悠久の大義を生きる精神により、散華した伊舎堂用久中佐(略)と隊員の遺功を後世に伝え、これからの時代においても、郷土と国を護る崇高な精神を育み、恒久平和を希求する為(略)」(伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑建立への寄付のお願い)だそうだ。
国を護るため? ではこの国の誰を護ろうとしたのか。家族?家?冗談じゃないだろう。護るべきは天皇体制でしかなかったのである。
大日本帝国憲法は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と天皇が国を統治し軍隊の最高指揮権も持つのである。
「天皇は神聖にして侵すべからず」と天皇を批判することは不敬罪とされた。大日本国は天皇のための国であったのである。
軍隊が平然と自国民に銃を向け、殺害や、食糧強奪ができるのも、国民を護るのではなく、天皇制を護るためであったから出来たことである。
国民がどれだけ死亡しようが天皇にとっては関係ない。
一九四五年の敗戦から、一カ月足らずの九月九日、昭和天皇は日光に疎開していた皇太子に次のような手紙を書き送った。
「(略)敗因については一言いわしてくれ、わが国人が、あまり皇国を信じ過ぎて、米英をあなどったことである。我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである(略)戦争をつづければ、三種の神器を守ることも出来国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで、国民の種をのこすべくつとめたのである」(平和事典)
天皇はポツダム宣言をこのようにして受諾したのである。開いた口がふさがらない。
当時、軍隊や住民がどれだけ死んでいたのか、天皇が知らぬわけがない。
敗戦を予測した側近の近衛文麿は「敗戦は遺憾ながら必至なりと存じ候。国体のたてまえより憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴って起こるかも知れない共産革命にござ候。よって、国体護持の立場よりすれば一日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきと確信つかまつりそうろう」と上奏したが、天皇はそれを拒否、もう一度戦果をあげてなどと回答している。
その間、八重山ではマラリアで、沖縄では鉄の暴風で、フィリピンでは人肉を喰らい、慰安婦たちは野獣と化した軍人を相手に地獄に追いやられていたのであり、天皇制に反対していたひとたちは、獄中で瀕死の状態に置かれていた。
広島への原爆投下について、一九七五年昭和天皇は、「原爆投下は戦時中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと思っています。」と述べている。
ひとの命なんて天皇にとってどうでもいいことであったのである。
軍人が天皇に身を捧げるのは当然である。伊舎堂は圧倒的な米軍の前に「戦況の打開を図るべく」など思ってもいなかったであろう。「悠久の大義に散華した」などというが、「大義」とは「重要な意義。人の踏み行うべき重大な道義。特に主君や国に対して臣民のなすべき道」(「広辞苑」)
領土を売り飛ばし、国民をないがしろにした君主のために尽くした軍人讃美の教育等まっぴらだ。
この分では伊舎堂より、軍神として有名な大桝松市大尉の銅像が建立される日も近いかもしれないな。軍国主義復活の島、妖怪だらけの島で生きることは難儀だな。