去るアジア・太平洋戦争の時、西表島西部の船浮湾を囲む一帯に陸軍の重砲兵連隊や歩兵隊、陸軍病院などが配備されていた。いわゆる、船浮要塞と呼ばれた軍事施設である。内離島を第一区、祖納半島を第二区、外離島を第三区、サバ崎を第四区と設定し、それぞれ守備隊を配属、高射砲や重砲などを据え付け、南方交通の要路の保持、艦船の待避及び停泊の守備という軍事上の使命を担っていた。
要塞で重砲兵連隊第二中隊の隊長を務めた鉄田義司中尉が残した「鉄田日記」によると、連隊では米軍の襲撃に備えて軍事教練をするほか、実弾射撃などが行われていた。
戦況が風雲急を告げるなかで、一九四四年(昭和一九)十月十二日には初めての空襲があり、炭鉱で繁栄していた白浜は、米軍の空爆によって全焼するという壊滅的な打撃を受けた。しかし、米軍に反撃すべき要塞の装備は旧式で、高射砲などは一発も放つことがなかったといわれる。
しかし、実射はなくても実射に向けた訓練は行われた。要塞に司令部、重砲兵連隊、陸軍病院が配備されると、船浮湾の防備は固まった。装備は内離島に斯加式十二ミリ速射カノン砲二門、祖納に三八式野砲四門、探照灯一基、外離島に斯加式カノン二門、サバ崎に三八式野砲二門などを設置した。一九四二年(同一七)には外離島の北端に野砲二門、南端が設置され、それに兵舎が新たに建てられた。また、探照灯は外離島に移動した。
野砲等が各持ち場に配備されると、連日の如く実射訓練が展開され、実戦に備えた。この中で、重砲兵連隊は組織替えが行われ、外離島に終結した。第一中隊(中隊長・小野藤一大尉)、第二中隊(中隊長・鉄田義司中尉)、第三中隊(中隊長・安岡幸吉中尉)が布陣し、任務を遂行した。
しかし、アジア・太平洋戦争は泥沼化した。要塞の南方への海上交通の要路としての戦略的地位が失われると、一九四四年(同十九)五月八日、丸山司令官の転出に伴い司令部は解消した。これより先に要塞は、同年四月一日には西部軍の管下を離れ、第三二軍の指揮下に入った。そして、組織名を重砲兵連隊から重砲兵第八連隊と改称され、各々の任務を遂行した。石垣島に移転した同隊は、陣地を於茂登前山に構築した。
船浮要塞は約三ヶ月かけて構築されたが、その施設は近代戦用のものではなかった。野砲は地上に露出、弾薬庫や兵舎も不備だった。
戦後六十余年を迎えた現在、亜熱帯常緑樹に覆われた外離島、内離島の山岳や平地、それに祖納半島には今でも砲台跡や兵舎のコンクリート基礎跡など、その痕跡が残っている。