平和

 テレビが騒々しいので目をやると国会中継で、自民党の議員の激しい質問にしどろもどろの答弁をする菅総理や、どうみても法務大臣という器ではない人、それに苦虫をかみつぶしたような仙石官房長官が映っている。
 顔も見たくないのでテレビを消そうとしたら仙石官房長官が自衛隊を〈暴力装置〉と発言して怒号で議会は中断。
 ほほう、仙石官房長官もたまには正論を吐くではないかと感心してしばらく拝見といくかと行方をみていたらただちに訂正。謝罪。腰砕けに愕然。正論で応酬したら仙石官房長官の株も上がったのにと思いながら、一瞬だけこの国の政治家に信念を期待したことを恥じ入った。
 さて、自衛隊が暴力装置でなければなぜシビリアン・コントロール(文民統制)が必要なのか。
 ただの国家公務員だとでもいうのだろうか。
 この国でまがりなりにも合法的に武器を持つ事が出来るプロ集団であり、銃口が国家権力や国民に向けられる可能性があるからこそ文民統制が必要なのだ。そんなことは当り前のことではないか。
 航空幕僚長であった田母神が更迭されたのもシビリアン・コントロールに違反する発言だったからだ。
 小泉元総理は自衛隊は軍隊であると明言した。その軍隊である自衛隊はいったん事が起きたら、国民を守るのであろうか。否である。
 栗栖弘臣元統合幕僚会議議長は「今日でも自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人々が多く、政治家やマスコミも往々このことばを使う。しかし、国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命である。武装集団たる自衛隊の任務でない。自衛隊は国の独立平和を守る(自衛隊法)のである。この場合の「国」とは決して個々の国民を意味しない。そして、現代の戦争は国民全部の戦いであって決して自衛隊のみが守るのではない。自衛隊は最前線の最も苛烈な局面を担当するが、国民すべてが強固な意志を持たねばならない」(「日本国防軍を創設せよ」)。
 よくこのことばが引き合いに出されるのだが、ひとことでいえば戦前の住民の疎開業務は内務省管轄、国体を守るのが天皇の軍隊といっているだけである。
〈国民全部の戦争である〉などを読むと、飛行場建設や陣地構築に根こそぎ動員されたり、竹槍で抵抗せよとなにがかわるのか。
〈自衛隊は最前線の最も苛烈な局面を担当するが国民すべてが強固な意志を…〉にいたっては、少国民に向って、軍人さんは戦場で戦っているので私たちも我慢して戦争に勝利しましょう-という教師や母親のことばでしかない。
 沖縄戦で軍隊が住民を虐殺したり、集団自決に追い込んだのは国体を守る為であった。
 国体とはなにか。天皇制である。天皇制の枠を守護するためにこそ軍隊はあったのである。
 天皇の赤子がいくら死のうが問題ではない。軍隊が天皇制を守るためにあるという本質を住民、県民が誤解したのである。いやさせられたのである。
 沖縄戦の悪夢の構図を栗栖のことばに読みとる事ができるはずだ。それと同時に、自衛隊が戦前の軍隊と本質的に変わりがないということである。
 国民の生命財産を守らず、国体(天皇制)を守るという危険極まりない自衛隊がいよいよ八重山、宮古にも駐屯し中国と対抗するという。
 では、日中戦争が起き、八重山が攻撃されたとき、自衛隊に阻止するだけの軍事力はあるか。あろうはずがない。それに、日中戦争が起きれば沖縄の軍事基地はどうなるか。島嶼における局地戦争どころの話ではないはずだ。つまり中枢部の破壊である。東京や北京が標的である。
 そのうえ日米同盟で、米国が参戦すればどうなるか。想像しただけでも恐ろしいではないか。
 国民保護計画のプロなどと称する者がテレビに出演していたが歴史の教訓、現代の安全保障からするとまったく無知であると断言できる。局地戦でも住民の生命、財産は守れない。戦争が起きると死だけである。
 念仏のように平和を唱えていく以外に生きる道はない。

大田 静男

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