あぁ、ふるさと下地島

村の船・仲津丸

 昔は松のクリ船。大原にはこーんな松の大木がいっぱいあったらしいですよ。これとめぼしい松を倒して、斧で荒削りで掘って、だいたい船の格好に削って、コロで浜まで引きおろして島に持ってきてが仕上げたと聞いていますがね。私らのころにはもう松のクリ船はなかったです。
 昭和6、7年ごろ、下地島では県営の仲津耕地整理事業というのがあったんですよ。30町歩、測量して石を全部とって畑にやれ、と。他所からも働きに来たが、下地の人は強制的に毎日のように働いて、もちろん人夫賃もあったが、下地の人だけはその人夫賃から天引きやって、例えば人夫賃が50銭ならそのうちの5銭を天引きして、その金をあつめて、初めて船を作った。新造したんです。はい。200円だったかね。エンジンつきでした。20~30名は乗れたでしょうな。15馬力だったかな。村の船です。船長は大嵩博道さんだった。機関士の免許をもっている者も島にはいたんですよ。台湾帰りの。
 耕地整理事業のおかげでその船をつくったものだから、だからその船の名前を仲津丸とつけてね。それが航海船になってね、それから上地の人も融通をつけたです。村じゅうみんなで決めてですね、毎日の賃金から天引きして船をつくったのはエラかったですな。普段は船は前泊に置いておいて、暴風の時は仲間川に置いた。
 西表島から山の材木を運んでくれとか、牛を炭鉱にもっていって売るとか、そのときにも牛を船に積んで炭鉱まで行ったりしましたね。いろいろ融通しよったです。はい。

●マギフニで石垣へ

 ところが戦争が終わったころにはもう仲津丸はなかったし、当時は定期船などというのはなかった。船が石垣に行くというと、みんな買い物を頼むんです。珍しいことにフナカク(船員)はみんなの買い物をメモもしないのに憶えていたですね。
 当時は帆船ですからね。南風なら早ければ2時間ではゆっくり石垣に着いた。上地の西を通って黒島の保里部落の先を通って、竹富の西から石垣へ。
 ところが風向きがそうでないときは大変。西表の南風見田から島に帰る時には、西表の島沿いに北上して、大原あたりまで行って、そこから帆をかけてでないと下地には行けないです。だから、ここまでは漕いで行くんです。上地に行くにはもっと北まで行かないと、上地には行けないんです。トゥラヌファ(寅の方向の)風のときなんかは仲間港あたりから。ニヌファ(子の方向の)風だったら今の豊原あたりから帆をかけてもよかった。それで行きよった。
 そういえば、ザン(ジュゴン)を一度だけ見たことがありますよ。18歳くらいのころかね。南風見田に田んぼつくりにいってですね、帰りがけに、現在の大原港のところの溝ですよ、浅瀬からこう、深い海へ、コレ、もの食べて帰るところだったじゃないですかね。5頭か6頭だったか、並んで、ぞろぞろと行きよったです。はい。
 マギフニ(曲げ船)といってよ、船をジグザグに行かして進行方向を曲げるのはそうとう難しいですよ。終戦後ですよ、石垣まで3日かかったのを覚えています。
 トゥラヌファ風のとき、伝馬船でですね、下地から帆をかけてですね、大原のところにしか行かないですよ。大原のところまで行って、棹差して古見のあたりまで行ってですね、古見から与那良溝を渡らないといかんですから、ここでマギフニをやるんですよ。ジグザグして行って、第一日目は小浜のビルマ崎(現在のはいむるぶしのビーチ)までようやく行ってですね、ここの浜で泊って、翌日は小浜と竹富の間ですね、潮が、こう、引くですからね、ぜんぜん能率があがらないです。そして、竹富のアイヤルまで一日ついやしたんです。これで2日ですね。この浜で泊って。終戦後のことですよ。あのころは飯盒なんか持って歩いて、水さえあればなんとか炊いて食べたですよ。はい。
 そして3日目の朝ですね、風が寅の方からちょっと下がったものだから、それから帆をかけて石垣へマギフニしてその日の夜の11時ごろですかね、ようやく新川の浜に着きましたよ。こういうのが私、2回あったです。はい。人の船を借りてですね、配給取りにが来たはず。竹富町の役場に。帰りは風に乗って楽だったですよ。
 マギフニするには潮と風との計算ができないといけない。風任せ、潮任せ、これが昔の田舎の哀れな運命ですよ。はい。

●カタカシの群れに発破

 海の獲物はですね、タコ、サジンナ(サザエ)、マーンナ(タカセガイ)など豊富に採れた。アーサは部落に近いところで採れた。西表島のアーサはおいしくない。黒島とか新城のアーサがおいしいね。こっちのは口当たりが柔らかいが、西表のはカサカサするんですよ。はい。成長しすぎるんでしょうかな。黒島のアーサは有名だけど、新城のものも有名にしてくれればいいのに。
 それから、ホドマーレの南東側の海には4月あとか、カタカシという魚が何千斤というくらい集まったんですよ。もう、100、200坪くらい、真っ赤に群れして集まるのがあったんですよ。干瀬を越えて。なんで来るかというとよ、産卵のためだと。大海から来るらしい。
 これを終戦後はですね、糸満の人これを知っとるんですよ。すぐ、発破で、一回で何千斤ととっておった。カタカシは今も来るそうだが、昔みたいに多くはないと。上地には行かない。下地のここしか来ない。それから黒島の南東の海にもそんなところがあるそうです。下地と黒島にしか来ないとか。
 これの道、たいがいわかりますから網をかければいいでしょうが、終戦後は、面倒臭い、すぐ発破ですよ。ドカーンと音するでしょ、村から走っていって、これのおこぼれをこんなバーキのいっぱい取りよったです、島の人も。時期を見て、そろそろだと島の人は待っているんですよ。
 大きな群れの時は発破をふたつもみっつも投げた。船を陸につけておいて、陸から発破を投げるわけです。そして、潮が引きすぎたら干瀬に囲まれて船は出れないので、糸満の人たちは魚を一生懸命とってですね、すぐに船を出した。そうしないと次の潮が満つまで待たないといけない。
 昔のことだから冷蔵庫なんかないし、氷もないし、船はまたモーターもないし、早く石垣に持って行って売らないといけない。間に合わない。だからおこぼれをこっちの人が取るくらい何も問題でない。早くとって出ないといけないですから。はい。

南野アキラ

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