平良亀一さん 97歳 ウトさん 98歳
大宜味出身昭和27年12月星野に入植
亀一さん当時39歳ウトさん当時40歳 昨年2人揃ってカジマヤーを迎えた平良亀一さん、ウトさん夫妻は大宜味の謝名城出身。星野に入植したのは昭和27年12月。ウトさんは中学校卒業後、本土の紡績工場で働いていた。そんな折、兵隊から帰還した亀一さんと山口県で再会し、大宜味に戻り結婚したそうだ。大宜味では畑も狭く、収入も少なかったため、長男誕生後間もなくして、亀一さんはロタ島に渡った。ウトさんは8ヶ月の息子さんを連れ、亀一さんの後を追って友人と共に移住した。亀一さんがサトウキビ列車の運転手をしていたロタ島では3年ほど過ごしたが、畑をするのには不向きな土地だったため、パラオに移った。ここでは、鉱石の採掘会社に勤め、鉱石運搬用のロープウェイの施設を設置し、鉱石の運転手をして7年ほどを過ごした。「仕事中に眠っていたら起されたよ(笑)。眠る時間もなく働いていた」、「非常に忙しくて、3食とも弁当を届ける毎日だった」と当時を振り返る亀一さんとウトさん。現地で習得した様々な技術を活かし、活躍していた。パラオには日本各地からの移住者が多く、中でも沖縄からの人が多かったという。「気候は八重山に似ていて、洗濯物は乾きやすく、過ごしやすかった」と笑顔で話した。戦後、大宜味に戻り、3年ほどを故郷で畑をしたりして過ごしていたが、第一次大宜味先遣隊として昭和25年に星野に入植していた山口忠次郎さんに誘われ、星野に移住。山口さんからは何度も手紙が送られてきたそうだ。亀一さんのお父さんが先に入植していたこともあり、マラリアの心配なども抱きながらも、新しい土地に引っ越すことを決めたという。入植当初は、農業のことは全く分からなかったが、キビやパインを植えて生活し、後に養蚕を始め、自宅で機織りをして着物を作ったそうだ。
「養蚕は上等で、毎月安定した収入を得ることができた。余った絹で無地の着物を京都に送って柄をつけてもらい、2、3着は自分も着けていた」(ウトさん)
当時、星野で養蚕農家をしていたのは6軒。いい繭を作るためには、蚕に大量の桑の葉を与えなければならないし、温度が18℃以下になると食欲がなくなるので3台もの石油ストーブを設置したり、養蚕は管理が大変だったそうだ。「あれは面倒くさい仕事だった(笑)」と笑うウトさん。まめで細かい作業が得意な亀一さんだからできたことかもしれない。その後は、キビ、パイン栽培に専念し、時には、一日に4トンものパインをざるに入れ運んだという。現在の星野で一番楽しい事は「庭先を歩き、畑で野菜を作ること」とウトさん。亀一さんは「自転車に乗ること!」と少年のような笑みを浮かべて答えた。亀一さんは2年ほど前まで自転車で大里の坂を上り、星野と石垣市街地を行き来するおじぃとして有名だったが、ウトさんは亀一さんが事故に遭わないかという心配が絶えないので、今は自転車に乗ることを控えている。
亀一さん、ウトさん夫妻は、様々な土地での生活を経て、星野にきた当時のことを笑顔で話してくれた。いつも笑顔でいることがふたりの元気の源ではないだろうか。