「八重山(島)での暮らしは、人生に迷うことはあっても、大丈夫、道に迷うことはないから」と言われるほど(?)、各村の道路は碁盤目状に、今でも明瞭な区画が施されています。これは風水思想に由来する構造であり、中国や日本の古都のつくりと共通しています。近世八重山の都市計画を記録した『北木山風水記』(石垣市史叢書16)の「序」には、その起源に関する記述が見られます。
「一七七一年の大津波で村は破壊され、その後の村の再構成時に風水鑑定がなされなかったこと、新村の創設時にも風水鑑定がなされなかったことに各村の疲弊の原因があるのではないかと協議し、風水師の派遣を申請した。(その結果、派遣された)鄭良佐は、島中の風水を鑑定し、その吉凶を解説し、道路の順逆や抱護の欠落を絵図にして、八重山の役人に提出した」(新城敏男氏の「解題」より、一部改)。
右の引用には「風水師」、「風水」という言葉が出てきます。この風水師とは「地図とコンパスと測量計をもって山野をめぐり、人びとに土地の良否を教示していた」人物のことであり、またここで用いられる風水(思想・技術)とは、「地理学の源流でもあるが、地形学、環境学のひとつの礎石」としても位置づけられるそうです(目崎茂和氏の「風水・風土・水土」より)。
これらを踏まえ、改めて八重山の古地図を俯瞰すると、さらに興味深いことが見えてきます。それはかつての村々が、山から海へかけて、縦長に区画されていたということです。すなわち、人々が生きていく上で必要な物資を育て、獲得するための、「山・水源・耕作地・海」の要素が備わっており、そのひとつひとつが持続可能な社会(自治村、独立国)として構想されていたということです。
こうした事例をはじめ、当時の風水学を知れば知るほど、その知恵の深さとセンスの豊かさを感じずにはいられないのですが…。翻って現在、もしもこの時代を、件の風水師が訪れたとした場合、彼はこの風景をどう見つめるのか。なによりもその判断の行方が、気になってしまいます。