西表・古見の北方約三キロメートルの山中に鎮座する慶田城御嶽(きだすくおん)です。慶来慶田城用緒と長田大翁主に関連する御嶽ですが、『八重山島由来記』(一七〇五)には記録されていない御嶽です。
一五〇〇年、オヤケアカハチの追撃を逃れた長田大翁主は、西表・古見に逃れます。一方、祖納に住む慶来慶田城用緒は、盟友の急迫を知り古見へ急行して再会します。協議の結果、取り急ぎ連絡用の船を造ることとし、古見村北方の慶田城原の山中に適材を見つけて切り出し、由布島に運んで船を造りました。その後、船材を切り出したゆかりの地に神を祀り、御嶽として信仰したのが慶田城御嶽と伝えます。(『八重山のお嶽』牧野清)。
二〇〇九年、若夏の風が心地よい五月下旬、慶田城御嶽を尋ねました。美原集落北隣の広大な牧場の南側谷間の山林に鎮座しています。イビの石門だけが残る御嶽です。しかし、長い間の風雨で基礎部分が侵食され、少し傾いています。
ゆかりの地とはいえ、古見集落からずい分遠距離にある御嶽です。道路事情も今ほどでない一昔は、一日がかりの祭祀であったと伺いました。現在もオンプールでは、チチリベ(男性司)によって祭祀が営まれている慶田城御嶽です。