西表島西部の表玄関で、多くの船舶が往来する上原港。数年前に船浦港から西表西部の拠点港を移転して今日に至る。港湾には船客ターミナルが建ち、浮き桟橋が設けられている。西表島をモチーフにした産品がある港湾ターミナル内には、観光客がくつろぎ、ゆったりした時間が流れる。
港湾では三社が所有する高速船が入れ替わり、立ち代わり往来し、オールシーズンを通して、船舶からの昇降客も多い。東部の仲間港と同様、定期船などが石垣島との間を結ぶ離発着地となっている。特に観光シーズンになると、島の自然に魅せられた観光客でにぎわう。
八重山民謡の「教訓歌」で知られる「でんさ節」の発祥地が、ここ上原であることからちょっと集落の歴史を繙いてみる。西表島には大字が七つあるが、上原集落は大字・上原に属する。歴史的にみると、現在ある集落は、廃村となった旧上原村落の上に成立してものの、旧上原村と現集落とはまったく関係ない。旧上原村跡については、これを裏付ける遺跡が今の集落の南側に残っているようだ。
旧上原村は「参遣状」一七三七年(乾隆二)条に西表村の一小村として登場している。村落は琉球王府の政策もあり、小村から行政村への脱皮を目指した。行政村までには紆余曲折はあったが、一七六八年(同三三)に西表村は上原村に改称され、役人も配置されて行政村の上原村が生まれた。
誕生後の上原村は一七七一年(同三六)には人口六七六人の大きな村だった。しかし、同年に発生した明和の大津波で三十六人が溺死、田畑や農作物が被害を受けた。それ以降衰退の一途をたどり、村としての機能を失い、消滅した。廃村した年は明確ではないが、大正末期までに村落は消えたようである。
現在の集落は、戦後になって鳩間島、宮古島などからの移住者が漸増して形成、次第に村を形づくっていった。写真は一九六〇年(昭和三五)に撮影されたものである。場所は港の西側を南北に走る道路を、西方から見た一帯のようで、遠くにハスノハギリの群落が広がる。民家は茅葺きの屋根がほとんど。手前のコンクリート建物は公共施設か、あるいは民家か。道路は、現在のように舗装されておらず、地肌がむき出しになっている。荷物の運搬はタイヤ馬車であり、写真から交通手段及び物資搬送の変遷も知ることができる。
集落名は同じだが、居住者が入れ替わった上原。往古を偲ぶ縁は、港の近くにある多目的集会施設に隣接する御嶽などで窺い知ることができる。「でんさ節の碑」を中心に行われる公民館主催の「でんさ祭り」。地域活性化および伝統文化の継承の礎となり、開催されている。