1.変貌する八重山
八重山への観光客は右肩上がりに推移している。移住者も今後ますます増えそうな気配。団塊の世代が今年定年を迎えるが、中には「暖かい南の島で第二の人生を」と移住してくる人も多いだろう。移住者を見込んで特に石垣島はいま建築ラッシュである。おかげで島はミニバブルの様相。
問題は島の自然や文化をどう守り継承していくかということだ。必要なのは行政の指導力と住民自治。石垣市は景観条例の制定を急いでいるが、スピードといい内容といいなかなか思うように行かないようだ。住民自治はどうか。石垣島では、宮良、白保、川平などに若干力が残っているようだが、あとは「個人の自由」とやらが公であるべきところにも横行しているというのが現状。その傾向は7年後の新石垣空港開港に向けてますます増幅していくだろう。
どうすればよいか。竹富島を見よ!と言いたい。八重山の未来図を描くときに、ひとつのケーススタディとして竹富島の行き方をぜひ検証すべきであると思う。上勢頭芳徳さんに「竹富島の行き方・竹富人の生き方」をレポートしてもらった。
2.はじめに
9年前に本誌で「21世紀・竹富島物語」として竹富島の現状を紹介しましたが、今回もう一度、同じような視座に立って、その後のことも含めて検証してみたいと思います。と言いますのは当時も、バブル崩壊後の不安定な世相の中で規制緩和という、これまで地域で営々と築いてきた個人や地元企業の努力(単に既得権というのでなく)を踏みにじるような現象が現れ始めていました。そしてこの間に劇的に変わったことがあります。それは新石垣空港が計画から30年を経て、昨年着工したことです。すでに位置決定がなされた3年前から、それまで鳴りを潜めていた地下茎が、雨後の筍のごとく表面に現れてきました。もっといえば個人的な移住者が景色のいいところに好きなような家を建て、景観が問題視され始めていました。これは石垣だけでなく八重山全体にいえることです。
5年後に新空港が完成したらどうなるのでしょう。これ以上に観光客があふれかえるのでしょうか。さすがにこのままでは大変なことになると、竹富町では観光基本計画の改訂作業を前倒しして進めています。石垣市でも入域制限をと、いう声も上がってきています。限度を超える観光は質の低下を招き、その結果として自然を破壊し人心が荒廃していったのは、全国各地に見られることです。その中でひとり竹富島だけは問題を内包しながらも、住民自身の手によって解決の方法を見出していこうと努力して、一定の成果を挙げているところです。
大濱長照石垣市長は、こと景観の問題になると「かって石垣島も竹富島のような状態だった。そのときのイメージを頭に広げてまちづくりをやっています」といわれるし、石垣市の景観のことで講演に来られる大学の先生たちも「すぐ隣に竹富島という、参考にすべき身近な存在があるではないですか」とおっしゃる。あまりの持ち上げ方に、これはほめ殺しではないかと思ったりすることもあります。
ともあれ大方の目にプラス評価されているのだったら、これを誇りとして今一度振り返って検証するのも無駄なことではないし、自らの位置を再確認することにもなります。それが今、大変貌しつつある八重山の、他島で悩んでおられる方々の参考にもなるかは分かりませんが、ささやかな一石を投じることにはなるでしょう。もちろん地域づくりはいつも進行形なのですから、今竹富島も問題を抱え込んでいるという、マイナス要因も自覚した上でのことです。
竹富島の町並み保存運動は、廃藩置県以来の住民運動では人頭税廃止に次ぐ成功例だ、といってくれた地元ジャーナリストの声を支えにして。
3.竹富人の性格
明治37年の琉球新報に各島嶼の概況として、竹富島は次のように紹介されています。「・・・島民は常に西表島なる飛作地に露宿して米作に従事せり。戸数175、人口1114を有し地勢平坦にして島形方円なり。・・・而して其島民は競ふて能く農事に精励する点に至りては実に県下農民中稀に見る所にして亦各々貯蓄の念に富むの美徳を有す。婦人多くは機業を営み芭蕉布を産するを以て名あり。人気亦活発にして能く旅客の応接に馴れ少しく諧謔の気味を帯ぶものの如し。」また明治39年には同じように「戸数173、人口1000に近く・・・・。就学児童男100女86合計186。只一人の就学免除あるのみ。出席歩合日々97を下らず。・・・。本島は面積に比し人口多きを以て自然他に出稼するもの多く人民一般に勤勉富有にして犯罪者無く公費の未納者なし。・・・・道路清潔家屋の茅葺なるものは網を張て風害及ひ鴉の害を防く。戸毎の石垣には畢発(香料)茂生し葉は青く実の熟したるものは赤く村風の美と共に異彩を放てり。」
とあります。長い引用になりましたが、この中で重要なことが浮かんできます。
すなわち、竹富島は隆起さんご礁の島で土地が痩せているので西表島に米作に行かねばならないほどだったが、県下に例を見ないほどの働き者だった。人頭税が廃止されて翌々年だが、芭蕉布の生産が盛んだった。明るい性格でユーモアを以って旅客に対応している。教育熱心。平和で安全。清潔好きは昔からの伝統で、今となってはDNAに組み込まれているとしか思えません。石垣に生えるピーヤシも島の風景にマッチしていた。これらのことが、進取の気性と伝統を重んじる両面性をもつという、竹富人の性格が垣間見えます。人口などの数字と、茅葺が瓦葺になったことに変えてみると今でも通用するような新聞記事です。
石垣島では、竹富人に部屋を貸したら母屋を取られる、とかいう悪口も勤勉さの裏面でしょう。教育に力を入れたので、校長先生の数は島別の、字別の、人口比率ではトップだはずです。(最近は少し怪しくなってきましたが)。観光客とて一人もなかったころから、たまに訪れる役人や商人をユーモアを持って歓待し、情報を引き出していたホスピタリティは今の観光業にぴったりです。
4.竹富島観光の経緯
竹富島に観光という形が現れてきたのは、沖縄がアメリカの施政権下に置かれていたころ、パスポートを持たなければ来られないような時期に、那覇からでさえ一週間に一便の船でやっと石垣に着く。その間に民俗、民藝の宝庫といわれる竹富島にやって来る民俗学者、民藝研究家らが始まりでした。彼らは大きな戦災も無く、沖縄の原風景ともいえる集落景観をよく残し、その中で豊かに語り継がれている民俗や、引き継がれている民藝を文化として評価しました。ことに1957年に初めて島を訪れた倉敷民藝館長の外村吉之介氏は景観保存の重要性を説き、途絶えようとしていたミンサーや芭蕉布の復活に力を尽くしました。新聞や民藝誌に紹介し、ツアーを組んで民藝関係者らを何度も引き連れて訪問し、生業として成り立つような方策を講じてくれました。
竹富島の観光はこのような形で始まったことは幸いでした。だから観光業一世の人たちは、361人の島に年間42万人も来る様な観光地になっても、がさつな観光地にはしたくないと思っているのです。それにしても42万人というのはいかにも多すぎます。数が多くなると質が低下するというのは目に見えています。客の質だけでなく受け入れ側のサービスも低下します。不特定多数の観光客が増えるということは、そんなリスクをも覚悟しなければならないということです。その対応のために、また人を増やすという悪循環を繰り返します。そんな所はいい観光地とはいえません。いい観光地には良い人がお金だけでなく、いい情報ももたらします。なにも観光に関してだけではないのですが、子ども、孫の代、さらに次の代へと地域は持続していかなければなりません。あまりにも手垢のついた“観光”とばかり言いたくないのですが、沖縄の、八重山の観光は量より質をといわれ続けていながら、いまだに数字を追っかけているようです。
竹富島は人口361人(06年10月調べ)という小さい島ながら、国の指定を7つももっています。1、島全体が国立公園 2、集落域全体が町並み保存地区、 3、種子取祭が重要無形民俗文化財 4、ミンサー・上布が伝統的工芸品 5、夕日の名所・西桟橋が登録有形文化財 6、最高地点のなごみの塔が登録有形文化財 7、蒐集館の収蔵展示品が登録有形民俗文化財というようにです。そんな島をベルトコンベアーに乗せられて、短時間で通過していく観光をやっていたら、島は疲弊していきます。
島をきちんと、より良く理解してもらおうと、沖縄県とNPOで共同開発したのが「素足で感じる竹富島―素足ツアー」です。おじぃ、おばぁが歩いてガイドしながら、途中の民家でお茶飲んでゆんたくして、蒐集館の文化財の説明で仕上げるという約2時間半のコースです。
修学旅行の受け入れは民宿の稼働率アップだけでなく、将来のリピーターとしても有望だと民宿組合をつくって対応しています。好評で、大学に行ってから卒論のテーマにしたいとリピートしてきた学生も何人もいます。
観光の語源は中国の科挙の必須科目ともいえる四書五経の易経にある「観国之光、利用賓干王」(国の光を観るは、もって王に賓たるによろし)からきたという説があります。「観る」を「示す」と解釈する人もいます。この地域はこんなにしっかりしていますよ。だから勝手なことは出来ませんよ。と示し続けることが自立した地域をつくります。
旅行した先で珍しいモノ・コトを見聞する、体験することは旅の醍醐味です。
先日3回目のヒヤリングに来た琉球大学観光学科の学生が(福岡出身の堀田清文君、彼は小学生時代から、沖縄フリークの両親に連れられて夏休みには毎年訪れていました。)「絶対的観光資源」という言葉を使っていましたが、他に比類のない独自性ということでしょうか。どこにでもあるような所、深みの無い所は、また行くというほどのことは無いと記憶から消去されてしまいます。
5.竹富島憲章
そのような独自の地域づくりの必要性から制定したのが、復帰の前後ごろ吹き荒れた土地買い占めに対抗するための「竹富島憲章」でした。「われわれが、祖先から受け継いだ、まれにみるすぐれた伝統文化と美しい自然環境は、国の重要無形民俗文化財として、また国立公園として、島民のみならずわが国にとってもかけがえのない貴重な財産となっている。」とはじまる前文は「無節操な開発、破壊が人の心までをも蹂躙することを憂い、これを防止してきたが、美しい島、誇るべきふるさとを活力あるものとして後世へ引き継いでいく。」そのためにも「かしくさや うつぐみどぅ まさる」の心で島を生かす方策を講じなければならない。として、保全優先の基本理念として「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」の5原則を示しています。それぞれに中学校の校則みたいに、具体的且つ分かりやすい内容の細則があります。土地や家などを島外のものに売ったり、無秩序に貸したりしない、というのが一番の特徴です。島出身者の郷友会の総会に出かけていき「土地を大和に高く売るような人は竹富出身者とはいえない。」と呼びかけてきました。
そもそも八重山といわず日本の混乱の根本は、祖先から受け継いだ土地を子孫に伝えようとしないで、商品化してしまったことにあるのではないでしょうか。土地の流動性が経済発展なんて、そんなことで祖先との縁が切れた人たちが故郷も忘れて頼るものもなく、毎日毎日凄惨な事件を引き起こしている一端となっているのでしょう。先日ラジオを聴いていましたら宗教学者で日本国際文化センター元会長の山折哲雄氏が話しておられました。「日本人には毎朝、神仏に手を合わせるという行為があったのに、今は経済原理至上主義で若者は都会に吸い寄せられ、アパート、マンションには手を合わせる神棚も仏壇もない。故郷と先祖から切り離され、頼るものを失ったこと、それが日本人をこんなにしてしまった一因だ。」といっておられました。
この竹富島憲章は復帰の前年、1971年に長野県木曽「妻籠宿を守る憲章」を参考にして案がつくられました。こんなのも有効だろうと教えてくれた弁護士がいたのです。「金は一代、土地は末代」という看板を立て、土地を売るなとシュプレヒコールして回る運動の激しさに、企業も侵出してくることはありませんでした。
八重山には仮面神の祭りがたくさんあります。海のかなた、二ライカナイからの神を迎える儀式もあります。やってくるのは良い神様だけではありません。災いも最初は、にこやかな仮面を被ってやってきます。子どもを連れてきて保育所に入れます、なんていわれるとコロリと参ってしまいます。そしてあるとき仮面を脱ぐのです。どうも八重山の人たちは性善説が強くて、疑うことが苦手なようです。良い意味でのテーゲー気質がそれを表しています。それもまたある面では美徳でもあるのですが。
竹富島では企業の阻止運動の中で、以前に幹部がピストルを密輸入して逮捕されていたという記事を見つけ、それが地元紙に転載されると誘致派もぴったりと声がなくなりました。また別の企業は届け出もなく古墓を破壊したり、防潮林を伐採して道路を明けたりして行政から勧告、指導を受けていました。それでも県は書類が整っているからと、開発許可を出しました。しかし竹富の神様は許可しませんでした。もともとその土地は竹富の中でも神崇い土地と言われていたのですが、その企業は膨大な負債を抱えて見事に倒産しました。私たちは人事を尽くした後は、島を守ってくださいと神仏に、祖先に頼るしかありませんが、その願いが通じているのです。神の島といわれる所以です。
そういったことが繰り返される中で、やはり島の方針を明文化しておいたほうがいい、ということになりました。公民館では1972年の竹富島憲章案を憲章検討委員会で検討し、公民館議会でさらに検討し、公民館総会で満場一致で採択されました。だから島民の総意といえます。法的な拘束力はなくても住民の総意に基づくものが一番強いのだそうです。
憲章制定から18年経った2005年1月に、竹富公民館では中学生以上の島民全員にアンケートをとりました。回収率88.2パーセントでした。その中で竹富島の魅力は1、伝統的な町並み 2、赤瓦・石垣・白砂の道 3、さんご礁の海・自然環境 4、祭事行事の順でした。順当なところでしょう。次に竹富島憲章知っていますか?という質問にはよく知っている、だいたい知っている、を加えると全体では58パーセントでした。しかし存在は知っているが内容はよく知らない、というのが各世代でほぼ三分の一いました。10代ではまったく知らない、を加えると78パーセントというのは仕方ないことでしょうか。
手をこまねいていたわけではありません。教育委員会の助成事業である成人学級、婦人学級などでも取り上げてきたのですが、受講して欲しい人が参加しないのですからこんな結果になっているのでしょう。馬を川まで連れて行っても水を飲むかどうかは馬の勝手といいますが、人間ですから川にさえ来ないというのも一種の意思表示ですから仕方ありませんか。
それでも、町並み保存を核とした島づくりには10代でも89パーセント、各世代で86パーセント以上、60代~70代では実に98パーセントとなっています。これは、町並み保存は憲章が元になっているという認識はなくとも、町並み保存は竹富のしまづくりに欠かせないということは、ほとんどの人が理解しているということです。全体としては、反対という人も7パーセントいましたが、どんな社会でもせめて1割は反対意見がないと健全でないと言われますから、竹富島は健全社会といえるでしょう。
ところで憲章の有効性に気づいた全国町並み保存連盟では、妻籠、白川、川越、竹富の憲章を、毎年のゼミの分科会で4年かけて検討して標準憲章をつくりました。今では英語版と中国語版も出来ています。
6.島での住まい方
土地を売るな、といっても絶対売るなということではありません。売らざるを得ないような状況もあるでしょうが、そのときには親戚で、島民で持ち合いしましょうということです。そして島外からの人が求めたいときには、空き家を借りるか、従業員宿舎で何年間か住んでもらいます。島になじめるかどうかの試住期間です。仮面を外してもらわなければ島民と一緒にやっていけませんもの。これまでに10数年通った人、12年間エビ養殖場の職員として働き、結婚して子どもも二人できた人などは認められて土地を取得できました。そしてまちなみ保存調整委員会の図面審査もパスして、伝統的な様式の住宅を建てました。10年間なんてそんなに待てない、という声が聞こえそうですが、それが島のしきたりだったらそれに従うべきです。島の人たちは人を判断するのに「その人は島のために何をしてくれたか。」と言います。「これからやります。」と言う人は「それから」でいいのです。
島に住むというのはそんなことなのです。ましてや人口も減少して疲弊化している所ならいざ知らず、竹富方式ともいわれる在り方が成功して観光客が増え、人口も15年連続増加しているのです。島民の努力でいい結果が出ているのに、観光客も多いからここだったら儲かるだろう、なんてただ乗りはいけません。そんな人に限って仮面を脱いだ後は集まりにも参加しない、建設的でない文句ばかりいって島の秩序を乱していくのです。そんな人は一時の熱病に浮かされたみたいに大金をかけて土地を買い、家を建てて、島民とトラブルを起こしてまで無理して難しい島に住まなくても、もっと自由な所に住めばいいのです。好きなときに来て民宿に泊まっていけば気楽だし、今でさえ石垣島にはウィークリーマンション、マンスリーマンションがいっぱいあります。そのほうがお互いに幸せな関係を保てます。
えくぼもあばたに見えだすと、こんなはずではなかったとけんかして出て行く。その時に土地、家を不動産市場で売りに出す。そして暴力団とか某宗教団体とかが入ってくる。島外企業という資本に席巻されるだけでなく、そんなことが懸念されたのであのような竹富島憲章をつくったのです。
今、竹富島は15年連続人口増加中といっても、その内訳は島外からの人が三分の一ほどです。そのことを懸念する声もありますが、そんな人たちが観光業を現場で支えてくれているのも事実です。人生80年の中で、自分と波長の合った所で、半年か一年、三年までだったらいいかと民宿、食堂、観光関係事業所の従業員として居ついてくれます。そうこうするうちに、Uターンしてきた島の若者と結婚する人も出てきます。そんな人たちが特訓を受けて、あの種子取祭の舞台に上がる人もいます。
それにしてもせっかく居ついてくれた人たちがまごつかないように、竹富島での住まい方のガイドラインが必要です。必ず住民登録すること、毎朝道路と庭にほうきの目をたてること、島で生活する必要経費などを知らせないと、5万円とかで生活できるなんていう、阿呆な捏造テレビ番組が出てきて、幽霊人口を増やすのです。これまでは近くの人が教えたりしてきましたが個人差もあるし、きちんとしたマニュアルが求められます。
私たちもいずれ年取っていきます。大事なときにはきちんとしたアドバイスをして、ふだんは鏑木清方の「朝夕安居」の絵にあるような、穏やかな生活が出来る島があってもいいでしょう。あのおぞましい経済原理至上主義から一歩離れた生き方です。それでも霞を食って生きてはいけない。生活を維持していくための収入を得る、程よい間隔で接することが出来るのがいい観光です。観光はいい仕事です。いい環境といい情報とを提供したらいい人が集まります。アンテナを張り巡らせていれば、思いがけない大物に当たったりします。こうなったら単なる商業的な観光ではなく、地域づくりに一緒に関わってくれる人、交流人口と呼びたいものです。
7.後継者育成
現在どんなに良いような地域づくりが出来ているように見えても、それが次の世代へ引き継がれていかなければ意味がありません。いろんな集まりで議論がされても、それで後継者が出来ていますか、というくだりになると途端に調子が暗くなるケースが多くあります。地域が活性化しているかどうかを判断するのに、人口動態は有効な指標になると言います。日本は少子高齢化の中で沖縄は、八重山もこのところ毎年増加しているようです。
今年のNHKの「ゆく年 くる年」を見てもらいましたか? 昨年生まれた赤ちゃんを含む4世代の家の、年迎え風景でした。離島から初めての生中継で、NHKも看板番組なので力が入っていましたね。中継車3台。40人のスタッフでしたから。こんな良い話なら制作費をかけてもいいですよね。それに八重山毎日新聞の元日号です。361人の島に同級生が5人生まれました。一面を使って大きく扱ってくれています。HAPPY NEWSとはこんなことでしょう。
竹富島も15年前の251人が歴史上最低の人口になりましたが、翌年から連続増加中です。保育所は園児不足で廃所の危機に直面したこともありましたが、今では20人を数えるようになりました。それにつれて竹富小中学校の児童生徒数も増加傾向にあります。一昨年は8人の新入生があり、1、2年生の複式学級が解消しました。9学年で31人とまだまだ少ないのですが、この子どもたちが昨年は講談社の「野間読書推進賞」を受賞しました。これは京都在住の随筆家・岡部伊都子さんが復帰の日に寄贈された「こぼし文庫」を拠点に30年以上にわたって、親子読書会などの活動を続けてきたことが評価されたものです。
そしてあのソニー科学教育賞を8年連続受賞中です。これは科学の好きな子を育てようという趣旨の賞ですが、このところ化学、海洋学、農学、環境デザインなどの大学へ進む子が増えてきました。しかし復帰以来、竹富中学校を卒業して教師になった子がいません。ハングリー精神が衰えてきていました。学校では30年前に、地域と一体となって勤労生産学習の方針を打ち出しました。それが次第に実を結び、平成元年に全国鳥獣保護実績発表大会で文部大臣奨励賞を受賞したのを皮切りに、ソニー賞など以後続々と成果が上がっていきました。
国の指定を7つも持つような島をつくり上げてきた大人のがんばりを、子どもたちも見ていたのでしょう。学校と家庭と地域社会が一体となった、まさに学社融合の典型をみる思いです。こんな子どもたちが教師となって八重山に、竹富に帰ってきてくれればと願っています。なにせ教師という仕事はこんな厳しい時代でも、地域文化を再生産して伝えていける場面があるからです。
鮭の稚魚は川に放流すると外洋を回って4年目に、元の川に帰ってくるのだそうです。その川の独特の微量元素の匂いとかで感じるのだろうか、と言われたりしているようです。子どもたちも物心つかないうちから祭りの雰囲気、リズム感、島の空気感などを刷り込んでおくと、都会へ放流してもいつか帰って来たいと思い続ける子たちがいます。良いタイミングで帰ってきた子たちは、島の力石となって支えてくれるでしょう。
竹富島でも復帰後、島を出て行った子どもたちが都会生活を経験してUターンして帰ってきています。都会にいたころは島のことがテレビに出たりすると、俺の島だ、と自慢していたと言いますが、帰ってきたら規制が厳しいとか文句を言います。それが観光業に携わったり、祭りに参加したりして早い人で2・3年、4・5年するうちに、都会の垢が落ちて、小さい頃から刷り込まれていたものを思い出してきます。そんな人たちが、もうそろそろ島を担う年頃になってきつつあります。
後継者というと10軒の民宿旅館で、子どもたちが都会から引き上げて帰ってきています。この3年間で5軒の民宿の後継者が帰ってきました。都会の管理社会ですり減らされるより、宿の稼働率も上がっているし、親が元気だった頃はいいが、そろそろ潮時かなと。いまどき親の家業が継げるというのは幸せなことです。地域社会というのはそんな人々の生き様が、「島(シマ)とぅとぅみ 国(フン)とぅとぅみ」代々にわたって引き継がれていくものですから。だから先祖から受け継いだ土地を商品化して売り飛ばすと、帰って来ようにも来られない状況になってしまうのです。
8.自律なくして自立なし
ある講演会で「戦後、自由とわがままを履き違えた日本人はついぞ美しい町をつくることができなかった。」という話を聞きました。個性の尊重とか、心のままに自由に生きる、なんて耳あたりのいい言葉ですが、要するにわがままなのですよね。申し訳ありませんが石垣の街中を見てください。建物のデザインといい、色使いといい、自己主張ばかりして周囲との協調性が感じられません。たまに離島から出かけていくと疲れてしまいます。那覇、東京に行ったときの疲れと同質の疲れです。
そういった反省もあり、市でも赤瓦やサンゴ石灰岩の石積みに補助を出してきたのでしょう。そんなところへもってきて昨今の開発騒ぎですから、基盤整備が追いつかないなどのトラブルを懸念して、市でもたまりかねてHPで注意を呼びかけたようです。市の広報誌だけでなくHPや一般紙で方針を打ち出すと言うのは対抗手段としても良い方法だと思います。実は竹富島でも、土地を売らないという憲章が有るからといって安心していたわけではありませんが、なにやらインターネットで売りに出ているのがあるそうです。竹富島文化協会かNPOとかのHPで、しかるべき広報の必要を感じていたところです。
しかし竹富島では土地を買ったからといって、すぐに勝手な家を建てられるわけではありません。まちなみ保存調整委員会、公民館議会、教育委員会、伝建審議会といくつものハードルがあります。10年住んでみて、それでもどうしてもという人でないと土地を買っても、ばばぬきでジョーカーをつかまされたようなものですよ。憲章なんて知らなかった、不満だと言うのなら、土地を売った人は憲章の存在を知らなかったわけではないのですから、売主に買い戻させることが出来るはずです。売主は用心しないと、損害賠償なんて訴訟されるかもしれませんよ。
シマを売ってボロ儲けした人の名前を記録(記憶でなく)に留めて、語り継いでいかなければなりません。祖先と子孫に対して、恥じない家でありたいものです。自らを律してシマに誇りを持つことが自立につながります。
9.地域力
河合隼雄前文化庁長官は「東京一極集中ではなく、各地域がそれぞれの文化力を発揮することによって日本を元気に」と主張してこられました。経済力のみならず文化力も、発展のための大事な車の両輪ということのようです。いうところの文化力とは芸術、芸能や文化財などだけでなく、日常の衣食住の中のこまごまとしたことのなかに文化があり、それを生かそうとすることによって文化力が高まるのだといいます。2004年1月に初めて竹富島を訪れた河合氏は「観光地には違いないのだが憲章を作り美しい島を保持している。町並みの美しさに工芸、芸能、祭りなどの魅力も加わっているが、これらのすみずみにまで島民の生活そのものが深く関わって、文化がしっかり根付いている。」と東京新聞に大きく紹介してくれました。以来毎年島を訪れてフルート演奏を指導したり、泊りがけで島の楽器と合わせたこともあります。この文化力というのが竹富島の地域力といってもいいでしょう。
昨年、富山県五箇山で、日本民藝協会夏期学校が開催されました。戦中、戦後にかけて柳宗悦、棟方志功が疎開、在住し、彼らが影響を及ぼし、影響を受けたところです。西洋キリスト教に傾倒していた柳が、浄土真宗城端別院でたまたま開いた仏典によって、民藝理論の根幹をなす「美の法門」を著わしたところです。3日間の研修の中で研究者からも地元からもよく出た言葉が「土徳」という言葉でした。鄙びた山村が、柳ほどの教養人を引き付けてやまないものが、土徳といわれる地域力だったのでしょう。
研修の一泊は菅沼で、終わってから久しぶりに県境を越えて岐阜県白川郷で、その次は戻って相倉と世界遺産の3ヶ所に宿泊し旧友と歓談、交流してきました。白川郷など確かに世界遺産になった後、表面的には浮かれているようにも見えますが、まちづくりに熱くて、情に篤い人たちです。遅くまで付き合ってくれて、翌日は車を出して次の村へリレーしてくれます。最後の日には財団理事長が長躯120kmを、空港まで送ってくれました。知床の斜里町の人も釧路まで迎えにきてくれて、ビールも飲まずに130kmの夜道を飛ばしてくれたこともありました。はたして自分はそこまで出来るだろうかと感謝し、反省もしたことです。世界遺産地区だといって金儲けで浮かれているのではなく、人との付き合いを大事にするという、観光で一番大事なことを気負わずに、さらりとやっているのです。民藝の研修もさることながら、観光業での人のあり方をも学んだ旅でした。
10.世界遺産
世界遺産という言葉も最近よく見聞きするようになりました。「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づき、ユネスコの世界遺産一覧表に記載することです。現在は文化遺産644ヶ所、自然遺産162ヶ所、複合遺産24ヶ所で、日本では文化遺産に姫路城、奈良。京都の仏教建築群、五箇山の白川郷・菅沼・相倉などの合掌集落群、琉球王国のグスク及び関連遺産群など10ヶ所、自然遺産は白神山地、屋久島、知床の3件です。
政府は昨年、地方公共団体からの提案を受け付けました。竹富島も町並み保存地区に選定された20年前から、いつか狙えたらと思っていましたが、前町長も現町長も世界遺産を公約に掲げて当選しました。特に現・大盛武町長は熱心です。今度はいつ提案募集があるかわかりませんので、手を上げてアピールしておく必要があると、教育委員会は県と調整して“黒潮に育まれた亜熱帯海域の小島「竹富島・波照間島」の文化的景観“を提案しました。24番目だったのでゲンを担いで、いけると思っていましたが記載はなりませんでした。しかし継続審議とすることが適当と判断されましたし、熟度を高めていくための意見交換会も行われたようです。
提案が報道されるとどうして竹富町だけか、八重山としてできなかったかという意見も聞こえました。もっともです。しかしあえて言わせてもらえば世界遺産というのは昨日今日見聞する言葉ではないし、むしろ石垣市がリーダーシップを発揮して行動して欲しいことでした。いつになるか分からないことを待っているより行動を起こしておけば、自らの地域に誇りを持つという意識が高まって、八重山全体として動くことが出来る日が来るとの確信から提案したのです。継続審議になったことですし、これらをふまえて石垣市も与那国町も、もちろん竹富町内でも丁寧な説明会を持って、議論を交わしていきましょう。
石垣島を国立公園にと各地で説明会も行われたようですが、住民の反応が見事に二極化して現れていたように思います。北部など開発圧力の強いところは反対、懸念の声が強く、いっぽう川平など伝統村では歓迎、もっと拡大してなどの声です。伝統村では祖先から引き継いできたこの土地を、これ以上混乱にさらされたくないという、悲鳴みたいに聞こえます。
島を守っていきましょう。住民運動だけでは限界があることを、私たちも町並み保存運動の中で体得しました。行政を巻き込んで、条例等で担保しなければ実になりません。行政の文化化です。それには憲章など、住民の決意が必要です。竹富島は小さいから出来たさ、とばかりは言えませんよ。あの都市部の川越市も、ちゃんとまちづくりマニュアルを持っているのですから。
国立公園、町並み保存地区、国史跡など自らに制約を課して、それが認められて世界遺産に登録されていくのです。それ以上制約が増えていくのではないのです。高い志をもって子・孫へ伝えていく責務があります。
11.復帰35年
今年は復帰35年ですが、竹富島は「種子取祭が指定30年」「町並み保存が選定20年」「テードゥンムニ大会が30回」「PTA機関誌あゆみ発行50号」「全国竹富島文化協会創立10年」「NPOたきどぅん創設5年」と多くの周年の年に当たります。国指定を7つも持つ、小さい竹富島がどうして維持運営されているのかと、最近は社会学の分野からの研究者が増えました。同志会、部落会、公民館と続く自治意識が、世相を見極めつつも流されず、ついに規範となる竹富島憲章をつくりあげ、島を守ってきたことを大きく評価しています。
力の強い人の暴走をやんわりと抑え、方向性を見失わさせない、しなやかなバランス感覚が地域力としてあるというのです。それが持続的な島の経営方針としてDNAに組み込まれているのでしょう。
人口も増加し、緩やかに活性化しておいしい水が飲めているとしたら、井戸を掘ってくれた先人に感謝しなければなりません。「唐の太宗侍臣に謂いて曰く、創業と守成いずれが難き」と“貞観政要“にあります。創業の困難は先人が担ってくれたのだから、守成の困難は現役世代が担って必死にもがき、次の世代へ引き継いで行きましょう。これまでも問題はいつの時代にもあったことでしょうし、今もあります。先人が”うつぐみ(打組)“とズンブン(知恵)で解決してきたことですから、今の世代で出来ないということはないはずです。