「ウルズン」は季節を表す言葉で「若夏」の対語で南島歌謡に頻出する。しかし、沖縄最古の辞書『混効験集』(一七一一年)では、「わかおれつみ 二三月麦の穂出る比を云」「わか夏 四五月穂出る比を云」と記され、「おれつみ」(ウルズン)と「わか夏」(若夏)をしっかり区別しているのは興味深い。
その「ウルズン」の語源を尋ねると、潤うという意の「うり」と、浸みとおるという意の「ずん」が複合してできた語だという説が有力だ。つまり、降雨が土に潤い浸みることを意味し、それが特に、旧暦二、三月頃の季節を指していうようになった言葉だと考えられている(『沖縄古語大辞典』参照)。
『混効験集』にあるように、旧暦二、三月は麦の穂が出るころ。麦は醤油の素材となり、ウルズンは島醤油を仕込む時期である。農業がくらしの中心であったころ、豆腐や味噌、塩、醤油も各家庭でつくっていたが、そのうち醤油や味噌は、麹が発酵しやすいウルズンの季節に仕込んだ。
かつて竹富島では、麦は年の初めの作物として兄者作物と位置付けられ、麦が豊作であればその年の作物はすべて稔るとされた。そのため麦作には蒔入れから除草、立毛、出穂に至るまで厳粛な祈願がなされていた。
ところで、明治時代の統計によると、明治三九年、竹富島の麦の収穫高は、前年と比較して大幅に減少している。それは麦の播種時期に降雨が少ないため、作付予定地に播種できず、それに加えて開花の時も天候に恵まれなかったことが要因である。
一方、明治三九年の粟の作付反別が前年と比べて増えたのは、前年の麦の播種時期に降る雨の量が少なく、そのため予定の畑に麦の種を播くことができず、残りの葉畑に粟が播かれたため、その分だけ増加したのである(『竹富町史第10巻』参照)。
このように、作物の収穫は個別にあるのではなく、各作物が連動している。種子取祭の古謡「道歌」は、戊子の種子取祭に、神ツカサをお供し、「弥勒世」「神の世」「麦の世」「粟の世」「米の世」を賜るようにとうたう。ここでも作物は収穫の早い順にひとつづきでうたわれている。その筆頭が「麦の世」、つまり麦の豊作であるのは注目してよいだろう。明治三九年の竹富島のウルズンは、兄者作物である麦の不作に、島人はおののいていたことだろう。
ムンヌヨイ(麦の祝)は、収穫後の甲または庚の日に行われ、麦のハチ(初穂)を神に捧げた。その晩は各家で、ムンヌハンビル(麦のテンプラ)を前にして祝盃をあげたという。戸主はスーヤーケー(部落集会所)に一品携帯して、麦の収穫を祝った。
また、卒業祝いや終了祝いを、アガリヨイ(上がり祝)というが、そのころは麦の収穫の忙しいころで、アガリヨイとムンヌヨイを抱き合わせて行う家庭も多かったそうだ。ムンヌヨイは、麦作の行われていた、一九五七年ころまでなされていたという。