八重山諸島におけるオセアニア考古学

八重山諸島におけるオセアニア考古学

現代の太平洋世界では、オセアニアとアジアの島々の間にはっきりした境界が見られる。オセアニアの島々には、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアが含まれる。アジアの島々は、インドネシアからフィリピン、そして台湾や日本にまで広がっている。日本の歴史は、オセアニアではなくアジアのそれとして見なされているわけだ。では、なぜ二人のオセアニア考古学者が八重山諸島に目を向けたのだろうか?
まずは、この二人の専門分野を紹介しよう。アトール・アンダーソン教授は、オーストラリア国立大学(ANU)太平洋・アジア学科に所属している。ケンブリッジ大学で哲学と科学の博士号を取得しているが、出身はニュージーランドで、その研究活動のほとんどがオセアニアを舞台としている。ポリネシア考古学の主要研究者の一人だ。グレン・サマーヘイズ教授は、ニュージーランドにあるオタゴ大学の人類学部に所属する。オーストラリア出身で、メルボルンのラ・トローベ大学で哲学博士号を取得した。パプア・ニューギニア考古学の権威である。この二人はどちらも、オセアニア諸島への先史時代の人々の移住、ことにアジアからのそれに興味をもっている。
サマーヘイズもかつて研究員だったANUでは、アジアから太平洋への人々の移住をテーマとした大きな研究プロジェクトが実施されている。最近のこのプロジェクトの活動としては、台湾近くのルソン海峡に位置するバタン諸島を中心とした、フィリピンでの発掘調査がある。この調査により、バタン諸島への最初の人々の移住は3700年前で、台湾から来たものだったとわかった。この地で発見された土器や石斧がオーストロネシア文化の特徴を示すもので、台湾から東南アジア諸島を経て太平洋をこえたニュージーランドやイースター島、ハワイまで分布しているものだったからだ。
このことから、オセアニア考古学者が八重山諸島に興味をもつ理由が推測されるだろう。約3000~4000年前には、オセアニアとアジアの島々の間に、ほとんど文化のちがいはなかったということなのだ。古来の住民が中心的存在であるニューギニアを除けば、これらの島々はすべて、アジアを源流とする人々が移住してきたものだった。アンダーソンとサマーヘイズが証明しようとしているこの理論からは、次のような考えが導かれる。もしこのオーストロネシアにおける人々の大移動によって、台湾から南へ、また西のオセアニア地域全般へという方向の動きがあったのなら、台湾から東の琉球列島へという動きもあったのではないか? 八重山諸島こそが、この理論を証明できる場所なのだ。八重山諸島と台湾の距離はわずかである。晴れた日には、与那国島から西の水平線をのぞめば、台湾の山々が見えるほどだ。
八重山諸島は、考古学的にとても興味深い場所である。波照間島の下田原貝塚に由来して名づけられた下田原文化は、この地独特の先史文化だ。約4000年前、日本は縄文文化の時代だったが、縄文式土器をともなうこの文化は琉球列島南部までは達しなかった。台湾では、この時期の代表的な土器には縄文が入っている。しかし八重山諸島の下田原式土器はまったく異なる。それは厚手で、爪形文などで装飾されている。この土器の起源は知られていない。縄文式土器からの派生とは考えられない。するとこれは台湾由来のもので、オーストロネシアにおける人々の東への移住の証拠なのだろうか?
アンダーソンとサマーヘイズは、いくつかの方向からこの問題にアプローチしている。どちらも日本語ができないので、日本人研究者に下田原期遺跡の発掘報告書を英訳してもらっている。また、過去の発掘で収集された炭化材や炭化種子を資料として、より正確な新しい炭素同位体年代の値を出している。加速器質量分析法(AMS)による最近の分析結果では、下田原期遺跡の最下層から出土した炭化種子の年代が3800年前±35年と出た。予想通りの精度だった。もうひとつのアプローチは、下田原期遺跡から出土する土器・石器の素材を分析し、その起源地を探索するものである。これまでのところ、土器の胎土分析の結果、八重山の下田原式土器は出土する島によって鉱物的・化学的組成にちがいがあることがわかった。これは各島での土器の現地生産を示すものであるが、波照間島では一部に外来の土器もあることがわかっており、おそらく西表島からのものと思われる。
このプロジェクトを次の段階に進めるためには、下田原期遺跡のいくつかを新たに発掘することが必要とされる。その目的は、遺跡の層序と年代をきわめて正確に分析することで、集落は連続して居住されていたのか、それとも断続的だったのか、また後者だとすればそれぞれの居住時期はどのくらいの長さだったのかを理解することにある。したがって、これまでなされてきた発掘調査と比べて、かなり小規模な発掘で事足りる。この調査によって、八重山の下田原期の人々の定住度はどのくらいのものだったのか、またさらには、集団同士の交易関係についても手がかりが得られるだろう。発掘で得られる土壌サンプルを化学分析や炭化種子分析にかけることで、下田原期の農耕の存在についても調査する予定である。アンダーソンとサマーヘイズは、この時期に雑穀(ミレット)栽培が行なわれていたと考えているが、それを確実に証明できる考古資料の収集が必要である。また、下田原文化を擁する人々の移住によって、八重山諸島の自然環境にどのような人為的変化があったかという問題もある。オセアニアのいずれでも、島々への人々の移住は、植生に急激な変化をもたらしている。とくに目立つのは、森林の伐採、および動物や鳥の量と種類の顕著な減少である。我々の予想では、イノシシやジュゴン、地面に巣を作る鳥類、ラグーンや珊瑚礁の生き物たちなどが激減した可能性がある。このことは、もうひとつの問題を表出させる。すなわち、自然資源の減少が、人々が3000年前の時点で最終的に八重山諸島を去った原因であったのかということである。これらの調査に先駆けてまずアンダーソンとサマーヘイズは、下田原期土器や石器の材質と型式の厳密な分析によって、その源流は台湾なのか日本本土なのかを明らかにしたいと考えているのである。
今回八重山諸島において、下田原期遺跡が発掘された地域や下田原式土器の出土が記録されている地域の周辺について表面調査を行ったが、それだけでもすでに特筆すべき結果を得ている。下田原文化に関する発見とは言えないが、西表島のある地域の表面採集で、アンダーソンとサマーヘイズは特殊な型式の石斧を発見した。分銅型の大型石斧で、氷河期の人類遺跡で典型的に出土するものと同じ型式である。似た型式の石斧は、日本の本州では最古のもので20000年前の遺跡からの出土例がある。またニューギニアでは、同様のものが40000年前までさかのぼる。この八重山での発見は、10000年以上前に海面が今よりずっと低かった時代、のちに海面が上がって西表島になった土地にすでに人々が住んでいた可能性を示唆する。下田原文化を担った人々と同様、この人々もよそへ行くか死に絶えてしまったのだろう。八重山に人々が定住するようになったのは、ほんの2500年前のことだ。
このように、八重山諸島は考古学的にみて非常に興味深い地域であり、また仕事をするのに楽しい土地でもある。アンダーソンとサマーヘイズは、行き慣れたオセアニアの島々とこの八重山諸島に、多くの共通点があると感じている。生活のペースはゆっくりとしていて、食べ物も音楽もすばらしい。住民は人懐こくて外向的であり、自分の島の文化遺産に愛着を感じている。八重山での調査は今後数年にわたって続けていくつもりであり、この地の先史文化について多くの新しく貴重な情報を提供させていただけるものと思う。アンダーソンとサマーヘイズは、折にふれてこの雑誌やほかの媒体を通して、八重山の人々に調査の結果をお知らせしていきたいと考えている。

文・オーストラリア国立大学 アトール・アンダーソン、訳・早稲田大学 細谷 葵

この記事をシェアする