村に世果報を漕ぎ寄せろ! 船浮観光の船出

村に世果報を漕ぎ寄せろ! 船浮観光の船出
村に世果報を漕ぎ寄せろ! 船浮観光の船出
村に世果報を漕ぎ寄せろ! 船浮観光の船出

船浮集落。――人口44人。西表島内の集落で唯一陸路がつながらず、台風などによって海路を閉ざされると陸の孤島となってしまう不便な場所にある。かつてはそのもっと先に網取、崎山、鹿川の集落があったが、いずれも今はもう廃村となってしまった。

民謡「石ぬ屏風節」は船浮の様子を次のようにうたっている。
  石ぬ屏風たてぃてぃ
  七重八重内に
  いちぃ世までぃん 船浮
  ミルク世果報

 船浮は自然の大岩山が屏風のように七重八重に立っている内にあるので、いつの世までも果報の村であるという意味である。
 船浮に立って、白浜の方を眺めると、まさにその歌のままの光景。そしてその七重、八重に連なる山々を前に、圧倒的な存在感で船浮湾が横たわっている。
 「石の屏風」に囲まれて船浮湾とともに静かに何百年も息づいてきた(息継いできたともいえる)船浮である。その船浮で今、村の将来を大きく左右するであろうと思われる事業が始まろうとしている。船浮住民、平田観光、琉球真珠の3社が出資した有限会社船浮観光が設立され、この4月から事業をスタートさせることになったのである。船浮観光の主な事業は観光客の受け入れ。船浮を訪れる観光客を案内し、食事と快適な時間を提供して送り出す仕事である。平田観光は観光客の船浮への誘客に協力し、船浮湾に真珠の養殖場をもつ琉球真珠は作業の様子を見学させるなどして協力していくことになる。
 そして船浮は…、なにしろ小さな集落である。社長をはじめ船浮観光の常勤スタッフ7人が地元の人であるというだけでなく、多かれ少なかれ住民すべてがこの事業にかかわらざるを得ない状態になるはずだろうから、当然、船浮観光の成否は村の行く末に大きな影響を及ぼすことになる。

≪村人の笑顔≫
 今年1月18日午前10時すぎ。石垣島の離島桟橋に船浮の住民たちが集まっていた。船浮観光職員の家族を中心に、船浮小中学校の児童生徒、職員、他に地域住民あわせて総勢27人。
 「西表島船浮の魅力を再発見しつつ、観光客の受入と、今後地域の適切な活性化を図れるよう地域ぐるみで取り組む」(企画書)ために平田観光が石垣島バス旅行を企画した。
 祖納勇さんの左手には包帯が巻かれていた。しかし、「作業中にやられちゃってね、ハッハッハ」と笑って、深刻さは微塵もない。充実した現在の気持ちが顔いっぱいに現れているようであった。
 祖納さんに初めて会ったのは、去年の夏こと。豊年祭の2日前に行われた釣り大会の夜だった。ひとり桟橋で釣糸を垂れている祖納さんにいろんな話を聞いた。本土の企業を退職して故郷の船浮に戻り、今は悠々自適の気ままな暮らし…であると知った。
 翌日、祖納さんと民宿「みんぐしけー」の宮城八十男さん、それに兵庫から毎年のようにやってくるという同宿の可知裕史さんとイダの浜まで散歩に出た。
 イダの浜は美しい浜だった。白い砂、青い海、緑の山並み、抜けた空に浮かぶ真綿の雲、キラキラと戯れる光…、思わずホーッとため息が出る。
 砂浜の木陰に若い女性がひとり、読みかけの本を顔に寝転がっていた。旅人にとっては至福の時間。――しかし村人には時間はどのように流れているのだろうか、とその時ふと考えた。
 失礼ながら、あのときの祖納さんの顔と比べると、同じ笑顔でも、今の祖納さんの笑顔の方がずっとメリハリがきいて輝いている。
 みんな晴れ晴れとした明るい表情で、日曜日のバスの旅を楽しんでいた。八重山民俗園では、餌をねだって肩や足元にまつわりつく素早い動きのリスザルに、喚声をあげた。みんな笑っていた。大人も子供もみんな素晴らしい笑顔でわらっていた。
 夕方。離島桟橋にある平田観光の会議室。バス観光を終えた一行を前に池田克史船浮観光社長が挨拶をした。池田さんは船浮出身の32歳の若者である。
 「今日の研修を参考にどうぞ暖かい心で船浮にやってくる人を迎えていただきたい。村出身の若者たちが戻って来れる場所づくりをめざして船浮独特の観光をすすめていきたい…」
 平田観光社長室長であり船浮観光専務でもある奥平崇史さんも挨拶に立った。
 「私たちは営利だけを考えているわけではなく、皆さんと心の交流をはかり、村づくりのお手伝いをしていきたいと思っています。末永くお付き合いいただきたい…」
 奥平さんも31歳と若い。

≪話のはじまり≫
 そもそもコトの起こりは一昨年の夏。船浮は素晴らしいところだと知人に聞かされていた奥平さんは船浮を訪ねた。その時奥平さんを案内したのが東京から船浮にもどって3年目の池田さんだった。池田さんはロシアの大学を卒業し、東京で働いていたが、父親の怪我をきっかけに帰郷した。しかし、船浮では学校の職員を除くと若者は池田さん一人。
 なんとかして村を活性化させて若者の住めるような場所にしたい、それなら観光しかないと考えていた池田さんと、魅力のある新しい観光コースを模索していて、船浮の自然に魅了され炭坑や戦争の歴史にも衝撃を受けた奥平さん。二人はすぐに意気投合した。
 しかし観光客を送り込んでも船浮には受け皿がない。だが池田さんの熱意に共鳴した奥平さんは「こういう人が地域におれば…」と、経験豊富な前田哲男営業企画室課長に相談し、社長にかけあった。
 久しぶりに船浮を訪ねた平田哲三社長の「これはいい!」の鶴の一声で、受け皿をも含めた商品(観光コース)づくりに動き出すことになった。
 平田さんは「非常に良いですよ。簡単に言うと、船で渡るしかできない場所で、あの中に入ると西も東もわからない。ヒルギなどの自然も生きている。最後の秘境ですね」と言う。
 それから奥平さんと前田さんの船浮通いが始まった。直接の担当者は前田さんになった。
 住民に公民館に集まってもらって意見を聞いた。
 「そのときわかったのは、部落の抱えているいちばんの問題が学校の存続と廃村の問題で、自分たちはこれからどうなるのかと皆さん不安に思ってたんですね。じゃあ何かしなきゃいけない。そう考えたとき、他の事業もあるでしょうけど、皆さんが思っていたのはやはりこの素晴らしい自然を活用するしかないじゃないかということでした。そこで私たちと考えが一致しました。ただ、やはり環境は壊したくない、と。自然をちゃんと後世に残そう。ただ、その限りにおいて活性化のためにちょっと利用させてもらおうじゃないか、と。私たちとしても、(西表)東部のようなのではなく、船浮らしい観光をと考えていました」と前田さんは話す。

≪船浮観光設立≫
 船浮小中学校の生徒が4人になって村はこれからどうなっていくだろうという不安のなかで起こった船浮観光発足の話を住民は歓迎した。
 かつて生徒が3人になったときに、琉球真珠が家族持ちの職員を募集して村を救ったという経緯があるが、今回の話は身近な観光の話題であるだけに、住民はそれぞれの暮らしの延長線に観光による村の発展を容易に想像することができた。
 「炭坑と船浮要塞の歴史をもつ船浮は日本の近代史を勉強する場所として最適」だと考えて、数年来自宅の一部を船浮歴史資料館「西表館」として公開してきた池田豊吉さんは、そこを多くの人に見てもらって船浮から日本の歴史を考えてほしいと思っているし、船浮観光の食事を任されることになった「お食事処はまごう」の井上三枝子さんは、地元の食材を生かした、他では味わうことのできないような料理を提供したいといろいろ思いをめぐらせている。
 また、余所からやって来る船が観光客を案内して「ゴミだけを落としていく」ことを苦々しく思っている多くの住民にとっても、地元の観光会社は大歓迎であった。
 そして、昨年6月18日、有限会社船浮観光が設立された。資本金1千万円。沖縄振興開発金融公庫から3千万円の融資を受けて「体感型遊覧船ちむどんどん号」2隻を造船し、レストラン「島家小」を建てた。
 金融公庫の融資担当者は、「地域開発は通常70%融資の産業開発資金を使いますが、今回は100%融資の生業資金を充てることができたことはとても意義があることだと思います。住民主体の村おこしのお手伝いができて嬉しい。まさにこれが私たちの仕事ですから」と話す。

≪船浮観光への期待≫
 会社設立から5か月後、昨年11月28日には「島家小」の成祝賀会が行われ、村は華やかな雰囲気に包まれた。エージェントや関係者が招かれ、観光コースが披露された。
 ちなみに、現在、船浮観光が設定している観光コースは次のようになっている。白浜港を出た「ちむどんどん号」で、まず対面の内離島に上陸し炭坑跡を見学する。炭坑見学のあと再び「ちむどんどん号」に乗って船浮湾を縦断しマングローブの奥の水落ちの滝へ。そこはその名の通り、滝から流れる水が直接海面に落ち込む珍しい場所である。以前は、村人はもちろん漁船や船浮湾に避難した船などが給水に利用したところ。
 マングローブを引き返し、特攻艇発射場跡、真珠の養殖筏を見学して船浮集落へ。
 集落内には旧日本軍の防空壕、通信基地、桟橋跡、黒真珠養殖施設、美女かまどまの碑、船浮歴史資料館「西表館」などがある。裏にはイダの浜。
 集落内で3時間半の間に見学し食事をし、自由に時間を過ごして定期船で白浜に戻るというコースである。
 帰路は「ちむどんどん号」ではなく定期船を利用する。地元の会社(有)船浮海運に配慮したためである。
 その日のお披露目には浮き桟橋はまだ完成しておらず船の横付けに手間取ったところもあったが、スタッフの動きはきびきびして緊張感が伝わってきた。
 内離島の炭坑跡に続く山道に白砂が撒かれていた。聞くと、スタッフが浜の砂を人力で運んで撒いたのだという。かつて正月に庭に白砂を撒く風習があったが、山道に撒かれた砂の白さが、スタッフの汗の結晶となって船浮観光の船出を予祝しているようであった。会社設立以来、「みんな元気になった」と井上三枝子さんは言う。娘の船浮中学1年生井上晴香さんも「みんな楽しそう。なんとなく人が増えそう」と感じている。晴香さんは小、中あわせて4人の現在の生徒数が1昨年転校してきたときの10人に増えてほしいと思っている。
 佐久川政一校長も「せめて10人くらいいてくれたら、子どもたちがもっと活力をもって活動できる」と船浮観光に期待するが、今年の春以降に入学する予定の未就学児童がひとりもいない現在、生徒数の問題は緊急の課題。それまでは「山村留学などでつないでいくしかない」と考えている。
 村を出たのが20歳前後の数年間だけで、残りの50年近くをずっと船浮に住み船浮を見続けてきた池田米三さんは「人が少なくて祭りができない時期もあった。生徒が3人の時もあった。琉球真珠にお願いして5家族に来てもらったからここまでやってこれたけど、そうでなかったら村はどうなっていたかなあ」と述懐する。
 「だから今回、若いのが安心して働けるところができたのはとても良いこと」と言う。船浮観光によると、会社発足の動きに村出身の関係者が2人さっそく反応し、条件さえ整えば村に戻りたいと言っているという。公民館も船浮観光をバックアップする形で動き出した。町に、イダの浜のシャワー室設置、浜までの道の整備、公民館の建設(2階に海洋資料館)、水田の復活などを要請する予定である。
 「老人クラブ(船浮亀の会)では木工品や、魚の塩漬け、貝殻の加工品など特産品づくりをしようと決定したし、婦人会でも、かまどまの碑の所で舞踊などをだそうかと話し合っています。しかし、公民館が直接関わることはできないので、将来的には組合を作ってと考えています」と池田豊吉公民館長。
 石垣在船浮郷友会「かまどま会」の戸真伊擴会長は、「郷友会はこれまで同様に部落の行事などに参加していくが、船浮が活性化することによって郷友会員が今まで以上に部落に興味を持ってほしい」と願っている。
 また、「例えば昔のように屋敷の境界に石垣を積もうというのなら、石垣在の地主に呼びかけることなどもできる」し、必要であれば自身の生業である木工による特産品づくりのアドバイスなどでも協力できると言う。

≪新しい未来へ≫
 ところで、船浮の人たちは船浮観光による活性化の先にどういう未来図を描いているか12人に聞いてみた。大概は次のようである。
 人口70人~200人。学校の生徒数10人~25人。行事をきちっと継続して行い、ゆったりした今の暮らしをかき乱されず、自然を大事にしていく――
 池田克史さんは5年後の理想の姿を「70人くらいの村人。5所帯くらいは若者家族で生徒は15~20人。次世代が中心になって活気にあふれ、祭りも続けていける村」と描いて見せた。 また、誰もが船浮の自然を大事にしなければならない、と話した。住民は、これまでやってきたように自然に包まれた中での暮らしこそ最高だと思っている。しかしそれぞれに個性も考え方も違いがあるように、船浮観光による開発行為をどの程度まで許容範囲とするかは一様ではない。
 例えば、水落ちの滝に遊歩道をつくるという話に賛否両論あるし、イダの浜までの道の整備をどの程度やるかにも意見が分かれるところだ。
 もちろん船浮観光のスタッフも自然を壊すことは自分の首を絞めることだということをよく心得ていて、「ちむどんどん号」はエンジンを5サイクルにして排気ガスを少なくし波を立てにくい設計にしてマングローブの根を傷めないように配慮した。
 観光客の誘致にしても、船浮を「もてなしのエリア」として単価を高くし結果的に人数を制限する形にした。(平田観光)
 しかし、船浮の魅力が広く知られると余所からやってくる船が増え、クルーザーなどの大型船が入ってくる可能性もある。そうなると周辺地域で組合などをつくって、船浮湾の利用規制を考えなければならなくなるかもしれない。
 「観光税のようなものを取ってもいいと思いますよ。自然があっての船浮。海の色、空の色、何とも言えない素朴さ。変わってほしくないし、船浮の人たちがこれだけは守ってほしいと言えば僕は守りますから」と20年来船浮に通っている鷲田欣司さんは言う。さらに、船浮湾に養殖場をもつ琉球真珠はもちろんだが、漁業者にとっても海の汚染は死活問題である。海を汚さずに観光と漁業の両方がうまくいく方策をお互いに話し合ってルール作りをしていく必要がある。船浮の漁師で八重山漁協の漁業権管理委員でもある野原和人さんは、現在でも漁業者の網が余所からやってくる観光船に損害を受けた例があると指摘する。
 「ここは最高の海ですよ。よくぞここに目をつけたと感心するくらいです。しかし船浮観光に反対ではありません。むしろ村の活性化のために喜ぶべきことだと思っています。ただ、お互いがじっくりと話し合って将来を考えていくべきだと思います」と言う。
 去年の豊年祭。出し物の一つに「力だめし」というのがあって、力自慢が直径50センチくらいの石を持ち上げて競う。その時司会をしてかけ声をかけていたのが野原さんだった。
 そのかけ声が節祭の船漕ぎ競争の時のかけ声をアレンジしたものだと知ったのは豊年祭の反省会の時だった。野原さんは「一生懸命考えて工夫してみました」と言った。その話に感動した。というのも、野原さんがあの琉球真珠の5家族の1人であることを知っていたから。船浮村の住民構成は大きく3つに分けられる。元々の村の住人、琉球真珠の5家族のように後に住みついた人、それに教職員のように一時村に住みつく人たちの3つである。小さな共同体であっても、その3つの間の溝はなかなか埋まらない部分がある。溝を埋めるのに長い時間がかかるのである。そのことを知った上で先の野原さんの「お互いじっくり話し合って将来を…」という発言を重く受け止めるべきだと思う。

≪共存共栄≫
 しかし一番の問題は観光客がじゃんじゃん押し寄せて来た場合である。その時に船浮観光は観光客を許容範囲内に押しとどめて、自然と村人の暮らしを守ることができるだろうか。
 「そんなこと(自然と暮らしを破壊すること)は絶対にさせません」と井上吉晴船浮観光常務は断言する。
 「部落のために立ち上げた会社ですから、部落を潰したんじゃ意味がありません。共存共栄。行事の時などは従業員は交代でも率先して参加するし、反対者がいればその意見をよく聞いてプラスにしなければいけません。民主主義の世の中だから多数決だといっても、部落ではだめなんですよ。ギクシャクします。私はここで自分の人生を終わろうと思ってますから、船浮はいつまでも船浮だなという村にする。これが私たちのつとめなんですよ」
 井上さんの話を聞き終えて外に出ると、そこは漆黒の闇。桟橋の船揚場に池田米三さんがカンテラの灯りの下でイノシシの腸を洗っていた。米三さんがイノシシを4頭仕留めたという話は村中に知れわたっていた。
 「いつもあなた大猟ねと言うから、いやイノシシから電話かかってくるよ、と冗談するさ」と米三さんは笑った。
 井上さんが近寄ってきて、貰ったイノシシの肉の礼を言った。ついさっき「米三さんを尊敬している」と話していた井上さんはちょっとテレくさそうだった。
 村の最大の行事である節祭をまだ見たことがない。今年の秋にもう一度船浮を訪ねてぜひ船漕ぎ競争を見たい、と思った。

はいの 晄

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