まちの拠点づくりを地域の活力へ~町役場移転を起爆剤に~

まちの拠点づくりを地域の活力へ~町役場移転を起爆剤に~
まちの拠点づくりを地域の活力へ~町役場移転を起爆剤に~
まちの拠点づくりを地域の活力へ~町役場移転を起爆剤に~

西表東部地区は、2005年の町役場移転に向けて大きく変化している。竹富町の拠点として東部地区がどのようになっていくか、それを地域の活性化にどのようにつなげていくか大きな期待と課題がある。

≪サトウキビを基本として≫
 サトウキビの収穫の時期を迎えると西表東部地区では、キビ畑で刈り取りにおわれる人たちの姿がある。
 東部地区の農業の基本はサトウキビであり、「兼業でもサトウキビは生産つづけないといけない」とサトウキビ農家は口にする。
 西表島では、明治の中期にサトウキビが栽培され、製糖されていたといわれているが、大正期になると、ほとんど栽培されていなかったという。本格的にサトウキビがつくられるようになったのは1950年頃からで、大原、豊原、古見、上原、住吉地区で、小型機械動力による製糖工場が建設された。
 その後、西部地区では1965年に工場休止に追い込まれたのに対して、東部地区では中型工場が誘致されて今に至っている。現在、西表島には唯一「西表糖業」がある。西表製糖は、東部にあった4つの小型工場を買い上げ、1961年1月から操業を開始した。
 その後、製糖事業は順調に伸展していったが、1971年、長期干ばつと大型台風の被害によって、サトウキビの収穫は皆無状態になり、工場は閉鎖を強いられた。こうしたなか、農協主導で操業を再開しつつ命脈を保ち、1973年9月に与那国製糖と合併し、その西表事業所として再発足した。1975年には、与那国製糖工場の売却により、西表糖業と社名を変更して現在にいたっている。なお、工場能力は100t。 
 キビの生産も機械化が進み、収穫高も大幅にアップしたが、収穫の多くは人手を必要としている。しかし労働力である青年層が少なくなっていて、後継者問題も浮き彫りになっている。こういった状況を補っているのが、援農隊というシステムである。全国各地からやってくる彼らの力は、キビ生産にとって欠かせない存在である。
 サザンファームという生産法人を立ち上げている西大舛高旬さんたちは、援農というシステムを活用している。西大舛さんたちは普段は家族中心でサトウキビ・水稲の生産を行っているが、毎年8~10人の援農メンバーを12月~4月に受け入れている。
「キビの収穫には援農隊は必要です。何年も通ってくれる人もいるし、労働力の少ない島ではとてもいいシステムです」
 サザンファームでは、なれている援農メンバーには自主的に収穫作業をまかせるなど、家族的な雰囲気を大事にして、大規模農業経営を行っている。キビを中心においた農業経営をすることで、畜産や水稲、熱帯果樹などの複合経営も成り立ってくる。
「若い人にやる気の出るような農業をやっていかないといけない。青年層の雇用の場は観光産業だけでなく、農業でも親のあとを継ぎ安定した収入が得られる魅力が必要。基盤のしっかりした第一次産業を確立しなくてはならない。」
 観光産業の隆盛があり、町役場移転が実現すれば大きな変化に直面するであろう状況で、流されることのない島の基本である農業をしっかりとしたものにしようと、農家は経営努力をしている。

≪バランスのとれた畜産振興≫
 サトウキビ農家が昔から多い西表の農業に、近年畜産が加わってきている。畜産を専業にする農家はまだまだ少なく、キビと兼業してやっている。
「サトウキビなど他のものを作りながらの兼業になるのでなかなか難しい面もありますが、西表ではキビに次ぐ産業です。東部全体では約1500頭の牛を飼っていますが、大きな問題としてセリへの出荷があります。セリに出すには石垣へ輸送しなくてはいけないのですが天気が悪くなると貨物船が出なかったり、早めに石垣に輸送すると管理することができなくなります」と東部和牛改良組合長である新初蔵さん。
 セリに出すには輸送コストがかかる、売却されずに島へ戻すとさらに輸送コストがかかってしまう。石垣に比べて離島のハンデということが大きくのしかかってくる。そのために新さんたちは改良組合を立ち上げて、生産の向上を計ってきた。ハンデはあるものの組合員も増えてきた、頭数も増えてきている、生産額も伸びてきている。島の農業を支える明るい兆しも見えてきた。
「これからは頭数も増やしながら品質も上げていかなくてはなりません。また、後継者を増やしていくことも課題になります。兼業なのですぐに向上させるのは難しいかもしれませんが、長い見通しをもって西表にはいい牛がいる、いい生産農家がいると言われるようにしていきたいです」
 新さんたちはサトウキビにとってかわって畜産を伸ばそうというのではない。島にとってサトウキビが大切なことは充分把握している。サトウキビひとつだけでいけないことも感じている。だからサトウキビとのバランスを大事にして畜産を伸ばすことが、島の発展につながると信じキビと畜産に励んでいる。若い人も畜産をやっているし、これからやりがいがある。

≪フルーツアイランドを目指して≫
 西表の生活の基盤は、サトウキビ生産で成り立ち、近年は畜産業も盛んになりつつある中でフルーツアイランドを目指して、頑張っている人がいる。JA八重山郡青壮年部の福地利夫さんは、高校卒業後島に戻り、家業の運送業とサトウキビ生産を継いだが、もともと亜熱帯フルーツに興味を持っていてパッションフルーツと出会い3年前ほどから栽培を始めた。
「一時期盛んだったスイカ・メロンの栽培は、コスト高・価格の低迷などで生計が成り立たなくなっている状態です。西表では収入を得るという意味では、サトウキビを生産することが一番の近道です。ある時パッションフルーツという果物の存在を知り栽培農家を見学に行き、パッションフルーツから不思議な魅力を感じ、栽培農家の話を聞いているうちにこれをやってみようと思い始めました」
 福地さんは苗を分けてもらい、自分のハウスがなかったため先輩農家のハウスでの栽培がスタートとなり、その後独自で4棟のビニールハウスを建て収穫を迎えた。1年目は端境期に出荷したこともあり値段も高かったが、2年目からは、沖縄本島にパッションフルーツが大量に出回り、一気に価格が下がってしまった。
「品質を上げてもっとおいしいものを作らなくてはいけないと思いました。そんなときJA壮年部に入ることとなり、その集まりの中で各地域の人たちと交流ができ、いろいろなアドバイスももらえるようになりました。JAの営農指導員・普及員の指導を受け、良い品種ができるように研究を重ね苗づくりをしています。将来的に西表島の特産品になることを信じてパッションフルーツの栽培を続けていきたいです」
 JA八重山郡青壮年部・西表支部長として島の青壮年部の人たちと地域農業の活性化に取り組んでいる福地さんは、パッションフルーツが期待の持てる作物だと信じ努力を重ねている。農家の高齢化が進み不況の波の中、サトウキビで生計を立てていくには耕作面積が広くなければ困難な現状がある。
「パッションフルーツだけでなく、バナナ・アテモヤなど栽培可能なフルーツを少しずつだけど導入したいと考えています。サトウキビと畜産しかないこの西表島が、フルーツアイランドとなるように目指して頑張っていきたいです」
 まずはパッションフルーツの生産と収入を軌道にのせることが福地さんの課題となる。島の若い農業後継者への生産の拡大・安定収入・所得の向上へつながるよう、福地さんの挑戦は始まったばかりだ。

≪滞在型の観光システム作り≫
 東部地区を訪れる観光客は年間、約20万人。仲間川や由布島という観光スポットが、多くの人々をひきつけるのである。
 仲間川は上流約5キロに渡ってマングローブが生い茂る天然保護区になっている。ボートでの遊覧やカヌーめぐりなど自然体験型の観光ができる。
 またパックツアーの中に必ず入っている由布島観光は、水牛車に揺られて由布島に渡り、また水牛車で安里屋ユンタを歌いながら帰ってくる。
 両方とも何とも言えない魅力を持った観光であり、またそこで観光の仕事に従事する人は多い。これだけ大きな観光産業は地元の人にとっての大きな雇用の場となっているのである。
「東部航路は西部と違って冬でも天候によって船が欠航することはほとんどないので毎日仕事がありますが、夏の台風のときや団体のキャンセルがあったりすると仕事がなくなり数日の収入の減というのは大きいのがありますよ」と西表島交通の翁長清助さんは話す。
 100人以上の人が観光関係の仕事についていることを考えると、島における経済効果は大きい。その反面、現在の東部地区の観光はパックツアーの団体客で、しかも日帰り観光がメインとなっている。石垣島を拠点とした観光システムがあり、地元に落ちるお金は少ないという声がある。
「団体客が日帰りで観光するというのは、受け入れ体制が整っていない現状では仕方がない。地元がその受け皿を作るというのには無理があるので、企業の誘致もしょうがないという人たちも多いですよ」
 翁長さんたち地元で観光の仕事をしている人にとって今の状況は歓迎すべきことであるが、島の将来を考えるときは「地元にお金を落とすやり方をしないといけない」と言う。
 滞在型の観光システムに変更するというとき、企業が宿泊施設などの箱を用意したとしても、それだけではお金が外に出ていくことに変わりはない。地元の人もそこに付随する特産品を作ったり、様々な観光を欲してくる多様な観光客にいろんなアプローチのできる観光のオプションを作ることも必要になってくるだろう。
「西表の自然にはいろんな顔があるのだから、観光にもいろんな顔があってもいい。民宿などでも船で新城島にいったり、西表を海から回ったり、独自の観光コースを作って特色を出したり、ホームページを作成して外にアピールしたり、地道だけど経営努力をしている人もいます。そういうことの積み重ねからしか、地元滞在型の観光、地元に利益のある観光の確立はできないのではないだろうか」
 翁長さんの言葉にあるように、地元にできること、また地元にしかできないことをもっと掘り下げてもいいのではないか。
「空港が石垣にあるから、石垣が拠点となっているだけだ」という人もいる。
 町役場が移転してきたら、石垣を中心とした船の航路も東部地区を中心としたものになる。東部地区を拠点とした竹富町の島々を観光する人たちも出てくる。状況に合わせて地元が変化していくのではなくて、今やらなければならないことがある。

≪町役場移転を活力へ≫
 町役場移転は、2005年を目標に進められているが、これからクリアにしなければならない課題は多い。
 役場移転がスムーズに進み、東部地区に移転ができたとき、大きな変化が東部地区にもたらされるだろう。
「役場移転は東部の人が待ちに待っていることだからぜひ実現させなくてはいけない。移転に伴い人の動きがあるだろうし、様々な経済効果が考えられる」
 大原で旅館を経営する大舛久弥さんなどは、役場移転に大きな期待を寄せている。
「移転対策室もできて、実現に向って動き出したという感じがします。役場が移って拠点になれば、流通の中心も西表島になり、郡外からの貨物なども大型船が白浜港に入港して、陸路で大原に運ばれ大原から各竹富町の島々に流通していく。すぐ実現することではないかもしれないけれど、役場が移転してこないとそういう絵も描けない」
 大舛さんは役場移転のその先のことを考えている。観光産業で潤っているように見える東部地区も、内実は決して楽ではない現状がある。
 農業だけで生活するのは厳しい、観光資源はあるのに地元の利益につながらない、自然を少し削ってでも開発を進めなければいけない、雇用の場を増やさないといけない、青年層のUターンを増やさなければ…。様々な課題があり、それを自らの手で解決していかなければいけない。
 農業も観光も商業も流通も生活スタイルも、これからの東部地域ではすべてが役場移転とつながっている。もちろん希望的心情がこもっているかもしれないが、役場移転をすることですべてをプラスにつなげたい、つなげていこうという想いを東部地区の人々はもっている。
 来年、大富地区は入植50周年の節目の年を迎える。大富集落は、琉球政府の第一次計画移民として、1952年に58戸が入植してできた開拓集落である。先人たちがこの自然と大地に希望を持って開拓の道を進んだ姿を思い起こし、新世紀の東部開拓を進めるときである。

やいま編集部

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