「見えたぞ…」 かじき(旗魚)漁のクライマックスシーンは、見張りの声で幕をあける。
突き手は、向かって右が嵩西精孝さん、左は、米城勝さん(故人)である。昭和三九(一九六四)年七月のある日、毎日新聞の一木修記者、および石田寛一カメラマンは突き船に同乗した。東京オリンピックの年である。乗組員は五人、いずれも四年連続漁獲量一位の猛者たちである。
漁場は島の南方三十キロ。南の風だったが、十メートル前後と強く、うねりも高い。
「船はかじきを追って急旋回。突き台の二人は台のベルトに足を突っかけただけの危険な姿勢。見ていてもひやひやする。船が山のような波を乗り切るたびに、二人の体は数十メートルも上下する。海面にかじきの姿が黒く見えた。モリが飛ぶ。かじきはモリの先のツメを体にくい込ませたまま、死にものぐるいで逃げまどう。船がぐいと引っ張られる。ものすごい力だ。第二、第三のモリが飛ぶ」。
突き棒による「かじき」漁をはじめたのは仲島石戸能であったといわれる。
一九三五(昭和一〇)年頃のことで、これが八重山における突き棒漁業の端緒となった。そのころのやり方といえば、漁船のへさきに立って激浪にふり落とされかねない突き手の両足を、双方から人がつかみ、固定してかじきを突いたのだった。
その後、突き船の導入、機械化の推進という変遷を経て、ここに紹介したような「かじき」漁の隆盛を迎えた。
もっとも、そんな集団化、機械化の流れの中で、単独でサバニを操り、巨大なカジキと格闘する映画「老人と海」の主人公・糸数繁さんに代表されるような海人の群像もいた。いま、かじき漁を行なうのは、このような一人の海人たちで、与那国のかじき漁の水揚げ沖縄一を支えているのである。