神山家を訪ねた気分の良い一日のこと

神山家を訪ねた気分の良い一日のこと

旧正元旦に初願いと綱引き行事を見て、あれからひと月も置かずにもう一度黒島・東筋を訪ねたのは、北神山御嶽の歴史やツカサ、ヤマシンカ(氏子)たちのことを詳しく知りたいという目的もあったが、もうひとつ、カンマンガーの神山忠蔵さん(83)に会いたいと思ったからだ。
 北神山御嶽での正月初願い。神役・忠蔵さんの振舞いはゆったりとして厳粛なものであった。忠蔵さんは御嶽の杜の深遠を体現しているように感じられた。静かで穏やかで、しかしその内側に、時をも呑み込んでしまう神の不動の意志があるような、そんな感じがしたのである。
 神山忠蔵さん宅には東舟道博さん(70)が待っていた。御嶽の歴史に詳しい東舟道さんを忠蔵さんが石垣から呼び寄せてくれていた。恐縮した。
 東舟道さんによると、北神山御嶽の由来は次のようであるらしい。
 昔、船道家に兄カラマ加那、弟カラジボウ、妹キラチマーチの3人の兄妹がいた。兄弟は公用船の船員となり、村民から尊敬されていた。
 さらにその子孫に船道樽という航海王がいた。八重山最高の公用船の船員で八重山・沖縄間を37回も航海して無事帰還したという稀代の天才。頭の信頼も厚かった。樽の妹は神高い人で、航海のたびに東海岸の山中で兄の無事帰還を祈り、果たしてその通りになったのでその場所を霊験あらたかな神のおわす所として拝殿を創設し、北神山御嶽(ニシカメマワン)と称したという。
 現在この御嶽のヤマシンカは3兄妹の子孫で構成され、兄カラマ加那の系統の船道家、弟カラジボウの系統の神山家、妹キラチマーチ系統の東舟道家とそれぞれの分家からなる。
 「ウチは誇りに思ってるよ。だから子供たちには、どこに行っても本籍だけは黒島に残して置けと言ってるさ」と東舟道さんは言った。
 忠蔵さんの妻トミさん(80)は北神山御嶽のツカサである。ツカサは代々上の3家から生まれる。
 「病気ばかりでね。ユタに行ったら、あんたは今暗闇にいるね、戸を開けたら花が咲くよ、と言われた。ツカサになったのが三五、六の頃だからもう45年はなるさ。ずっと元気」
 ツカサになって一ヶ月後、当時首里高校定時制に在学中の長男・光祐さんが弁論大会で日本一になった。黒島小中学校の先生がラジオ片手に知らせに駆けつけた。村中が大騒ぎになった。トミさんは乳飲み子を背負って沖縄に飛んだ。光祐さんといっしょにパレードに臨んだ。
 「涙が落ちたさあ」
 トミさんにはある感慨があった。
 中学を卒業したばかりの光祐さんを貝や海人草をとる南方行きの漁船に乗せた。ある夜夢を見た。光祐さんが島に取り残された夢だ。義父も同じ夢を見たという。「心配で心配で」。石垣の港に船が着くと聞いて迎えに行った。光祐さんが船から下りてきて一安心。聞くと、貝取りに夢中になっている間に取り残されて、光祐さんのいないことに気がついた船が戻ってくるまで砂の盛り上がったところで待っていたのだと言う。
 「はあもう、髪の毛は真っ赤でよ、もう二度と船に乗せなかったよ」
 それからすぐに次男・光永さんが琉大に合格して光祐さんは沖縄に出た。「入学まであと四ヶ月あるからと、光祐をまた沖縄に働きに出してさ……」。
 そんなことがあったから、トミさんは光祐さんの日本一が最高に嬉しかった。
 この話には後日談がある。光祐さんが定時制を卒業して東京の大学に進学すると、今度は弟の光永さんが仕送りして兄を支援したのである。
 「あの頃どんなに辛かったから。アーサを取ってそれが収入だからよ」
 忠蔵・トミ夫妻は2男7女を授かった。忠蔵さんは3期12年町議を勤めたが、島に住んで9人の子を育てるのは大変だった。多くの人が島を出た。島の中学を出ると子供たちも皆島を出た。
 私が神山家を訪ねた日、六女のむつみさん(41)が6年ぶりに千葉から帰省していた。途中から彼女も加わって話に花が咲いた。水汲み、薪拾い、牛の世話、アーサ取りと子供たちも貴重な労働力であったこと。豊年祭のウーニ選出は民主的な投票で行われたこと。9月祝は御嶽で盛大に行われ、そのご馳走次いでにとその翌日に学校の運動会が行われたこと。昔は御嶽に70~80人が集まり御神酒や餅が振舞われて賑やかだったが、今では人が減り大きな行事などは郷友会の協力なしにはできなくなったこと。水の苦労と水道開通の日の喜び。方言が失われつつあること。等など…
 「大事にしなきゃいけないと思うのは、アヨウ、ジラバなどの歌ですね」と忠蔵さんが言い、「いいですか?」と断ってトミさんと掛け合いで「タビバイアユ」と「ハジバタアユ」という二つのアヨウを唄ってくれた。タビバイアユは旅に出るときの嘉利吉の歌、ハジバタアユは船作りから進水までを唄った歌で、どちらも一門の歌のようにして御嶽や何かの集まりのときに唄われるものであるらしい。
 素朴なゆったりした調子のアヨウを聞きながら、私は旧正元旦の北神山御嶽を思い出していた。
 とても天気のいい日だった。鳥居から拝殿に続く白砂に木漏れ日が落ちていた。オオゴマダラが舞い、ピーサーの声が遠く近く聞こえていた。ツカサ2人とカンマンガー、男3人女5人のヤマシンカ。彼らを包み込んだ拝殿を遠くから眺めていると、何やら宝のいっぱい詰まった玉手箱のように思えて羨ましかった  
 「故郷というとお父うとお母あの歌と踊りですね。学校から何かの賞状を貰ってくるでしょ、そしたら母がシタイヒャーヒャーと踊り出して体中で喜んでくれるんです。……15年間の島での生活が今でも私に豊かさを与えてくれています」 ふたりが唄い終えるとむつみさんがそう言った。
 旧正元旦、偶然に道で出会った光祐さんに「うちの御嶽でよかったら」と案内されてお邪魔した北神山御嶽で、ふと、人は何を拠り所にして生きていくのだろう、家族は? 集団は? などと大仰に考えて神山家を訪ねたのだが、むつみさんの言葉で喉に引っかかった小骨が取れたような気がした。
 光祐さんはいずれ島に帰ってくるでしょうかね? 最後に聞いた。
 「光祐はお宮の跡継ぎだから帰って来んといかんはずよ」と東舟道さんは言い、「帰って来るんじゃない」とトミさんが言った。
 「最近、孫が迷っておるらしいですよ。自分がそうなっておることが頭にこびりついて…、でも何か行事のときには南の方に向かって手を合わすらしいです」 忠蔵さんが言った。
 帰りにトミさんが「今年のものだから」とアーサをくれた。私は有り難くいただいて神山家を後にした。島の風がゆったりとしていてとても良い気持ちだった。

南野 晄爾

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