桜が咲き、うぐいすが鳴き、デイゴ、つつじ、ゆり、そしてサニンが咲いて、福木の花が道を染めはじめる、こんなふうに季節を追っていると、いつの間にか子どもたちの遠足の季節になっている。
都会では、バスに乗って由緒ある地域をバスガイドさんに説明されながら見学に行くのだろうが、ここ石垣では、本来の足で歩く遠足がまだ残っている。
そこで、子どもたちの楽しみは、遠足に行く場所よりも、明日の「お弁当」にあるようだ。
三百円のお菓子、水筒に入れるジュース、お弁当のおかずは野菜のいらぎもの、卵焼き、にわとりの足、ソーセージ、そしておむすび、漬物。だいたい我が家のメニューはこんなもので、お気に入りのプラスチック製の「弁当箱」に箸箱、それを包むキャラクター柄の布巾が前の日の夜、台所に用意されて、明日の朝を待つ。
今の子どもたちは、「お弁当」の中身を見られないように隠れて食べたり、惨めな思いをしたというようなことはあまりないようであるし、友だちからも聞かないようである。
「買弁」も豊富な今日、ある意味で貧富の差がないことを喜び、平均化されたことを喜びつつも、「弁当」にまつわる悲喜こもごもの思いを引きずっている昭和三十年代までの人たちは、個人の経験としてだけではなく、その時代がそうだったのだと、語り継いでいくことが責務であろうと思う。
≪戦後の「弁当」≫
と、大上段に構えたが、「弁当」の思い出を聞くと、今だから話せることが多く、語れない部分も多いようだ。
運動会の日が近づいても入院している父に付き添っている母は帰ってこない。
戦後のことだがその頃は、石垣では病院がかなわず、船旅での那覇である。
3人の兄弟は、運動会だといってごちそうを並べ一族郎党、莚を敷いて楽しそうに食べている人々の中を、そっと家に帰り泣いていたという。
石垣に帰ってから、このことを聞かされた母は、子ども以上身につまされ、それ以降は、どんなことがあっても人の家より豪華に、残ってもいいからたくさん作ってるといっていた。
こんな話もある。
村の子どもたちの遠足の時期にちょうどおなかが大きかった主婦がいた。
その頃妊娠すると「シラ・ハンマイ」といって産褥中の食事として、白米を1斗以上準備しておくことが習わしだった。
明日、遠足という前の晩に近所の母親が、「米を貸して下さい」と来た。
無いとは、言えない。
誰もが、妊婦の家には「シラ・ハンマイ」があることは、分かっている。
子どもに白米のおむすびの弁当を持たせてやりたい。
子どもが白米のおむすびじゃないと嫌だと泣いている。
と言われ貸したものの、米は、かえってこなかった。
それどころか人がいいものだから、なんだ、かんだ、産まれるまでには返すからと言われて貸したものの、かえってこないで、子どもが産まれた後、結局自分が難儀をしたと、笑いながら話はしていたもの涙をふいていた。
伊原間中学校の「北部開拓・生活かるた」に『○へ 弁当が作れず悲しむ 父と母』とある。この経験をした人は、多かったのだろう。
こんな話もあった。
その頃の遠足のおかずは「卵焼き」が一番だった。
遠足が近づくにつれ、にわとりの鳴き声が気になる。
にわとりが鳴くと、縁の下までもぐりこんで卵をさがして取っておいた。
それなのに、食べ物が何もない頃だから、兄弟が知らんふりして食べてしまう。
泣くに泣けず、次に産むまで待つ。
ところが明日遠足だというのに、このにわとりは、産んでくれない。
しゃくにさわって、にわとりのチビ(尻)をけとばして「早く産め!」と怒った。
今思い出してみると、母は魚の身をすりつぶして、芭蕉の葉にきれいにのせ、蒸してかまぼこも作ってくれた。
良くやってくれたと、もののない時代にしてくれた母親の愛情に感謝する人もいる。
≪「弁当箱」≫
宮城文著『今は昔の八重山の弁当』(南島研究・第二十号)に、木製の「弁当箱」二種類が紹介されている。
ひとつは主に、蔵元時代、公職についている者の弁当箱で、ご飯、汁、お菜いれ、二個の計四つの容器を上下段に分けていれる縦十四センチ、横三十センチ、高さ二十五センチの弁当箱。
もうひとつは明治末期から大正時代のもので、縦十一センチ、横十五センチ、高さ十六センチの小型の弁当箱で、中は、三段重ねになっている。
先の役人用(士族用)とは違い、後の小型の「弁当箱」は戦後まで長く農民の間でも多方面で使われた。
川平村では、結願祭の夜ごもりのとき、母親に持っていくのはこの「弁当箱」であった。
また、村の行事のとき、「一品携帯」のおりにも、この小さく提げる手がついた「弁当箱」を用いたそうだ。
鳩間島では、祭はもちろん「人目」があるところに弁当を持っていくときは、重箱と同様、この「弁当箱」を使ったという。
材木は「キャーンギ」(いぬまき)あるいは、センダンで、木片を少しずつ集めておき自分で作った人もいるという。
農作業に行くときとはちがい、村の人が集まる「ハレ」の場所では、毅然としてこの木製の「弁当箱」を持っていったそうだ。
中身より格式が重んじられ、村人としての誇りを支えてくれた「弁当箱」であった。
今は、「一品携帯」もうすれ、オードブルになり、食べ物に関しては、貧富の差も感じられない。
木製の「弁当箱」を持つというかつての誇りは、今、弁当が作れず泣いた父や母の思い出とともに、島の景色の中に消えていく。