新 哲次

「自分の生き様や格闘の年月を形としてまとめました」

 
 人は2つのタイプに分かれるのだと思っていた。話す人と書く人。まるで静と動のように相反するのだと信じて疑わなかった。ところがその単純な考えは一冊の本により改めざるを得なくなった。『新哲次ノート』と題された本の著者は、あざみ屋(みんさー工芸館)会長で八重山ゲンキ乳業会長の、新哲次さんその人である。もちろん人によって異なるだろうが、新さんといえば豪快で飄々(ひょうひょう)、ユーモア抜群で話し上手な印象が強い。創設者だけあってさすが強烈なカリスマといったところ。ところがこの本の中には、普段の顔とはまた違う繊細でナイーブな新さんがいて、すっかり驚かされてしまったのである。
 
「昔から大学ノートに日記やメモを書きためていたのが20冊ほどになってね。誰にも見せるつもりはなかったが、この歳になって、子や孫に自分の生き様や格闘の年月を形として残そうかと、ようやくまとめました」というように、確かにここでは様々な肩書きを脱いで裸になっている。老いへの焦燥感、周囲への優しさ、人生とは、人として…。表に見せる光と内向する陰が混じり合ってできる、豊かな奥深さを見せられた気がした。
 

 新さんは昭和31年、竹富町役場に勤務しながら「アミノ酸ヤクトール」という乳酸菌飲料の販売を始めた。毎朝自ら製造しては学生配達員が自転車で配って回った。事業は大きく当り、「そのうち本業より忙しくなって役場を退職した」という。その後はゲンキヤクトール、さらにゲンキ乳業と改め、工場を拡大、人気商品「クール」も生まれた。
 
 そんな多忙な中でも、伴侶である絹枝さんの織物への情熱を理解し、支えてきたのも新さんを語る上で欠かせない。
 
「せっかく流行っていた洋品店をやめてまで下火だった機織りを始めるというので、心配して随分ケンカもしましたが、2~3ヶ月かけて説得されました」。折しも時は本土復帰前夜。「本土からの大波小波が押し寄せてくるぞ、と。こちらから一方通行でお金が出ていくだけではだめだと思い、やるからには島で産業を興そうと、賛成しました」。
 
 成功の秘訣は、身を粉にしての働きぶりとそれを支えた反骨精神、人脈、そして常に人の一歩先を読む眼力にあった。その労は報われ、今やみんさー織は名実共に地域の産業へと成長を遂げた。
 

八重山人の肖像
写真:今村 光男 文:石盛 こずえ
第一回の星美里(現:夏川りみ)さんをはじめとする105名の「ヤイマピトゥ」を紹介。さまざまな分野で活躍する“八重山人”の考え方や生き方を通して“八重山”の姿を見ることができる。

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