追悼特集「金城朝夫と八重山」

[座談会]金城朝夫(友寄英正)の視点と足跡
参加者(発言順):上地義男、大田静男、高嶺善伸、砂川哲雄

金城朝夫の原点

―今年(2007年)の5月1日に友寄さんが亡くなってもう4か月がたちました。友寄さんがこの八重山や私たちに与えたインパクトは大きなものがありました。今日は友寄さんと親しかったみなさんに集まっていただいて、友寄さんの足跡をふり返り、また友寄さんが八重山をどんなふうに見ていて、八重山の今後についてどう考えていたのか、お話しいただければと思います。まず、それぞれの、友寄体験をざっと話していただけますか。

上地
 その前に、友寄さんの足跡を私たちは残してもらいたい。次の時代にもきちんと伝えてほしいと思うので、この企画に大変感謝したいと思います。…新聞の追悼文にも書いたんですけれども、東京から帰りまして、八重山毎日新聞の記者になって、そのときに僕の目の前にドカーンとあったのは、土地買い占め問題なんです。そのころ友寄さんが帰ってきているということを大田さんから聞いた。聞いたら「すごい人」なんだと。それから亡くなるまで30年あまり友寄さんとかかわってきました。友寄さんは農民組合の書記長、RBCの記者、石垣ケーブルテレビの記者、そしてNHKの農林水産通信員、いろいろやってきたんですよ。その間、シマの土地を守る運動とか、それから新空港の問題もあるし、台湾に行ってマンゴーを導入した話、あるいはシマおこし研修会とか…。尖閣諸島に行ったときなど、あのころまず八重山のスケールでは考えられなかったけど、あの人はすぐ漁船を借りて、島の記者みんなに呼び掛けて、そして現場へ行って、武装した中国漁船なんかに銃口を突き付けられながらも果敢にカメラを向けて取材したわけです。また、やしの実大学というのが出てきたんですけど、笹川財団から南太平洋の記者と交流しないかという話があって、トンガとかパプアニューギニアとかサモアとかフィジー、そういった南太平洋の国々との交流をやってきたんです。私たち辺境の八重山にはどうしても那覇や東京への北志向というのがあったんですけど、やしの実大学も友寄さんが窓口になった。そういう友寄さんの活動の原点というのは東京にあったと思うんですが、そこらへんは大田さんがおそらくよく知っていると思います。

大田
 友寄さんは1938年生まれですから僕より10歳年上なんですよね。このあいだ、開南にはじめて喫茶店ができたというので行ったんですが、友寄英正という人はそこ(出生地)から山の彼方をずっと見つめていた人ではないかという気がしたんです。彼は石中を出て、八重高、そして島を出て東洋大学に行くんですが、大中に行ってほしいというのが当時の親せきたちの思いだったらしいんですけど、石中に行ったというのは、やっぱり友寄さんは中心地というか、そこでものを見たいというのがあったんじゃないか。東洋大学在学中に東京沖縄学生会事務局長などをしたようですが、僕はあまりそういうところは分からないんです。狛江の南灯寮(沖縄県学生寮)にいて、共産党の宮良作さんを狛江市の市会議員に当選させるために活動したと聞きましたが、たぶんそのころは奮闘していたんじゃないかという気がするんです。その後大学を卒業して、帆足計代議士の私設秘書をやる。帆足代議士というのは沖縄問題に積極的に取り組んでいて、(石垣にも来たことがあるんです。私も一度お会いしたことがあるんですけれども)、彼は中国に、国交が回復していない中でソ連から中国に入っていって、そして貿易協定を結んだ。ソ連とも大変近いしヨーロッパ映画祭とかいろんな文化関係にも積極的な人で、やっぱり金城朝夫の視点というものを培ったのは帆足さんの私設秘書だったからかなと思ったりします。ソ連とか中国とか、広い視野をもってものごとを見るというのは、やはりその影響が強いという気がしました。それから、そのころ沖縄青年委員会というのがあって、沖縄復帰や返還が騒がれているなかで、沖縄の青年たちのなかで(その中身について)おかしいじゃないかというのがあった。ところがほかの組織に行くこともできないという中でできてきた組織なんですけれども、友寄さんは積極的にそういうのにかかわっていて、沖縄の青年たちをまとめていくという活動をされていました。本土就職の問題に取り組んだり、エイサーをやったりしていて、鶴見とかあっちこっちでやっていたんですけれども、そのころ友寄さんは、私が知ったときはもう福生にいて、ものを書いたり、金がなくなったら川崎とかに行って車の解体のアルバイトをやったりしながら文筆業とか運動にかかわっていくという感じだったと思うんです。沖縄から反復帰論とかが出てきたが、友寄さんはそのころ非国民になろうというのを盛んに強調していて、そこが大変私にも魅力的だったわけです。八重山出身者だけで「南風(パイカジ)」という雑誌をつくって、沖縄のほうから風を吹かせるんだということで名前も友寄さんが名付けて、そして沖縄の事実とか、反ヤマトの意識というか、私たちに自立の精神というのを教えてくれた。友寄さんはまた沖縄返還国会で沖縄青年同盟が抗議して起こした爆竹事件の作戦を練った人でもある。そして方言で裁判を戦うという作戦も、友寄さんが編み出した。これらを考えると、反ヤマト的なものから沖縄の自立に行き着くわけです。やがて運動を離れ八重山に帰ってきて静かにパインをつくって暮らすというときに、八重山の土地が本土資本に買い占められたりしていて、ゴルフ場の計画がいくつか持ち上がった。それを市が積極的に推進した。そんなのは大変じゃないかということで、毎日酒を飲んで議論をしていたんですけど、友寄さんが帰ってきているというので会いに行ったわけ。そうしたら友寄さん、最初は「しばらくは静かにしていたい」と言っていたんだけど、これでいいのかという話をしたら、それから猛烈にダッシュして…。奥さんや家族のことを今考えると「悪いことしたなあ」と(笑)。状況が沈黙を許さない。後に彼が関わるシマおこし運動とか、すべての思想は沖縄返還のころの沖縄自立論、そこに行き着くことだと思う。今の教科書問題みたいなものも、けっきょく事実を隠していく、だから沖縄の歴史というのをきちんと教えないといけないんじゃないかと1972年の復帰のころから友寄さんはずっと言っていたわけです。友寄さんの視野というのは広く内外に向いていて、とらえられない部分があったりするんですけど、やはりすごい先輩だった。今また三回目ぐらいかの八重山の土地買い占めとかがおこって危機的な状況にあるけど、友寄さんがのこした島の自立とか方向性を、きちんと評価するものは評価して、継承していかないといけないんじゃないかと思います。

土地闘争のころ

高嶺
 金城朝夫さん…、われわれは友寄英正さんのほうが馴染みがあるんですが、友寄さんには反骨精神というのを教えられましたね。本土と沖縄、沖縄の中でも沖縄本島と離島、離島の中でも市街地と裏地区、そういう格差というものについて、いつも弱い立場から何ができるか考えて行動していたので感銘を受けました。特に私は田舎に住んでいるわけですから、田舎で何ができるかという戦術をいろいろ教えてくれた。金城朝夫のペンネームで出した『八重山開拓移民』。あれは戦後の混乱の中で米軍においやられて土地を失った人たちが琉球政府の計画移民で来たんだけども、あのジャングルを切り開いて大変苦労した。そのことを世に伝えたい、本当に時代の犠牲者だということを、歩いて克明に記録に残した。それは、こういうことがあったことを忘れちゃいけない、そしてその地域に今なにが起きているのかという問題提起につながる。かつて開墾されて農地として生かされていた土地が、復帰前後の台風、干ばつ、それから農業を取り巻く厳しい状況の中で農家が借金地獄に追い詰められ買い占められていった。農協は近代化ということで資金を貸し付ける、農家は機械化貧乏で首が回らなくなる。そしてどうなったかというと、債権の回収のために農協自体がブローカーの手先になって土地を売らせるというような仕組みができた。そうして買い占められた土地というのが、移住移民地区、農村地区で多いんです。それを後で調べてみると2万2千ヘクタールのうち、10~20%ぐらいが買い占められた土地だったんです。そのときに私たち川平のほうでは、ほとんど中堅の方々は離農して本土のほうに就職で行っているんです。祭りもほとんどできないような状況まで過疎化が進んだんです。青年会も1人、2人ぐらいになって、「どうしようか」というときに、「企業を入れて企業に働いたほうがいい、もう農業では食っていけない」ということになるわけです。われわれがちょうどそのころUターンしてきたんです。そのときにまず目の当たりにしたのが、祭りをするにしても若者がいない、担い手はすでに出稼ぎに行っている、農地はほとんど本土の企業に買い占められて島の将来は企業に委ねられているという状況だったんです。Uターンしてきた仲間同士で「このままでいいのか」というような話が出て、自分たちでやっぱり祭りをもう一回盛り返そう、と。そのためには根底にある農業を再構築しなきゃいかん。そのためにはその前提となる農地をもう一回買い戻す必要があるんじゃないかという運動にだんだん広がったんです。そのときに青年だけではどうしようもないので公民館を動かそうということで、公民館に買い戻し運動の働き掛けをする。そうすると、地域の方々は、苦しいときに土地を買ってもらってそのお金で借金を返せたし生活をやってこれて、今から土地をまた買い戻すというのは理不尽だと、尻込みする方もいたんですけども、若い者がこれからどういうふうに村とのかかわりを持つかということについて耳を傾けてもらう機会にしようということで運動がはじまったんですね。そのときにアンケート調査をしたり、いろんな要望を聞きながら戦略を立てていくんだけど、「若者の作戦に協力してもいいが、人の手に渡った土地をどのように買い戻すのか、本当にできるのか」と言われたんです。それから、もしも返してもらったとしても本当に生活をするための農業がまたできるのかという不安をみんな持っていたんです。われわれに任せろ、必ず土地の買い戻しができるような運動を広げていくんだということを大見栄を切って、公民館に総会決議をさせて、われわれは運動を展開していった。そして具体的にどのように土地の買い戻しをするかというときに出会ったのが友寄英正さんなんです。あのころ、われわれはマスコミしか頼れなかったものですから、八重山毎日新聞の上地さんとか、琉球新報、タイムス、そういったマスコミの方々とたむろしながら田舎での運動をどうやれば成功に導けるか、どんなことをすればいいのかということをいろいろ協力をしながら一緒に運動をして、勇気付けられました。友寄さんは、まず農政を動かして、農業振興整備に関する法律の農用地線引きで企業が買い占めた土地を農用地として線引きすれば農業以外で使えない、従ってリゾート開発を歯止めすることができるんだということを言いました。友寄さんから教えてもらったんです。それで企業が買い占めた土地を農用地にすることによって、まずは歯止めをしよう、それから農地を買い戻そうという運動の仕組みをつくったんです。そのときに地域からの要請を行政に訴えるために、われわれは土地を守る会を結成して、公民館と一緒になって何度も行政にお願いして、県にも要請に行った。企業の土地を本当に農用地に線引きすることができるのかどうか、行政はそこまで権限があるのか、地主からもし訴訟をおこされたら裁判で戦うのかどうか、そんなところまで相当議論したけど、友寄さんは「これは行政行為だから、行政が農振の網をかぶせば何も問題ない、君たちには何も罪はない」と言ったんです。これは成功しましたね。買い占められた土地はほとんどが農用地として農振の網をかぶせることができた。これが、運動が成功に導かれた大きな要因だったんじゃないかと私は思いますね。そういう戦略を立てて行政を動かした指導者としての友寄英正さん、地域としては非常に印象に残っています。それから、マスコミ対策も、例えば沖縄本島に行って要請するときには、効果的にするために、記者会見の時間にしても、朝に会見をやると夕刊にしか載らないから午後一番にやろうとか、県庁の記者クラブを手配して、そこでオール沖縄の問題だと、ヤマト資本が買い占めに来たと、そこでわれわれは土地を守るんだということを訴えてマスコミでバックアップしてもらおうという戦術を立てたのも友寄さんだった。民主主義というのは三権分立で成り立っているけれども、その3つの拠点以外にやっぱり教育、ジャーナリズム、それと地域力、その6つの拠点がお互いに相乗作用をすることによって民主主義を確立できるんだと、だからジャーナリズムの力を借りないといけないというのを友寄さんに教えられたんです。だからマスコミの力を徹底的に借りた。そしてこの地域運動が浸透した。今では、私の地元(川平)では、もうすでに予定の土地を買い戻して、そこは一定の土地改良なり圃場整備をして、20ヘクタールという土地は地元の農地を若者たちが耕作して、農業生産法人もつくって実際に活用しています。農業の担い手が村を背負い、祭りがもっと活発になってきました。先日落成祝いをやったんですけども、そのときに土地を守る会の活動の話になって、一番話題になったのは友寄さんのことでした。地域の自立のために奮起を促すエネルギーを入れてくれた人でした。

溢れていた若者のエネルギー

―確認しておきたいんですが、「シマおこし」という言葉は高嶺さんたちの運動のころにはあったのですか。

上地
 復帰直後に、農業振興地域というのが出てきたわけ。どこの山林を農振地にするとか、どこの土地は開発するとか、そういう問題が起きて、そのときに元名蔵、明石、川平など7カ所ぐらいにゴルフ場の計画がもちあがった。それで僕たちは「こんなにゴルフ場をつくっていいのか」と、友寄さんなんかとそういう話になって、川平にも、明石にも働き掛けたわけ。市長を呼んでシンポジウムを開いたりした。その当時はシマおこしじゃなくて農振問題と言っていた。そんななかで、川平の青年会の土地を守ろうという運動がでてきた。そういう農振問題の戦いの延長線上に清成忠男さんという法政大学の先生が来た。あれは南西開発センターだったか、そこがお金を出して、西表でシマおこし交流研修会というのをやったわけ。3~4カ年ぐらい。そのときにはじめてシマおこしという言葉が出てきて、その研修会には湯布院の方々が参加したり、また十勝ワインの人とかいろいろな人が来て、それからシマおこしという言葉がどんどん広がっていった。

大田
 友寄さんは、とにかく農振の網をかぶせろ、と。いったん乱開発を抑える。農振地に企業は施設もつくれないわけですから、そうなるとUターンしてきた農業青年たちに元の土地を取り戻すことができるんじゃないかということです。土地を買い戻すことは青年たちには難しいから、まず農業委員会が企業から買い上げるという仕組みづくりなどを友寄さんは一生懸命やっていた。川平については、ところが農業委員会と内原市長とが対立したわけです。農業委員会は農振地域に含めるべきだとしたけど、市当局は除外すべきだと。開発をさせたいわけです。

上地
 当時の農業委員会の会長は大盛文雄さん。だから友寄さんは大盛文雄さんが亡くなったとき、新聞に追悼文も書いた。あの人も一生懸命農家の立場になって農地を守る運動をやった。あのころ農振問題というのが新聞に出ない日はなかった。この運動があって、そうしている間にバブルが収まって、企業が開発できないから放置して、それから農業委員会がその土地を買い戻していった。石垣市では約2000町歩、竹富町で約800町歩が売られていたけど、竹富町はほとんど戻ってきたんじゃないか。石垣市も1200町歩くらいは買い戻しているはず。

―あの時代はなぜそういうことができたんですか。

上地
 正直言うとね、友寄さんは開発業者から脅されたりもしたわけ。なぜ自分たちの邪魔をするか、と。家に暴力団まがいの人が押しかけてきたこともある。でも、それでもあの人は頑張った。川平なんかも企業側から脅しがあって、土地を守る会から夜にも電話が来るわけ。夜中でも集まって話し合って…。そういう細かい話だったらいっぱいある。なぜあの時期にそういうことができたのか考えてみると、復帰運動の勢いがあったと思いますね。青年たちは本土を見て来ているから、本土と自分のシマの比較対照が明確にできたし、復帰運動の経験がエネルギーになったんだろうね。帰ってみると土地は買い占められて村や農地は荒廃している、このシマはどうなるのか。ちょうど今、似たような状況があるんだけど。だけど今、本当につらいものがある。友寄さんもいないし、今は運動体がなかなかつくりづらい。

―あのころは、Uターンしてきた若者、その情熱に突き動かされた大人たち、マスコミ、それに、農業委員会までも動いた…。

上地
 そればかりじゃない。これは大田さんがいちばん専門だったけど、革新共闘会議というのがあった。大浜用立さんという人が議長で、みんなで用立さんの家にまで押しかけて行って、「あんた方、革新っていうけど、おかしくないか? この市長、首替えれ」とか談判やったりした(笑)。僕なんかは不平不満を言うだけだけど、そんなとき理論武装をやるのは友寄さん。友寄さんは本土でもまれているし、理論武装を平気でできるわけ。これは運動をやっていく中で非常に力になった。だから政党などもすべて巻き込んでね。革新共闘会議はついに市長が間違っていると言ったからね。

マイノリティと助っ人の論理

―そのころ砂川さんは図書館におられたんですね。友寄さんとの出会いを…。

砂川
 金城朝夫という名前は知ってたんです。友寄さんというのは名前もエイセイなのかエイショウなのか読み方も分からなかった。しかし、図書館に居て、2人だけ、初対面で分かった人がいました。谷川健一と金城朝夫。金城朝夫に関していえば、『沖縄処分』(三一書房)という本を読んでいたんです。石垣出身にも激しい人がいるなと。当時僕は新川明や川満信一などの反復帰論にだいぶ影響を受けていましたから金城朝夫にも興味があった。郷土資料コーナーを行ったり来たりしている人がいて、そのうち「あれ、金城朝夫じゃないかな」と思っているうちに、「砂川さんですか」と。そのとき彼は「金城です」と名乗ったんですけども、そのときにはじめて会って、それから長い付き合いですけれども、3名の皆さんの付き合いのようにそんなに深くなくて、もっぱら図書館に来て中央の思想家とか、そういう人たちの話をするというのがほとんどでした。金城朝夫とちょっと考えが違うところもあって、それでもお互いに本音で話しながらやっていきましょうと。彼はもちろんだ、と。そういうかたちの付き合いの中で、新空港の問題を共にやっていくことになった。僕は、金城朝夫を一番好きだったのは、彼がいつも助っ人の論理を展開したことです。そしてマイノリティ。この2つが彼の考え方、行動を決定づけたんだと思うんですよね。もちろん助っ人の論理というのは、黒澤明の『七人の侍』で、農民を守るために七人の侍が戦うわけですけれども、主役は農民なわけです。目立たないかたちで農民を救う。ところがどうも八重山に来るヤマトからの人たちは頭はいいけれども目立ちたがり、自分勝手が多い。友寄さんにはそれに対する不満がずいぶんあったと思うんです。マイノリティについて言えば、少数派という意味よりもむしろマイノリティを突き抜けて弱者の側に立つということだったと思います。久しぶりに彼の書いたものを読み直したんですけども、大きなことはいいことかといつも彼は問うていますね。そしてびっくりするのが、60年代後半から復帰後の『新沖縄文学』とか『青い海』とかに書いていますけれども、ほとんど現在のことを話しているような文章なんです。若干状況は違いますけれども、本質的には何も変わっていない。あのとき金城朝夫が書いたことが全部そのまま現在にある。ある意味では何も八重山の状況は変わっていないじゃないかと思える。そういう中で権力にたいしてもキチンとものの言える友寄さんという大変惜しい人物をなくしたと思っています。

―砂川さんの話のなかに新石垣空港問題の話が出ましたが、友寄さんもこれにかかわってきました。

上地
 新空港問題も農振問題とシマを守る運動の流れの中で出てきた。白保に新空港をつくるのはおかしいという話になって、迎里さんたちが中心になって、それに白保出身の琉大の米盛先生たち、それから全国に反対運動が広がった。友寄さんの流儀というのは島でとどまらないんだ。大学の先生とか、住民運動家、みんなに声を掛けて集める。だからこの前亡くなったベ平連の小田実なんかもこっちに来て、そういう運動の応援をするわけ。そうすることでみんな元気が出る。友寄さんはそういう人脈がいろいろある人で、あの人がいろいろ連れて回るから、その中で白保の反対運動がどんどん広がっていった。友寄さんがやっていたことにはみんな一つの流れがあって、沖縄の自立とか主張とか、弱者の論理というようなものが根底にあって、新石垣空港問題もそういう流れのなかにあった。八重山に帰ってきて八重山地区農民組合の事務局長を5期やった。パインやキビの価格闘争も大事なポイントだったんだけど、農民組合での友寄さんの一番大きい仕事は、台風災害、干ばつとか、農家は毎年被害に遭うわけ、そのための自作農維持資金という融資制度があった。それを友寄さんが融資額の引き上げ枠を拡大してもらうために八重山支庁とか、県に要請行動もしたんです。だから農民組合というのは単に農作物の価格の引き上げとか、そういうものだけじゃなくて、農家の生活の基盤を支えるための資金の問題とかにも友寄さんは一生懸命頑張っていた。それから、農村の花嫁問題。出会いをつくったり、手作り結婚式をやったり、街に負けないように農村の制服をつくってカッコよく見せないといかんとか、とにかく農業と農村にこだわって、いろいろこだわりを持っていた人だった。

―土地の問題と空港の問題は、観光客が増え移住者が増えさまざまな問題が起きている現状のなかで、今後も考えていかないといけない問題だと思いますが、そのときにマイノリティ、主体性などのこともあわせて考える必要があると思いますが、砂川さんいかがですか。

砂川
 マイノリティといってもどの立場から見るのか、例えば1979年に空港問題が始まって、その当時いわれていたのが、八重山の発展のためには白保の犠牲もやむを得ない、大の虫を生かすためには小の虫は致し方ないと、そういうかたちの論理が行政当局にも一般にも雰囲気としてあったわけです。当時は白保は明らかにマイノリティであると同時に弱者でもあったわけです。そういう中でたぶん金城朝夫さんも彼の信念からすれば捨てておけなかったと思うんです。ところがマイノリティという場合に、必ずしもマイノリティが弱いとは限らないわけです。現在、自然保護団体の人たちのなかには、この空港問題は八重山だけの問題ではない、自然は八重山だけの自然ではないというときに、僕は当時から若干そういう考え方に違和感を持っていたんですけれども、県外の人たちに比べれば今度は八重山全体がマイノリティの立場になるわけです。自然保護運動は原則的には確かに正しい。ただしそこに自然とともに生活をしている八重山の人たちがいるということを忘れてはいけない。中には八重山の実際を知らないで原則論に賛成をして反対運動を行っている人たちもたぶんいると思うんです。そういう人たちは果たして八重山のことが分かっているのか。そのときに、八重山は彼らから見れば小さな虫に過ぎないのかとなると、僕らは反発せざるを得ないものがあるわけです。マイノリティという場合に単に少数ではなくて、そこに生きている人たちの弱い部分をどうすれば補完できるのかを考えないと、それはいつでも逆転する可能性があるわけです。そういう意味では、金城朝夫さんは絶えず原則はしっかりしていて、行動面でどこに立つかということを常に考えていたと思います。

新空港問題と主体性

―友寄さんは『沖縄ダークサイド』(2004年)という本に「地元民がぜひとも欲しいと思っている石垣新空港も、反対運動があってなかなか実現しない。そしてその反対運動の主役もまたナイチャーなのだ」と書いています。白保海上案の時に友寄さんは新空港に反対した。しかしカラ岳陸上案を八重山郡民が選択してから賛成になった。この点だけを見ると変節したのかと誤解されかねません。

大田
 友寄さんは一貫していると僕は思う。沖青同時代に「沖縄人は自決せよ」と言って、これは排外主義ではないけれども、けっきょく沖縄のことは沖縄がやる、という感じでしたよね。だから、それはもう一貫していると思うし、だから、この文章を書くときも、ものすごくいら立ちながら書いている。

上地
 新空港の問題においてもそうだと思います。自然保護団体の力があまりにも強すぎて、逆に島の開発の阻害要因にもなってきた。僕自身もかつては自然保護で新空港の反対運動をやったのだけれども、今度は自然保護団体の力がどんどん強くなって、それが逆に島民をいじめている印象を与えていた。それに友寄さんは反発した部分があった。言えることは、沖縄、八重山、島、そして僻地…、彼にはそういうものが常にあった。

砂川
 これと似たことはイリオモテヤマネコの保護の問題です。金城さんはそれについても厳しい批判をしています。ヤマネコの問題はあるけど人間は全く問題にしていないと。ヤマネコは大事である。しかし人間も大事であると。空港問題も同じです。空港も大事だ。自然も大事である。しかし人間が大事なのだと。だから金城朝夫の考えることは常に農村地域、過疎地域に住んでいる人たちの、人間の暮らしというものが常に視点にあるわけです。根底にあるわけです。それをなくした議論には、いつも彼は徹底して批判していました。だからそういう面では、考え方が一貫していたと思っています。

高嶺
 友寄さんには問題解決能力があったと思うんです。新空港問題で白保漁民のみなさん、地域のみなさんに、この人たちの願いや運動をどう支援すれば解決ができるのか。それは全国的な運動に展開しないと、なかなかできないだろうということで、彼らの立場に立って、彼らにはないノウハウを提供してきた。それが今では、アオサンゴを含む海域が国立公園に編入されたわけですが。こうして結果が出ると、運動は正解だったなと思うわけです。その後暗礁に乗り上げた新石垣空港というのは、郡民にとっては問題解決のできない大きな悩みになったのです。一人歩きした自然保護団体というものは、もう石垣には新空港はいらない、現空港を拡張しろという運動に広がってきたわけだが、彼は、八重山郡民が自立するためには新空港が必要という住民の願いを、どのような方向から解決できるかというところに思いを寄せてきたのではないかと思う。空港予定地が二転三転する中で、こういうやり方では可能ではないかというところまで最後踏み込んだのではないか。それは何よりも、やはり八重山という地域が自立するために最小限度必要なインフラとしてこの問題を解決しない限り自立はありえないと。問題解決型の彼のサジェスチョンというものが、僕は変わったとは思っていない。一貫して弱い者の立場で、最後は八重山を守るというところで働いたのではないかと思っています。

移住者と土地と景観

―さて、最近は移住者が増えてきてヤマバレーに新しい集落もできた。八重山はこれからどうなっていくのかということを考えてみたいと思うんですけれども。

上地
 友寄さんが今ここにいて昔の元気があるなら、移住者来るなという運動をしただろうと思う。その理論武装もできる人だった。ほんとに、この八重山というところはどこへ行くのかなあ。友寄さんに生き返ってきて欲しいよね。(笑)

―復帰のころの土地問題との違いは、あのころは企業が開発のために大きく土地を買い占めたというのがほとんどだと思いますが、今は個人の移住者が土地を求めて、土地が虫食い的にどんどんやられているという状況があります。そうすると運動というのもつくりにくいのではないですか。高嶺さんどうですか。

高嶺
 2つ考えられます。もともとそういう乱開発の受け皿になっている土地、これは農業行政などの失敗でした。けっきょく農家が営農できずに土地を手放す。そこが狙われた。投機的にどんどん一人歩きしていく。だから私は、今こそ農政はしっかりしろと言いたい。農村を守れ、土地を守れと。友寄さんであったら、この農業をしっかりしないと島を守れないよという運動をやったと僕は思う。遊休地化した土地をどうするか、後追い的になってしまったので、そこはやはり原点に戻れ、と。やはり農業をもう一回盛り返して農村に力をつける。そうしたら買いに来ない。そういう運動をやらないといけない。原点に戻れということだと思うのです。もう一つは、では現実に起きている問題を解決する方法は何か。もう少し国の法律とか制度を使えと友寄さんは言うのではないかと思うのです。というのは、国土交通省は国民の癒やしの空間だと離島の存在について高く評価している。沖縄県も、県の好調な観光は離島があるからだといっている割には、地元の秩序を守るために何もしていない。行政が法律を十分生かしきっていないということを、友寄さんは次に言うのではないかと僕は思うわけです。というのは、平成16年に施行された景観法というのは、所有権の制限のできる法律なのです。それは宅地も含めて、島を守るためには、この法律を最大限に生かして新たな開発者を排除するということができるんですね。景観地区指定をすれば建築基準法と同じ許認可の対象になりますので、こういう運動をもう少し強化すれば、住民運動をバックアップする大きな手段になります。この法律の徹底した運用を考えると、それは、以前の農振の再来となるのではないか、と。景観計画をもう少し実効あるものにするために、新たに入ってくるものに対してノーといえる地方自治体、島であるべきだということを、友寄さんは、法律を使って新たに理論武装したと思う。その趣旨をわれわれがどういうふうに受け継いで運動体にかかわることができるか、絶えずあの人だったらどうしたかな、われわれは何ができるかなというのを常に大事にして考えたいと思います。

大田
 今の景観の話は、けっきょくは集落が全部賛成しないとだめでしょう。合意をとるのは大変難しいわけですね。多分僕と友寄さんが話をするのであれば、それも中心としながら、例えば昔の村内法みたいな、私たちの村は私たちのものですみたいなもの、そういうのを公民館がそれぞれ宣言をする。そして、高さや景観について私たちの地域にふさわしいもの以外の建物については一切建てさせないとか。そのようなものを考えるのではないかという気がしますね。

高嶺
 補足ですが、景観法の中に景観協定というのがあるんです。秩序を守るためには前提があります。地域、コミュニティが結束すること。まず農地を守り、農業をしっかりして、村の共同体意識を確保する。祭りが共感され、みんなの共同体意識が出てくると、では自分たちの地域を守るためにどうすればいいかということが出てくるのです。これがないと、なかなか次の展開ができない。これができれば、次は、地域の秩序を保つためルールをどうするか? では景観協定を結ぼうと。そして基準以外のものはつくらせない。それに従わない人は来なくてもいいというふうに、僕はその流れのなかでいくと思う。例えば川平だったら、いま川平集落内には高い建物をつくらせないということで公民館で申し合わせているので、市は建築確認の申請の前に行政指導ということで川平公民館の同意を持ってきなさいといわせているのです。そうしたら公民館で協議会を開くのです。そして(不適なものは)拒否するのです、同意書を出せないと。すると市は、地元が反対していますから止めた方がいいですよという指導をする。川平で今こういうことができるのは、村の共同体意識があるからです。農地が生かされ農業が守られ村に秩序があるからです。地域をばらばらにしないためには、地域の産業をつくり農地を中心とした地域の集落の活性化というのがあってはじめて対外的な対応ができる核になるのではないかなと僕は思う。景観協定を結べるぐらいの集落がボンボン出てきたら、石垣はなかなか外からの人を簡単に受け入れないよというメッセージになるのではないかと思う。

現状分析と情報の開示を

―ひとつ友寄さんが言っているのは、島にはもう競争の論理が入りすぎていると。どんどんシッチャカメッチャカになっているということを言っているんですね。

砂川
 これはもうすでに実は復帰直後の土地が荒れた時代に、金城朝夫が言っているわけなんですけれども、地元にもそれを受け入れるような要素があると。これは経済や運動だけに限らない、思想的にも政治的にもそうなのですけれども、本土の感覚をそのまま受け入れてしまうという地元側にも問題があると。景観に関していえば、最初は観光に来て、癒やしなら癒やしでいいけれども、来たものがそこに永住する、あるいは半永住するようになる。そのときに地元の人たちとのあつれきが出てくる。その中でいろいろな問題が起きるわけですけれども、これもすでに金城朝夫は指摘しております、予見しているわけです。難しいと思うのは、竹富島が町並み保存で一生懸命やっていますけれども、最近の報道によると、若い人の中には制限が厳しすぎるという話も出ているという。そういうものは絶えず本土企業の狙いの的になる可能性がある。石垣島に限っていえば、もうすでに復帰直後から島の周辺は本土企業に買い占められて金環食の逆のような形になっている。行政は一生懸命やっているようですけれども、実効性となればこれはまた難しそうだ。そうなると本当に景観を守れるのか。それと、景観と簡単にいうけれども、なかなか実感として個人個人が自分の問題と考えにくいのです。空気のような形で、時間がたってみないと分からないものがあって、そんなにまだ大きな問題として実感が伴っていないのではないか。しかし今、本当に石垣は、多分1カ月たって同じ道を歩いたらだいぶ変わっている。島の西側もそうですけれども、とくに市街地はそうです。風景なんていうのはもう過去の風景はないのではないかと思うぐらい、せいぜい山の輪郭ぐらいしか残っていないのではないか。そういう中で人間も変わってきた。石垣の人自身もです。行政はお金がない。それから法的な強制力も厳しい。果たしてそういう形で大手の本土資本の攻勢に対抗できるのか、僕はちょっと悲観的です。

上地
 移住者の問題、マンションの建築ラッシュもそうだけれども、やはり今おきていることのメリット・デメリットをきちんと抜き出して整理すべきではないかと思う。それと、例えば行政がこの石垣島というものをどういうふうなものにしたいのか。シミュレーションをある程度つくって見せればいいのだが、それを行政や市長が提示できないところに今の八重山の不幸があると思う。観光立市と言いながら観光振興基本計画さえもつくりきれないわけだから、行政の貧弱さというのは目に余るものがあるなと思います。景観計画の法的強制力がないから今のように行き詰まりがくるというのははじめから目に見えていたわけです。だからといって、今の状況を悪くするわけにはいかないから、これをみんなで応援しなくてはいけない。今の開発の状況はやはり行政がきちんと目配りしてメリット・デメリットを整理して、そして、石垣市の絵を描いてもらうということだと思う。そうすれば新しい市民の動きというのも出てくると思う。今は、それがない。

砂川
 それに関連して、金城朝夫は空港問題を考えるときに、その収益の何割が石垣島、地元に落ちるのかどうかもよく分からないと、これは調査をする方法はないのかと話したことがありました。もうひとつ。私も書いたことがありますが、現在観光客は年間77万人、その今後の目標をどこまで設定するのかという話がありますけれども、八重山には八重山にふさわしい需要があるはずだと。そういう基本的なことがいまだにできない。友寄さんも指摘したのですけれども、例えば年間通して飛行機の便ごとの、シーズン、オフシーズンの需要と供給はどうなっているのだ、と。これは空港問題ですけれども、移住問題においても基本的なデータは市民に開示されていないのです。専門家たちは分かるかもしれないけれども、市民レベルで議論の材料、情報がない。行政も研究団体もどんどん資料を開示してみんな一緒になってやらないと、情報もなく分析もできない状況では具体的なものはできないわけですよね。だから金城朝夫は、移住者問題でも表などを作ったり、土地の買占め問題も徹底して調査していたんですね。そういう基本的なことをやっていかないといけない。

―友寄さんはよく調査報道ということを言われていたと思うのですけれども、八重山のマスコミにおける調査報道はどうなっていますか。

上地
 力量の問題がありますね。ほんとは今の移住者の問題にしても、メリット・デメリットの話を新聞社としてもきちんと調査してやるべきなのだろうけれども、正直いってそういう力量が新聞社にまずない。

八重山の自立のために

―さて、それでは友寄さんがつねに言っていた自立の問題を八重山の現在の状況とあわせながら考えていただきたいと思います。

高嶺
 沖縄県は特に全国的に見ても就業人口がサービス業に偏っています。グアムのように農業が衰退して国が非常にいびつな形になった島を見ると、かつて1次産業と2次産業で大体人口の40%ぐらいを占めていたころは考え方も生き方もしっかりしている。ところが、これが15%、10%となってくると、商業主義に走っていく。僕は石垣が復帰の後に選択した道は正しかったと思うのです。今、例えば日本とオーストラリアのEPA(経済連携協定)交渉がそのまま重要品目の関税の撤廃ということになったときに、石垣の畜産、サトウキビ、パインなどの関税がなくなることによって、もし農業経営が行き詰った場合、また大きな問題が出てくるのです。だから農地を手放す前に、あの時の経験を生かした農業を守れという運動が、あの反省に立って今なされないといけないのです。いったん手放した土地は、なかなか返してくれといっても難しい。だから今八重山が本当に自立して支えあうという意味では、大きな試練のときだと思います。1次産業と加工産業を合わせて、いま石垣市はまだ25%ぐらいで頑張っています。僕はこれがボーダーラインだと思っています。これがもしEPAで農業が壊滅的な打撃を受けると、一気に第3次産業が肥大化するのです。商業主義に走ったら、お互いの地域が競争にさらけ出されていく。そうしたらお互いに島を守るというよりも、自分がどう生きるかということにやはり軸足が変わっていくから、そうなったらもう危機的な状況になるのではないかと思います。われわれは学習能力もあるわけだから、この話題をマスコミもわれわれ住民も行政も、この八重山は農業を失ったらどうなるのか、これでいいのかという疑問を提案しあうことが必要だと思います。それを考えることによって、自分たちの軸足をもう一回確かめることができるのではないか。観光も大事だけれどもその前にいま農業が危機だよということを知って、自分たちの島を守れるか、村を守れるか、家庭を守れるかという議論が非常に重要です。

砂川
 金城朝夫は自立についてこう書いています。「大きいことのみが最優先されると小さな島々との格差の拡大につながり、過疎化はますます進む一方ではないか。数多くの島を抱えている沖縄の経済自立を考えると、工業の立地条件はむつかしく、かつて沖縄が生きのびて来た歴史をふりかえるとき、やはりまずは足腰の強い第1次産業の確立が急務で、この第1次産業から波及する2次加工業、3次の観光産業と来るのではないか」(『新沖縄文学』1983年56号「八重山・農業問題を中心に」)と。ところが今現在は逆ですよね。第1次産業より観光の方が大事。だから金城朝夫としては、土地問題にかかわったせいもあるでしょうけれども、彼らの生活をしっかりちゃんとつくるべきだと考えていた。

―八重山の第1次産業の現状はどうですか。

上地
 農業の危機かどうかは整理しないといけないと思いますが、現実的には農業産出額というのはやや上がっています。前は90億ぐらいだったのが、今100億を超えている。そのアップが単価によるものなのか、生産量が増えているからなのか。ひとつ言えることは、パインにしても、以前は原料生産だったから安かったけど、今は青果で売っているから単価は何倍にもあがっている。たしかに観光と連動してはいますよね。だから単純に昔のように、農業を守れという理論武装で運動ができるのかなと、ちょっと僕はその辺は分からない。ただ、これだけ観光客が増えているにしては産出額はあまりにも少ない。ということは、ほんとはきちんと観光産業に連動できていないということです。77万人の観光客がわざわざ向こうからやってくるわけだから、こっちのハルサー(農民)とかウミンチュー(漁師)とか、あるいは加工業者が、ほんとうはもっとその人たちにどんどん食べさせていけるわけ。そのへんを行政も市民も考えないといけないと思う。

高嶺
 沖縄県は道州制に向けてどうやっていくかというのが課題になっています。これは同時に離島がどのように自立するかということで、コルシカとかマルタ島とかマン島とかというところは、国策を利用して自立するいろいろな仕組というのをつくってきたわけです。最近、済州島も特別自治州の採択をした。沖縄もいずれそうなるだろう。友寄さんが紹介してくれた玉野井芳郎先生という人がいる。その人が地域のエネルギーの可能性について、使えるものや利用するものは何でも利用する、最大限に活用することによって地域が自立していくのだと。それは政党とかイデオロギーとかそういうものではない。この地域振興というものは、地域の主体性を培っていくという話をやっていたんですね。僕は今、自立のために主体性が大事かなと思っています。だから、自己決定・自己責任があって、上司にも権力にも左右されない第1次産業が大事なのです。その人たちが力をつけていくこと、せめてこの人たちが元気であれば、自立心旺盛な主体的活動ができる人たちを確保できる。そして、生産物を地産地消だけではなく県外に出荷する可能性としては第1次産業第2次産業がもっているけれども、さっき上地さんからもあったように、これだけ大勢の観光客が来るということはリピーターにもなり得る、全国に消費ネットワークができるということなんです。ということは、観光産業が一過性の消費型ではなくて次の再生産につながっていく持続可能な観光産業になれば、1次産業と連動して強くなると思う。そのとき、農地の少ない島よりも農地の多い島ほど可能性があるということです。だから僕はなにも1次産業、農業だけで自立しろという持論ではない。農地が大きいほど可能性が広がるのではないか、主体性さえ失わなければ、そこに来る人の流れとか物の流れとか、いろいろな仕組をバネにして新しく構築していけるのではないかと思う。そういう主体性を持って、来る人にもかかわりあえというのが金城朝夫さんの持論だったのではないかと思う。

やしの実大学とネットワーク

―ネットワークというと、友寄さんはひろく世界に目を向けた活動をしてきました。ピースボートの講師をしたり、やしの実大学で南太平洋の島々をまわったりしました。上地さんのほうからやしの実大学と友寄さんについて話していただけますか。

上地
 やしの実大学は笹川財団から実は僕の方に話が来て、友寄さんともいろいろ話したんですが、僕らも南に目を向けないといけないだろうということで始めました。最初、南太平洋の記者招聘事業というのがあって、トンガ、サモア、ニュージーランド、パプアニューギニア、グアムとか太平洋諸国から10名くらい記者を八重山に迎えて、途中3回目ぐらいからやしの実大学実行委員会を組織して南太平洋島嶼国の人たちとの交流、シンポジウムなどをやってきました。八重山の島々をまわってふるさとの再発見などをあわせてやってきたわけです。ところで、友寄さんとグアムへ一緒に行った時、彼はグアムに非常に同情的だった。というのは、グアムが基地経済に依存しなければならない、生産物が何もないところだったから。生産がないとやはり、島というのはいびつだとよく言っていた。そういう意味で、同じ島同士でうまく理解しあわなければならないと考えていたような気がする。だからその事業にはとにかく一生懸命かかわったし、自分でもしょっちゅう島へ行って、島のことをメディアを通して紹介していたわけです。おかげで八重山の方々は、南太平洋の島々への理解が広がったのではないかなと思います。

大田
 友寄さんの考え方からいくと、島嶼的なもの、そこでどんなふうにして人は生きているのか、そこの人たちが豊かになっていくためにはどうすればいいのか、友寄さんは考えていただろうし、北のほうではなくて南の方に、しかもそれが島嶼的なものに向かっていくというのは必然的なことだったのではないかという気がします。

砂川
 金城朝夫が南のほうに行くのは必然だと大田さんが言いましたが、アイヌに対する関心も強かったわけですから、基本になるのは、さっきの繰り返しになりますが、マイノリティの問題だと思います。だから北であれ南であれ、いわゆる東京・京都とかを中心にしたものからはずれたところ、周辺地域、南太平洋、少数民族…、彼のスタンスはマイノリティに絶えずあったと思うのです。彼がよく話していたのは、コロンブスがアメリカを発見したのではなくて、アメリカインディアンがコロンブスを発見したのだと、考え方を彼は逆転させるわけです、見方をですね。これはいわばマイノリティの視点ですよね。彼の行動のすべての基本にあるのはそれなのです。だから、やしの実大学にしても何にしても、彼はもう一貫してずっとやってきたなあ、と。ただ、その行動範囲が広すぎて、しかも大変激しい人ですから、現実の面でいろいろ誤解を受けたり、感情的なトラブルがあったりしましたが、やはり彼のやってきたことは一貫していて、僕は今後彼の仕事をもっと見直していかなくてはいけないのではないかと思っています。現実問題を解決するためにも、彼が復帰直前から現在にかけて何を考えどのような行動をとってどのような提言をしてきたか、それは大きなものがあると思うのです。そして付け加えれば、彼はヤマトンチュが嫌いだったというけれども、個々のヤマトンチュが嫌いというわけではないです、ヤマトンチュとしての顔をしてしゃべってくることに彼はものすごく反発するわけです。実際問題として僕らもそうですが、金城朝夫自身もたくさんヤマトンチュの知り合いが居るわけです。親しい人も居るわけです。現実に僕たちは、八重山に県外から移住している人たちで、一生懸命やって地元に尊敬されている人たちを知っているわけです。だから金城朝夫は、八重山に来るのはいい、だけど八重山の人たちと一緒に暮らさない人たち、そういう人たちは来ないでほしいのだという。なぜ八重山に来たのか、やはり八重山ののんびりした時間とかあるいはそういう文化にひかれて来たはずだ。ところがここに来たら全然違うことをやっている。そういう人たちは来ないでほしいというのは、けっこう彼の本音だと思うんです。すべての面において彼の視点は全然変わっていないと思います。

大田
 南に行く必然性と言ったのは、例えば彼は、右の連中は北に向かって領土を返せと言う、左の連中は南に向かって奪還とか返還と言う、そういうものはみんな否定しろ、と言っていました。だから、南のほうから風が吹くように自分たちはやっていくのだと。だから機関誌に「南風(パイカジ)」という名前をつけた…。その南風が吹くところはどこか、はるか南の島でもあったと思います。だから彼は、ポリネシア、ミクロネシア、そこら辺りの島嶼国に大変関心を持っていたのではないかと思います。

残された者の責任

―まだまだ語り足りないと思いますが、誌面の都合もありますので(笑)、言い残したことがありましたらお願いします。

高嶺
 友寄さんは国内外に非常に広いネットワークを持っていた人だな、と。島が自立するためにはいろいろなネットワークを増やしていくというのも戦略だと考えていたのではないか。例えばパラオは小さな島だけれども1つの国で自立するためにどうするかというと、「環境は経済である」といって世界中にパラオの応援団をつくるわけです。戦争に巻き込まれるから基地も置かない。あくまで自立するのだと。しかし自分たちだけでの経済活動には限界がある。だから世界中で応援してくれということなのです。われわれ八重山も、沖縄もそうだけれども、自立するために世界から応援団、良き理解者を得る、そのことがやはり大事かな、と。外から来て食い物にするのではなくて、島よ頑張れという応援団が全国にいる。その中にはエキスパートもいるからいろいろなノウハウを、場合によっては協力してくれる。島が主体性を持って生きるために、自分たちは応援団だよというような人脈を彼はつくってきたと思う。われわれも島の主体性を貫きながら、島が自立するために支援してもらうネットワーク、応援団を構築していかなければと思います。

砂川
 助っ人の論理といいましたけれども、僕は金城朝夫自身が助っ人の論理を実行した人だと思うのです。土地闘争、シマおこし、空港問題にしてもやしの実大学にしても、重要人物でありながら決して彼が先頭に立って評価を受けたというのではないわけです。絶えず脇役に徹し、コーディネートをやった。そういう面で僕はやはり彼をもっともっと評価しないといけないという気がします。ですから、彼がたくさん書き残したものがいつかひとつにまとまればいいなと思っています。

上地
 友寄さんは、住民運動は3人いればできると言っていた。3名が一生懸命動けばできるんだと。八重山には今いろんな問題があるけれども、もし現状を本当に憂いている人が3名おれば運動がつくれるというわけ。友寄さんが生きていて、相談されれば、「できるよ!」というような話になっただろうと思う。もうひとつ、友寄さんは、とにかくマスコミが報道しないことにはすべては広がらない、要するに1人ひとりに話して回るわけにはいかない、だからマスコミと一緒になることだということをよく話していた。本人もそれを実践して、いろいろなところを行動的に飛び回ってネットワークを広げて、それが住民運動のネットワークにもなった。僕らのような後輩記者にもマスコミが武器になるということを教えてもらった。

大田
 友寄さんが生きていたら、と言っても生きてこないわけだから(笑)、それぞれの責任が重いなあという気がします。だから、人は突然別れも来るものだけれども、まだ死ぬのは早かったなあという気がする。もうちょっと生きていたら面白いことができたのではないかなあ。喧嘩もするだろうし、会いたくないなあと思うこともあっただろうけど(笑)…。残念。

アルバムから


社会党代議士帆足計の秘書として阿波根昌鴻氏ら伊江島の土地を守る会のメンバーと交流(伊江島)


復帰協代表の一員として国会議事堂前で座り込み


沖縄青年同盟中国訪問団の団長として王中日友好協会会長(右)と会談(1971年)

八重山の新聞に掲載された金城朝夫&友寄英正

(協力:石垣市立図書館)※石垣市立図書館の新聞検索システムをつかって調べてみました。
金城朝夫の筆名で載った文章
■蘇る湧上聾人の功績 くり返された土地問題の歴史 八重山毎日新聞 1976/02/06
■<声>官制トゥバラーマ大会に思う スポーツ総評 八重山毎日新聞 1979/10/06
■<論壇>危機を迎えるパイン産業 八重山毎日新聞 1981/01/29
■<台湾の農業から>(1) 水と土地利用について 八重山毎日新聞 1981/05/26
■<台湾の農業から>(2) 水と土地利用について 八重山毎日新聞 1981/05/28
■<台湾の農業から>(3) 水と土地利用について 八重山毎日新聞 1981/05/29
■<台湾の農業から>(4) 水と土地利用について 八重山毎日新聞 1981/05/30
■<台湾の農業から>(5) 水と土地利用について 八重山毎日新聞 1981/06/02
■<書評>黄春明著「さよなら・再見」 八重山毎日新聞 1982/06/26
■<書評>「石垣市史」新聞集成・ 記録の重要性を痛感 八重山毎日新聞 1983/06/25
■<書評>林発著「沖縄パイン産業史」 八重山日報 1984/03/02
■玉野井芳郎先生と八重山 故人を偲ぶ 八重山毎日新聞 1985/11/23
■<書評>入嵩西正治編著「八重山糖業史」資料を駆使した労作 八重山毎日新聞 1993/11/21
■高い評価の八重山パイン パイナップル関西会議に参加して 八重山毎日新聞 1995/10/16
■新たな特産品と消費者を求めて(上) 静岡の食品会社がパインゼリーなど加工 八重山毎日新聞 1997/02/08
■新たな特産品と消費者を求めて(中) 銀座わしたショップ 八重山毎日新聞 1997/02/09
■新たな特産品と消費者を求めて(下) モクモクファーム、本物を売る姿勢 八重山毎日新聞 1997/02/11
■<誘い>草の根サミット 八重山毎日新聞 2000.07.06
■徳島県上坂町と石垣市が友好都市締結(上) 八重山毎日新聞 2000.10.13
■石垣市史編集室刊「八重山写真帳」 1575枚が伝える歴史 八重山毎日新聞 2001.06.30
■<誘い>アイヌ民族芸能公演と工芸展 八重山毎日新聞 2002.01.08
■サトウキビ刈り援農隊の思い出 八重山毎日新聞 2004.12.24

友寄英正の筆名で載った文章
■復帰運動の再検討 八重山毎日新聞 1968.04.28
■<追悼>農業を守った大物 大盛文雄 八重山毎日新聞 2001.07.29
■<日曜随筆>本土復帰運動余話 八重山毎日新聞 2005.05.01

「金城朝夫」についての記事
■市職労がリゾート講演会 市民運動を提唱 八重山日報 1991/10/25
■「八重山開拓移民」を出版 ルポライター・金城朝夫氏 沖縄と八重山の戦後秘史 八重山毎日新聞 1988/07/05
■<新刊紹介>ドキュメント「八重山開拓移民」精力的な現地ルポ 八重山日報 1988/07/06
■<書評>「八重山開拓移民」を読む 開拓移民の全体像描く(三木健) 八重山毎日新聞 1988/07/11
■<書評>「八重山開拓移民」を読む(下) 血と汗の歴史に思いを(三木健) 八重山毎日新聞 1988/07/12
■<書評>「ドキュメント八重山の開拓移民」豊富な内容と視座重層的な移民の悲劇(砂川哲雄)八重山日報 1988/07/20
■黒潮が南北の文化結ぶ 伊勢市の地域伝承フォーラムに石垣から金城氏が参加 八重山毎日新聞 2001.09.29

「友寄英正」についての記事
■「主張は正しかった」市民連絡会議が農振問題で声明 八重山毎日新聞 1975/12/10
■パイン原料価格2年ぶりに好転 キロ35円50銭に決定 八重山毎日新聞 1976/07/13
■サトウキビ価格、農家は不満 高労賃で生産費割る 今後の要請方法など検討 八重山日報 1977/10/30
■農民組合が記者会見、サトウキビの新価格に強い不満 八重山毎日新聞 1978/10/28
■サトウキビ価格をめぐり農民組合が記者会見”全く納得できない” 八重山日報 1978/10/28
■免許取得に配慮を… 地区農民組合が農家のトラクター運転で八重山署に要請 八重山毎日新聞 1979/06/02
■八重山地区農民組合、地区労が提起した労農集会について記者会見 八重山毎日新聞 1979/08/11
■市民講座「八重山の歴史と文化」が文化会館の大ホールで開催 八重山日報 1985/03/01
■石垣市文化会館で市民講座 厳しい環境下で頑張る入植者に友寄氏が理解強調 八重山毎日新聞 1985/03/03
■<やしがに>ドキュメント「八重山開拓移民」を出版した友寄氏の出版祝賀会 八重山日報 1988/07/22
■「八重山開拓移民」出版祝賀会 友寄氏の“労”称える「移民を語る集い」大盛況 八重山毎日新聞 1988/07/22
■著書「八重山の開拓移民」友寄氏が郡下の小中校へ著書四十八冊を贈った 八重山毎日新聞 1988/08/05
■「八重山開拓移民」の著書を出版祝賀実行委員会が郡内小中校に寄贈 八重山日報 1988/08/05
■大嵩公民館講座 竹の子学級が開級 入植の歴史学ぶ 八重山毎日新聞 1991/04/30
■石教委主催の竹の子学級始まる 八重山日報 1991/05/01
■平久保公民館学級で友寄英正氏が「平久保の入植史」と題して講演 八重山毎日新聞 1993/08/14
■「ともる家庭学級」の第3回講座開く 入植者の歴史を学ぶ 八重山日報 1994/06/28
■「島の繁栄は先人の苦労で」 明石ともる教育学級が開拓の歴史学ぶ 八重山毎日新聞 1994/06/28
■県地域史協議会研修会 移民史研究の友寄氏が講演 県内各地から50人が参加 八重山毎日新聞 1995/10/05
■県地域史協議会研修会に県内市町村から50人参加 八重山の開拓移民史学ぶ 八重山日報 1995/10/05
■市史編集室の第3回「村むら探訪」に約50人が参加 戦後開拓の歴史学ぶ 八重山毎日新聞 1995/12/06
■高校生をグァム派遣へ「やしの実大学」の第1回実行委員会開く 八重山毎日新聞 1998/07/15
■友寄氏が教員研修で開拓移民の歴史を紹介 八重山毎日新聞 2000.10.09
■八重山博物館の中学生郷土史講座が始まり、友寄氏が移民史解説 八重山毎日新聞 2002.08.02
■「さらなる活躍を」琉球放送通信員を三十年間務めている友寄さんの激励会が開かれた 八重山毎日新聞 2004.07.20
■<追悼>復帰の混乱期に大きな道標

友寄英正さんの足跡

1938年7月17日
石垣市開南生まれ。

1960年代
東京で沖縄県学生会の事務局長を務める。その後社会党代議士帆足計の秘書、沖縄解放祖国復帰懇談会勤務。

1970年代
●沖縄青年委員会、沖縄青年同盟結成に参加、「沖縄開放」をうたって活動。アイヌや中国の少数民族などにも興味を持ち現地に渡り調査する。調査報道を中心としたフリーのルポライターとして活動を始め、金城朝夫のペンネームで『朝日ジャーナル』などに執筆。
●ふるさと石垣島の土地買い占め問題などを知り、真久田正、崎枝孫芳らと『南風(パイカジ)』という季刊誌を発刊。
●復帰直前、八重山に帰郷し、大田静男氏や上地義男氏らとともに「石垣島を守る市民連絡会」を組織し本土企業の土地買い占めの実態をレポートした。贈収賄罪で15名が逮捕される大事件となった。また、土地買い占め問題の中で「シマおこし」という言葉が生まれ、Uターン青年らとともに、島おこし運動の中心となって活動した。
●農家と共に八重山地区農民組合に参加し、事務局長を務める。また、「農振問題を考える若者の会」を発足、パインの価格交渉などに積極的に関わる。
●NHKの農林水産通信員として農業部門のレポーターを務める。伊野田や竹富など農村で花嫁相談員も務める。
●その後、RBCからの声がかかり、八重山報道通信員としてレポートを開始。

1973年
金城朝夫のペンネームで『沖縄処分』(三一書房)刊行

1980年代
●ピースボートに参加。以来、40数ヶ国を回る。カンボジアやイエメン、北朝鮮などの紛争地を回り、第1次湾岸戦争ではTBSの通信員として現地からの報道を行った。
●八重山記者クラブで台湾へ研修に出かけ、農業関連の視察を行う。当時はまだ八重山になかったマンゴーに関する資料を集め、八重山に戻って熱帯研究所へ研究を依頼しマンゴーを普及させた。
●石垣ケーブルテレビに入社。
●共著「観光コースでない沖縄」(高文研)に共同執筆。
●白保海上に飛行場建設の案が持ち上がり「白保の海を守る会」が発足、参加。国際的な問題に発展した。結果、白保海上案は変更された。

1984年3月13日~
『琉球新報』で「八重山開拓移民」150回連載。

1988年
金城朝夫のペンネームで『ドキュメント・八重山開拓移民』(あ~まん企画)を上梓。開拓農家の実態を描いた。

1990年代
●台湾と八重山の関わりを調査し、台湾の人々が八重山で果たした役割を正当に評価したレポート「記録なきフロンティア」(『野生時代』掲載)を発表。また、台湾などの海外のジャーナリストとの交流の場も自ら作る。
●尖閣諸島の報道でTBS全国ネットで年間賞。サバニを出しての決死の取材だった。
●「やしの実大学」に参加し南太平洋の島々をまわる。

2004年6月
RBCとの契約が満30年を迎え、退職。

2004年7月
フリージャーナリストとして再出発。

2007年5月1日
永眠。

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