八重山には石垣島字新川、字大浜、字川平、字伊原間、竹富島、新城島、与那国島などに、海の彼方から神船が米俵・粟俵を満載してわが村にやってくるという内容の歌謡群がある。その多くは琉球音階のゆったりした曲調ではないだろうか。それらは穀物の伝来を物語る神歌であり、そこに表われる米俵・粟俵は、とりもなおさず豊穣を象徴している。多和田さち子氏はこのような歌謡を「豊穣招来歌謡」と名付けて論じている。
新城島には豊穣招来歌謡として、上地島に《あがるから》があり、下地島では《ウヤキムラジラパ》が伝承されている。新城島では稲・粟のみならず、水も神船が運んでくるというのは、そこに島の水事情が反映されているのかもしれない。また、歌謡の後半で祝宴の場面まで描写してうたわれているのも興味深い。
新城島ではこの歌謡が旧暦九月の節祭で巻踊りを伴ってうたわれるところに特色がある。それは手と手を組み、足を前後に踏みながらうたわれる。節祭という農暦の始まりの祭事でうたわれることにより、来る豊年を予祝する意味合いが浮き上がってくる。
八重山各地の祭祀は、このような豊穣を願う歌謡が巧みに仕組まれ、祭祀のテーマをうまく表現しているように思う。とりわけ、豊穣招来歌謡群は、「招き手」と呼ばれる神招きの所作を伴ってうたわれることが多い。
手のひらを上方に向けて前方に差し出し、その腕が伸びきったところで、手のひらを自分の肩引き寄せるように腕を折るのである。その単純な動作の反復が招き手である。あまりにも素朴な所作であるが、長い歴史のなかで繰り返されてきたことを思うと、豊穣を乞い願う切実な思いが、かえってリアルに迫ってくるのである。
字大浜では旧暦六月の豊年祭で《東節》がうたわれる。神ツカサをはじめとする、神役たちは集落東側に位置するカースンヤ浜に集い、供物を整える。ひとしきり祈願を終えると、全員が東方に向かって立ち上がる。すると銅鑼と太鼓が厳かに鳴り響き、白朝衣の神女たちは《東節》をうたいだす。
そのとき神女は、片足を軽く前に出した姿勢から、招き手の所作をくりかえす。腕を伸ばしきったとき、少し前傾姿勢となる。そして、手のひらを肩に引きつけるように折るとき、身体を起こす。その反復は海浜に寄せては返す波のように前後にゆれて優しい。
竹富島では、旧暦八月八日のユーンカイ(世迎え)神事で、神歌《とぅんちゃーま》がうたわれる。島の西方に位置するコンドイ浜のニーラン石の前で、神女は座したままの姿勢で神招きの手をくりかえす。ニーラン石は、ニーラン神が島に上陸するとき、神船の艫綱を結びつけた石だと伝わっている。そこで作物の種子を携えた神船を迎えるというのだから、リアルな表現だといえる。
「世(ゆー)」は豊穣をイメージする漠然とした観念であるが、《とぅんちゃーま》では「うやきゆ」(富貴世)、「みるくゆ」(弥勒世)、「かんぬゆ」(神の世)、「たーらゆ」(俵世)、「ますぬゆ」(舛の世)といった、バラエティ豊かなかたちで表われる。神女たちは、ユーンカイという祭祀空間のなかにおいて、それらの「世」をひとつひとつリアルに感じとることができるのではないかと思ってしまう。また、神船に神の存在をみるのも自然のなりゆきであろう。
このように祭祀は、歌謡と所作ばかりでなく、伝説や土地が有機的に結びついて成立していることがわかる。招き手は八重山舞踊の簡単な基本動作であるが、祭祀のように濃密な時空のなかでこそ威力が発揮されるといえる。それゆえ舞台で、単純に招き手を取り入れて踊ろうというだけでは、希薄な表現といわざるをえない。そこにはリアルな存在が不可欠だ。