<日曜の朝に>奥松勇作栄自治公民館長に聞く

●栄公民館の体温

孤高の栄集落。。
なにしろ、たいていの集落は大通り沿いにあるが、栄集落は県道からちょっと入った高台にあってなかなか立ち寄ることもないので、そんな感じがしていた。

てぃだカンカンの暑い日に、奥松勇作奥自治公民館長(45)を公民館に訪ねた。

久しぶりの栄集落。まず目についたのが、公民館の建物の体温というか、生き生きしている感じ。建物の小ぢんまりした大きさや色合いもそうだが、シーサー、掲示板、玄関横のテーブルとイス、「避難所入口」「トイレ」の手書き文字などがなんとも楽しい。

玄関横のイスに座って、開拓の碑と「栄ふるさと花園」のある公民館前広場であそぶ子どもたちをボーっと眺めていてもいいし、読書をしても、昼寝をしても心地よさそう。

掲示板には、9月4日におこなわれるエイサー・敬老会のお知らせとエイサー練習への呼びかけ、「栄なつやすみ子ども会」のお知らせ、伊原間公民館でおこなわれた「市立幼稚園・保育所の今後のあり方について」の意見交換会の報告、栄集落にオープンするお店2軒の紹介、などがある。

「栄公民館長・栄公民館役員会一同」の次のような呼びかけもある。
「今年はさとうきびも島バナナも豊作 他の農作物も順調とか 台風のなかったあとはうれしい結果が みなさんの日頃の苦労が実りうれしいことです。すべてが良い結果でないこともあるかも知れませんが まずは喜びをわかち会いましょう! 今年も台風がこないことを願って『豊年万作を祈りましょう』 それにみなさんがご一家そろって健康第一で過ごされます様に 役員一同心より願い祈っております。栄地区が益々繁栄致します様にみなさん一致団結してがんばりましょう」

栄はどんなところですかという質問に、
「これといって無いんですが、みんなが仲良く暮らしている、という感じ」と奥松公民館長がテレながら答えてくれたが、なるほどそれが公民館に現われているんだと思った次第。

役所の資料によると、栄集落の今年3月末現在の人口は46世帯86人(男40・女46)だが、公民館の構成員は35世帯だという。そのうち25世帯を新しい移住者が占める。

「ほかの人にも一応声かけはしますが、時代は変わりましたよね、自由ですから強制的に入ってくれとという訳にもいかず、でも、会員は仲良くやっていますよ」

●昔の栄集落

さて、栄集落であるが、他の多くの北部地区の集落と同様、開拓移民の村である。1954年(昭和29)年6月入植。金城朝夫『ドキュメント開拓移民』は栄集落のことを次のように書いている。

「野底の開拓団のなかでも栄班は最も多くの地域から入植している。入植当時は、美野団、越来団に二組に分かれていた。なかでも越来団は、沖縄本島をはじめ宮古、地元八重山など二一ケ市町村と広範囲にまたがっていた」

入植当時の人口は、美野団40世帯203人、越来団37世帯155人、合計77世帯358人である。1964年(昭和39)10月、隣り合わせの両団は合併して「栄」班となった。

奥松公民館長は1971年(昭和46)地元栄で生まれた。復帰の1年前である。その年、八重山は干ばつと台風のダブルパンチを受け特に農家は大打撃。折から復帰を機に大企業が土地買占めに動き、多くの農家が土地を手放して島を出て行った。パイン景気のピークから数年が経過していた。

栄自治公民館の入植50周年記念誌『開拓』(2012年)によると、館長が生まれる5年前の1966年(昭和41)12月452人であった人口は、生まれた年(1971)の12月には244人、復帰の年1972年12月には211人と半減、その翌年12月はなんと139人に激減している。以後漸減し、これまでで人口がいちばん少なかったのは、1993年(平成5)の23世帯54人である。

ちなみに、奥松館長は野底小学校、伊原間中学校を出て、八重農を卒業して東京の土木専門学校へ。東京に10年暮らしたが、29歳の時に結婚を機に栄に戻ってきた。

子どもの頃の話を。
「あの頃は過疎化で20世帯余り。子どもは今と同じ10人ぐらいでしたかね。親たちは毎日畑仕事。子どもたちも休みの日は畑の手伝い。水曜日は午前授業だったので、午後はみんなで海に行ったり山に行ったり」して遊んだ。

近くのカブルマタ川では、
「川エビやウナギを捕って食べた。パンなどを釣針につけて釣った。エビは丸焼き、ウナギは捌いてブツ切りにして蒲焼きにして」食べた。

ビー玉やパッチンなどもあったが、ゴムカン、弓矢(ギンネムとタコ糸でつくった弓と、ススキの矢)遊びなどもした。

小学生の時は野底校区が遊びの範囲だったが、伊原間中学校に通うようになると、「北は、久宇良、平久保まで。東は星野、西は米原まで」自転車で遊びに行った。

買い物で月に1、2回は街に出た。「バスで行ってバスで帰ってきた」。「漫画を買ったり、そばを食べたり」した。

旧盆の中日にはエイサーがあった。
「親たちが青年の頃は、賑やかにやったらしいですよ。野底地区全部(伊戸名、多良間、下地、兼城、栄)を回って朝までやったらしいですよ。自分たちの小さい頃はやったりやらなかったり」だったという。

●エイサーの復活・栄のこれから

そのエイサーを4、5年前に復活させた。
「大太鼓が3つ、小太鼓が5つ。これを30名ぐらいで代わる代わるやります。地謡は80歳の長老、その人しかできないんですよ」と公民館長。

今年は9月4日午後7時から公民館前広場でおこなわれる。その日は同時に敬老会も開かれる。お年寄りたちをエイサーでお祝いをしようという趣向だ。

このお盆中日のエイサーのほか、主な公民館行事は、
「入植記念日が6月21日ですから、その前後に入植記念祭をやります。僕の小さい頃は舞台で踊りなどがありましたが、今はビンゴゲームをやって楽しんでいます」
忘年会にもビンゴゲームをする。

さて、今後の課題を問うと、
「入植70周年に向けて何をやるかが当面の課題です。60周年の時のように、沖縄本島の郷友会に呼びかけて賑やかにやろうかと話し合っています。また、公民館が老朽化しているので、そろそろ積み立てをと考えています」

再び公民館について。
「この場所は便利がいいので、いろいろに使われています。教育委員会の婦人学級とかはもちろんですが、ときどきは大人たちのバーにもなっています。使うのはみんな村の人ですからね。泥棒はいないし、破壊されることもないし。前の広場もそうですが、子どもたちの集まる場所、遊び場にもなっています」
農協の集荷場にもなっているとか。

公民館の前方に10畳ばかりの2階がある。今は物置になっているが、かつてはここに本が並べてあり、子どもたちの格好の遊び場であったようだ。

「ここから紙飛行機を飛ばしたり、舞台をスクリーンにして映写会をやったり、みんなここに集まりましたね」

ああいいな、と思う。そこも復活させてはどうだろう。昔のように本を並べようと思ったら、今は、図書館が寄贈本をなかなか受け入れられない時代。寄贈する人は多いし、その気になれば難なく本は集まるに違いない。例えば、おそらく栄出身者に声をかけるだけでいい。

栄はやっぱり公民館かなと思う。あけっぴろげで温かい公民館。公民館を拠点にいろんなことができそうだ。かつて越来班は21の市町村からの人々の集合体であった。もしかしたら、みんなをつなげたのはこの公民館ではなかったか。

栄の公民館は、新しい移住者の時代にもとても有効なツールとなり得るのではないか。

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