<日曜の朝に>平良幸範大里公民館長に聞く

●広い敷地の公民館

国道390号線を北に行くと、新石垣空港を過ぎカラ岳を過ぎると左手に大里集落があるが、大里公民館は右手の高台にある。鉄筋コンクリート造り延床面積184平方メートルの立派な建物。2010年3月に完成した。敷地約1ヘクタールの広大な緑の芝生に建っている。

「小学校がひとつ入りますよ」と平良幸範(ゆきのり)公民館長は笑う。この場所は、かつて親たちが大里の子どもたちのためにつくった運動場だったという。野球などのスポーツをしたり、みんなが集まる場所となった。土地は4人の地主が無償で提供した。
「先輩たちは子どもの教育に相当力をいれていましたからね」

現在、集落の人たちがグランドゴルフを楽しんだり、公民館行事で使用するなどしているが、団体や一般の人が合宿やキャンプ、バーべキューなどで活用することもOKだという。
「あんまり宣伝していないんですが、ぜひ活用して欲しいですね」

公民館の舞台がまたすばらしい。舞台後方の戸を開けると、自然の風景を借景した舞台になる。また逆に、建物の外は広い緑の芝生だから、そこに観衆が座れば、舞台は野外ステージとなる。いろいろ活用できそうだ。

高台の公民館は風が通ってとても涼しい。国道の向こうに集落、その右手奥に於茂登岳。左手のカラ岳に光があたっていた。公民館長に大里のいろいろを聞いた。

●草創期の大里

平良幸範公民館長は1948年(昭和23)年大宜味村大保生まれの68歳。両親は計画移民として1953年(昭和28)年3月に大宜味村から大里に入植したが、平良さんが両親の元にやってきたのはそれから2年後、小学校に入学する時だった。

「平良の摘子(跡継ぎ)はあんなジャングルに行かせないとウチのじいちゃんが僕を引き止めたそうですが、親の元でないと小学校入学の手続きができないということで八重山に来たと聞きました」

当時は「いやもう、大変ですよ。昔の写真をみたら、もうアフリカのマサイ族なんかの小屋のようですよ。もちろん茅葺。柱なんか山から採ってきた材木をそのまま。床は竹を編んで、台所は土間だった」

大里部落。
1950年(昭和25)ごろ、宮古島城辺の4家族ほどが自由移民で入植。
1953年(昭和28)3月、大宜味村大保を中心に羽地、越来などから20戸116人(男60・女56)が琉球政府の計画移民で入植。大里の名称は、大宜味の「大」と桃里(入植地名)の「里」をとって命名された。
1958年(昭和33)大里共同売店開店。
1961年(昭和36)簡易水道敷設。
1966年(昭和41)7月、電気点灯。

平良さんが八重山に来たのは大里村創立から2年後、与えられた畑地は一応開拓が済んで、「だんだん開墾して畑を増やしていた時期だった」。

「当時はサトウキビと落花生、それと自分たちの食べる分の陸稲をつくっていました。大きな木の箱に籾を入れて保存し、宮良だったか、精米所に馬車で持って行って、精米させた」

「このあたりの田んぼはみんな白保の人たちのもので、当時田んぼは命でしたから、私たちには譲ってくれませんでしたよ。パインが入ってきたのはその後ですね」

●学校時代

学校は伊野田小中学校に通った。約4キロの道のり。「真面目に歩けば45分から1時間」かかった。朝は小学生から中学生まで全員並んで登校したが、授業が終わる時間が学年で違ったので、帰りは友だち同士で、「天気の良い日は」たいてい海岸沿いを歩いた。

「パパヤ、バンシル(グァバ)、スッパチ(シマヤマヒハツ)なんか採って食べたり、浜にはヤシの実とかいろんなものが流れ着いていたからそれらを拾うのが楽しみだった。寒いときは魚が寒さでプカっと浮いていたし」

ゴムカン(パチンコ)で鳥を撃ち落として遊んだ。
「ウズラは地を這うので命中できなかったね。大きいのは食べたけど、むしろ捕るのが楽しみだった。しかし鳥は養おうとしても必ず死にますね」

学校から帰ると、手伝いが待っていた。
「学校以外は畑。仕事はまったく大人と一緒で、キビ畑やパイン畑の草取りが多かったですね。土曜日なんか、半ドンでしょ。親が畑から見ている。隠れてね、ときどき海に遊びに行きましたよ」

伊野田中学3年の時に中学校が統合され伊原間中学校が開校、そこに通うことになった。だから伊原間中学校第1期生である。伊原間までは路線バスで通学した。スクールバスがあったが、スクールバスは平久保、野底方面からの生徒を乗せた。

●現在の大里

伊原間中学校を卒業した平良さんは沖縄本島の高校・大学に進学。アルバイトで働いていたホテルに乞われて職員となり、大学を1年で中退。石垣島に戻ったのは30歳の頃である。以来、40年ちかく大里に住み市街地に通って働いた。

62歳で会社勤めを辞め、今は、「半農半漁みたいなもの」という。親の代からの土地の半分を耕し、半分を知り合いに貸している。週に1回グラウンドゴルフを楽しみ、天気のいい日はボートで海に出て釣りをする。

「ここは居心地がいいですね。風景は違うけど、ヤンバル(沖縄本島北部)がそのまま来た感じ。住んでいる人間がヤンバルの人が多いからね」という。

平良さんによると、大里村の雰囲気は入植当初から現在まであまり変わっていないという。

「大きな台風のときに、かなりの被害があったけど、みんな言われもしないのに、被害のあった家に集まって修復したり、それぞれ考えて、自分ができることをやってくれる。みんなで。指導者いなくてもいいのよ。これがとてもいいと思う」

実際台風で家を吹き飛ばされて村を出て行かざるを得なくなった移住者が、市営住宅ができたときに一番に応募してきて現在入居しているという。「まっ先に申し込んで戻ってきた」

2017年3月末現在の大里の人口は、62世帯106人(男53・女53)であるが、そのうち「他所からの人は10%に満たない」と平良さんは言う。
移住者との軋轢もないという。「ここに来たらみんな溶け込むよ」

「彼らが率先して炊き出し何かやってくれます。若い姉々なんか子どもをホイホイあやしながら一生懸命手伝ってくれる」

「街なかみたいに隣は何する人ぞということはなくて、みんな知っているから、兄弟親戚みたいにつきあっている。夫婦がどのくらい仲がいいかもわかる(笑)」

悩みは、高齢化が進んでいること。入植時30歳であった人は現在94歳。したがって入植世代の多くは亡くなり、今は2世時代になっているが、当時10歳の人ももう74歳である。68歳の平良さんはまだまだ「壮年」なのだという。

石垣市によると、2016年10月末現在の大里の人口111人のうち、65歳以上の人口は39人で高齢化率35.14%。石垣市全体の高齢化率19.50%をかなり上回っている。

●行事

公民館の主な行事は、新年会、悪虫払い、豊年祭、敬老会などである。

悪虫払いは本島地方でいうアブシバレー。
「ヤンバルからの習慣で、畑や田んぼの畦道を払って、悪い虫を草と一緒に川に流して、どうぞあっちの世界に行ってくださいという行事」。5、6月頃におこなわれる。

豊年祭は最初のうち白保といっしょにやっていたという。
「白保から日取りの連絡がきたら、近くの御嶽(金城朝夫『八重山開拓移民』では「桃里お嶽」、牧野清『八重山のお嶽』では「仲夢御嶽」と記述)でオンプールをやり、ムラプールには招待された」という。

現在は、公民館で日取りをして、「御嶽を上等に掃除して、農産物・果物などをお供えして祈願し、1時間ほど御嶽で酒を酌み交わしご馳走を食べ、それから公民館に移って宴会をしたりグランドゴルフをしたり」と、今は白保といっしょにはおこなわない。今年は7月30日におこなわれる。

「開拓村なので伝統行事はないから、自分たちで楽しむ。賑やかですよ。ご馳走は、自分たちで海で獲ってきたものとかを出し合って公民館で準備する。昔は牛を出す人もいたし豚を出す人もいた」

●大里のこれから

大里のいいところはユイマールの心、協力心があるところだと平良さんは考えている。それはどこでつくられたか。大宜味一心会のつながりではないか。

故郷大宜味村を出て移住した人たちは、各地で「一心会」を組織した。いわば郷友会である。那覇にも一心会はあるし、八重山では、大里、星野、伊野田、明石、久宇良、大富などの大宜味出身者たちが八重山一心会を組織し、年に一度の集まりをもったりしている。

そのつながりが、たとえば大里では、「たいがいの家の庭にテーブルとイスがある。今日は暑かった、一生懸命働いた、とビールを出して一杯やっていると、ひとり集まり、ふたり集まり、月見会になって、これが最高!」となる。

「こっちだけじゃないよ。星野、伊野田、明石の人までみんな知っている。同じ大宜味村だからね。普通に付き合って、同じ部落と変わらない。これが一心会の強みだと思う」と。

だから平良さんは公民館活動の中でもこのつながりを大切にしていきたい。
「昔は公民館の総会、集まりなどのときには、終わったら酒が出たけど、それを復活させようと思っている。飲みながらユンタクやればいろんなことが出てきて、それがいいと思う。いくら喧嘩をしても、何かあるときは協力する」

石垣市に対しては、市営住宅のような集合住宅をぜひつくってもらいたいというのが平良公民館長の望みである。「ここは居心地がいいから、移住者も喜んでくるはず。あと5軒、若者に住んで欲しい。それ以上はいらない」という。

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