<日曜の朝に>石垣喜幸崎枝公民館長に聞く

●帰郷

崎枝の石垣喜幸(よしゆき)公民館長は1975年(昭和50)生まれの42歳。2015年4月、39歳のときに公民館長になった。「石垣市内では最年少の館長」(「八重山毎日新聞」2016年3月6日)である。

父親が崎枝の出身だが、自身は石垣市浜崎町で生まれ、天川幼稚園→登野城小学校→石垣第二中学校→八重山高校を卒業して島を出た。したがって島を出るまで崎枝で暮らした経験はない。

そのころ崎枝には祖父母が住んでいたが、お祝いのときなどの用事で通うくらいで、海で遊んだり、豊年祭など村の行事に参加した記憶もないという。せいぜい「近くのお兄ちゃんと友だちになって、木に登ったり、凧を上げたり」した経験があるくらいだ。

「何にもやることないですから、暇で暇で、退屈で退屈でしょうがなかったですね。親父はしょっちゅう来ていたんでしょうが、僕はあんまり。すごい遠いイメージがあって、遠いなあ、田舎だなあ、と思っていました」

大阪で居酒屋に就職しながら音楽専門学校に通った。その後東京に出て音楽活動とアルバイトをつづけてきた。そして、島を出てから20年。38歳のときに父親から「崎枝の家と土地をどうするか」と電話があった。

「お前が引き継ぐか、処分するか、どうすると聞かれて、考えた。ここが無くなってしまうと、せっかく僕のおじいがスタートした場所がなくなってしまう。親父たちの思い出が無くなってしまうのもちょっと嫌だなと思って、じゃあ40になったら帰る、と」

「過去の思い出とか一つひとつ片付けて行くと、どんどん崎枝の方に目が向いて来て、親父の気持ちとか、おじいがどんなふうにこの土地を耕してきたのかなと思うと、これは、僕の代で無くしちゃいけないなと思った。これまでやりたいことばっかりやって生きてきたので、少しは親孝行もしよう」と考えた。

奥さんはベトナム料理メインのカフェのオーナーシェフだった。奥さんと相談して、「厨房器具などを持って」2014年4月に帰郷。祖父の屋敷に住んだ。「しばらく島の状況を見てみたい」と考えて、友人の居酒屋でアルバイト。奥さんはお土産品店で働いた。

そして1年半後の2016年1月27日にベトナム料理「石垣商店」をオープンした。そこはかつて喜幸さんのおばあさんがやっていた「石垣商店」の場所。店名を引き継いだ。

「引っ越してきていちばん最初に思ったのが、崎枝はどこ行ってもキレイだなあ、ということ。誰の家からもほとんど海が見えるし、山が見えるし、自然もいっぱいあって、星もキレイだし、穏やかでいいところだなと思いました」

「アカショウビン、カンムリワシ、小鳥とかもいっぱいいて、小鳥の声で目が覚める。内地では考えられないことですよね」

●もっと人を

帰郷から1年たってやっと島の暮らしに慣れたころ、公民館の集会で次期公民館長に誰がなるかで揉めた。そこで手を挙げた。そして2015年4月、石垣市でいちばん若い公民館長が誕生したのである。

「僕は死ぬまでここにいるつもりなので、いずれやらなきゃならなくなるだろうからやっておこうかなと思って、それで、みなさんが助けてくれるんだったら僕やりますよと言って立候補したんですよ」

公民館長と同時に、行政連絡員、民生員もつとめることになった。
地域活動の中心にいるとさまざまな課題も見えてくる。現在の大きな課題は二つ。一つは、不発弾保管庫容認の際の崎枝公民館側の要望が実現できていないこと、もう一つは、集落の少子化にともなう学校存続の問題である。

2015年3月に保管庫容認のときの要望で石垣市と合意書を交わした。不発弾の搬送には生活道路や通学路を使用しないこと、不発弾搬送に関する情報を事前に公開すること、県道から保管庫までの道路を整備して幅員を確保することなどを石垣市は約束したが、何一つ実現できていないというのである。

「側溝の整備、道路標識の設置、ガードレールの設置……、やるといいながら、これは県の管轄で市はできません、とかなかなか」と石垣さんは言う。

もう一つの、学校存続については切実な問題だという。
崎枝小中学校は現在、小学生が9人、中学生が8人である。そのうち小学1年生、小学2年生は0人である。

「来年も再来年も入学予定者がいないんですよ。子どもがいないと地域が寂しいじゃないですか。以前に川平校との統合問題が出た時にはなんとか切り抜けたらしいんですが、またその問題がでてきていますね」
崎枝部落の現在の人口は152人(2016年10月現在)である。

どうするんですか。

「崎枝は景色がキレイで穏やかな場所なので、崎枝に住みたい人はたくさんいるんですよ。ところが、土地改良地区になっていて、宅地がほとんどない状態です。ですから、宅地を増やして、そこに団地や共同住宅をつくるとかで人を増やすしかないですね」

子どもが少ないということは若者が少ないということでもある。

「豊年祭でもほんとに人手がなくて、テント設営の時も、お年寄りがご老体に鞭打って上げていたりするので気の毒なんですよ。人が増えればそういうところも全然問題ないですよね」

●地域行事

昔からの行事に豊年祭、龍宮祭(旧暦5月1日)、菊まつり・芋祭り(旧暦9月9日)などがある。子どもの日レクレーション、母の日レクレーション、敬老会、新年会などもある。

「いちばん大きなのは豊年祭。子どもたちが旗頭を持って、それからいろんな人の挨拶、婦人部の踊り、学校の先生・子どもたちの踊り、僕も1、2曲歌うんですよ。だいたい2時間で終わりますけどね」

石垣さんは今でも音楽活動をつづけている。ときどき演奏旅行で島外に出ることもある。7月8日のオリオンビアフェストにはBAGADA BANDの一員として出演、16日には石垣市制70周年記念「島人カーニバル」にも出演する。

公民館事業は、地域の大掃除、公民館の草刈り、花植えなど昔からの定例の共同作業も多いが、ビーチクリーニング、サンゴまつりのような新しい事業もある。

サンゴまつりは3月におこなわれる。NPO石西礁湖サンゴ礁基金と協力して去年スタート。去年は赤土流出防止のためのキビの捕植など、今年は畑にひまわりの種子を植えた。

「公民館は場所の提供と、飲物の販売、集客の協力などいっしょにやっています。ビーチクリーンなども加えて今後も前向きに取り組んでいきたいですね」

●これからの崎枝

「人を増やして学校を存続させるというのがまず第一ですが、人が少ない地域だからこそ、みんな手を取り合って助けあい協力し合っていきたいですね」

「人が増えれば豊年祭も盛り上がるし、子どもが増えたらおじいおばあも元気が出るだろうし、そしたら地域の集まりにも喜んで出て来てくれるだろうし」

崎枝部落に部落会が結成されたのは1949年(昭和24)9月1日。戦後の混乱期、32世帯でスタートした。あれから68年。2年後の2019年は創立70周年である。

「70周年には大きなイベントを計画したいと思っています。先人たちや、崎枝にゆかりの人に話を聞いたり、崎枝の将来についても話し合っていければいいなと思っています」と石垣さんは言う。

石垣さんのお店「石垣商店」は崎枝部落の入口にある。その手前の広場に入植記念碑がある。入植30周年を記念して1979年(昭和54)に建てられた。記念碑にはむかしの豊かな崎枝を歌った民謡・繁昌節が刻まれている。

だんじゅ豊ゆまりる
崎枝ぬ島や
黄金岡くさでぃ
田ぶく前なし
うやき繁昌
勝る繁昌
且つまたた弥増し

碑には、入植30周年記念事業の内容と期成会役員名も印されている。会長は石垣蒲戸。石垣喜幸現公民館長の祖父である。

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